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2005年04月30日

icon雑草


 マリの思い出に心がばちゃばちゃと掻き乱されたお蔭で、昨日は書こうと思っていた話をすっかり放り出してしまった。書きたかったのは、私の知識不足の所為で雑草取りも中々に困難な作業である、ということだったのである。簡単に表現すれば、雑草とは何ぞや、ということになろうか。
 私自身の草花に関する知識といえば、極めて浅薄なものでしかない。何しろ、庭いじりと言ったって、庭いじり自体が目的というよりは、マリの思い出に触れることがそもそもの主眼だったような訳である。尤も、今では、庭いじり自体を大きに楽しむようになった、ということは、声を大にして言っておきたいけれどね。そんな庭いじり界に於いては駆け出しの私を悩ませるのが、雑草問題なのである。陽当たりが良い所は当然として、陽が然して当たらぬようなところでも、放っておけば、いつの間にか、あれこれの草花に埋め尽くされる。私は大してあれこれと手を尽くしている訳ではないので、余程、マリが作った土が良いのか、それとも、この場所が草木にとって程好い具合の場所なのか。兎にも角にも、手をかけても枯れてしまって……などということのない、謂わば、苦労知らずの小庭であり、私のような「ど」がつく素人には実に有り難いものである。それも、有り触れたものばかりを育てているからかもしれない、という気がしなくもない。偶に覘く商店街の花屋でも、あの耄碌じいさんにはややこしいものなんざ、育てられっこないんだからね、放っておけば良いようなものばかりを教えてあげないとね、などと、夫婦で相談していないとも限らない。向こうだって、私よりは若いとはいえ、良い歳なんだけれどね。まあ、仮に私の妄想通りだったとしても、御親切は有り難くお受けしておこう。
 ところで、何の話だったのか、というと、雑草である。雑草ですよ。放っておいても、緑がすくすくと育つのは良いのだけれど、そのままにしておくと、庭というよりは草茫々の空き地の如き様相になる。それで、マリがやっていたように、私も雑草と思われるようなものを取っていこうと思う訳である。ところが、それがね、中々どうしてうまくいかない。いざ、腰を下ろして、さあ、雑草を抜くのだ、と思うところで、はて、どうしたものか、ということになる。わいわいわいわい草花が過剰にぎゅうぎゅう詰めになっているのは明らかなのだが、さて、では、どれを抜けば良いのやら、と。マリの作業を思い浮かべ、これは抜いていたように思うがなあ、と思い出せるのは、ほんの幾許か。絶対の自信を持って、これは抜いていたぞ、と明言できるのは十薬だけである。それで、まずは、それだけ抜いてみるのだけれど、未だ未だ未だ未だ、人口ならぬ草口は余りに過剰であり、もそっと雑草取りに勤しむことが必須なのは歴然。しかし、どれが雑草なのか、ってね。そこに突っ立っていても、腰掛けていても、状況は何も変わらないので、取り敢えず、部屋に戻り、植物図鑑をひっくり返してみたりするものの、その内、ああ、面倒だ、もうどうでもいいや、と呑み始めてしまい、何も解決しやしない……てな具合で、今日もまた陽が高いうちから澤乃井ですよ。蒲公英は雑草なのか否か、なんぞと呟きながら。はは、相変わらず莫迦なじじいだねぇ。

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2005年04月29日

iconマリの庭


 涼しいうちに、と、朝から庭いじり。庭いじりと言ったって、陸な知識がある訳ではない。しかも、同じ姿勢で長く座っていると、腰と膝がすぐに痛み出してしまうので、ちょいと腰掛け草毟り、どっこいしょ、と立ち上がって、腰に手を当て伸びをして、一休み。またちょいと腰掛けて……といった具合であるからして、捗らないこと甚だしい。まあ、然して広い庭ではない訳だし、其れ程の情熱がある訳でもなし、この程度の、のろくさとろくさした仕事振りで丁度良いのである。
 私の庭仕事の中心は、雑草取りにある。雑草取りなんざ、他愛ないことさね、とお思いになられる方も少なくなかろう。けれども、これが私にはなかなかの難事業なのである。というのも、知識が大幅に不足しているのがいけない。そもそも、マリの遺した気持ちを何とか繋いでいこうと思って始めたこと、当然、あれこれの流儀もマリ式にしていこうと思うのだけれど、これがね、意外に難しい。彼女が庭いじりをしているのをもっとよく観察しておくべきだった。いやいや、観察などではなく、彼女の庭いじりを手伝ってあげれば良かったのに、と、如何にも後の祭り。世に言う、後悔先に立たず。そうしていれば、私の現在の知識がもそっと増しであったに違いない、ということよりも何よりも、横に並んで二人で一緒に庭に向かっていたら、彼女がどれ程喜んだろうか、と思う。彼女の喜ぶ顔が容易に思い浮かべられるだけに、そうしなかった我が身が口惜しく、申し訳なく、実に残念に思う気持ちで一杯である。けれども、彼女が亡くなっていなければ、今でもこんな心境にはなっていないかもしれない、とも思う。そういう意味では、私を遺してとっとと逝ってしまったマリが悪いのだ、などと、逆恨みも甚だしい。孝行したい時に親はなし、という諺があるけれど、私の場合、孝行したい時に妻はなし、というところである。まさか、彼女の方が先に亡くなるなんて思いもよらなかったですからなあ。今頃になって、大きに後悔している莫迦な老い耄れであります。

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2005年04月28日

iconCD46枚分8


 蜥蜴、蜥蜴と言い習わしてきたけれど、蜥蜴にもあれこれあるのですな。先日の、ちび公くんに酷い目に合わされていた、彼の者は、本当は蜥蜴ではないことが判明した。『新世紀ビジュアル大辞典』で、また一つ、新しいことを学んだ訳である。あれは、金蛇というもののよう。蜥蜴てえ奴は、もそっとぴかぴか光沢を持っており、金蛇と比べれば幾分色鮮やかな印象。勿論、金蛇だって蜥蜴の一派なのだけれどね。近頃私が見かけるのは、全て金蛇なのですな。記憶を辿ると、我が幼少時にはつやつやと輝く蜥蜴もたくさんいたことを思い出した。蜥蜴も金蛇も一緒くたに蜥蜴と呼んでいたのですな。子供社会では大差ない扱いであったのですよ。けれども、今ではこの界隈からは姿を消してしまったようだから、恐らく、今の子供たちにとってみれば、蜥蜴は貴重な種ということで、人気があるかもしれない。尤も、今時の子供たちは蜥蜴なんぞに興味はないかもしれないけれど。

 金蛇には金蛇の、宇宙猫には宇宙猫の、そして、老い耄れには老い耄れの、それぞれの人生があり、それぞれの価値観がある。だから、金蛇を玩ぶちび猫の姿を批判することはできない。金蛇が喜んでちび猫の遊び相手になってやっているという可能性だって、全くない訳ではない。何しろ、猫の心も、金蛇の心も、私のような鈍感な人間には計り知れないのだから。それに、遊びに飽いたら、金蛇のことなんぞ忘れて、とっとことっとこ、どこか別のところへ遊びに行ってしまったかもしれず、金蛇は、やれやれ、全く子猫てえやつは質が悪いね、などと、ぼやきながら、尻尾を失くしはしたものの、存外元気に自分の巣に戻っていったかもしれないではないか。
 孰れにしても、この自然界の全ての出来事を理解しようなんてことは、端から不可能なことなのであって、そこにある現実を、ああそうですか、ほほぅそんな具合ですかねえ、と受け止めるしかないのかもしれぬ。尤も、それは自然界に限ったことですけどね。人間のやることは、話が別だ。人間てえものは、自然界からやってきた筈なのに、いつの間にか、壊れてしまった。もう今では「自然」という言葉には人間は含まれておらんのであります。善いことなのか、悪いことなのか。判然としないけれど、兎にも角にも、無条件に信じたり受け容れたりはし難い存在になってしまったことだけは確かである。戦争をしたり、あるいは、戦争をしたり、また、時には戦争をしたり、そうかと思うと、忘れた頃に戦争をしたりしてね。環境を汚染したり、あるいは、環境を汚染したり、また、時には環境を汚染したり、そうかと思うと、忘れた頃に環境を汚染したり……ああ、限りがない。嫌な世の中だねえ。

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2005年04月27日

iconCD46枚分7


 徒然と、本日も『新世紀ビジュアル大辞典』をあちこち拾い読みしている。当たり前のことだが、七十余年生きてきたとて、世の中は私の知らないことに満ち溢れているのである。勉強になります。尤も、今更、ちっとやそっと勉強したって、賞味期限は自ずと限られている。そういう意味では、私なんぞより、お若い人たちにこそ勉強してもらいたいものだ、などとね。考えてみれば、この硬化した脳みそといえば、覚えることよりは忘れることの方が多いだろうから、少しぐらい新しいことを詰め込んだとてどれ程の効果も期待できない。まあ、それでも、あっちを突っつき、こっちを突っつきして、ほほぅ、なるほどねぇ、などと、目新しい知識を楽しんでいる老い耄れである。
 どんな辞典だって万全ではないのは仕方のないことだが、この辞典で腑に落ちないのは、四十雀の声である。私の耳が聞き慣れているものと、このCDの中に収められているものとでは、随分、違いがあるように思われる。文字で表せば、ツピツピツピツピーてな具合で、大差ないのだが、どうも違うね。先日、赤い秘密兵器で録音したものと聞き比べてもやはり違う。杉並の四十雀の方が良い声じゃないかね。そんな気がする。一体、この辞典の中の鳴き声はどこの四十雀のものなのでしょうな。もしかすると、関西弁だとか、九州弁だとか、鳥の世界にもそういうものがあるのだろうか。
 またまた話が取っ散らかりますけれどね、郷土の訛りの痕跡というのはなかなか根深いものであるらしいですぞ。私は、この杉並で生まれ育ったものであり、杉並弁というのか杉並訛りというのはあるけれど、概ね、東京弁で話しているつもりでいるし、人にもそう思われているのではないか、と思う。けれども、二十年ほど前だったろうか、訛りを研究している国語学者の先生にお会いする機会があったときに、茄子彦さんの御先祖は二代か三代前には東北なのですねえ、とさらりと言われたのである。顔を合わせて、ものの十分ほどのこと。腰が抜けるほど魂消たのは、元を辿れば私の御先祖様は東北の出であるからである。この人は、超能力者なのか、それとも、私の言葉、私の喋りの中には、うっすらと先祖伝来の東北の言葉の名残があるということなのか。何とも不思議な、狐に抓まれたような心地がしたのであった。四十雀のお陰で、突然、妙なことを思い出しました。

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2005年04月26日

iconCD46枚分6


 『ご存じ古今東西噺家紳士録』でコンピューターのCDの味を占めて、注文してあった『新世紀ビジュアル大辞典』が届いたので、あれこれ弄ってみている。これはなかなか便利ですな。例えば、先頃新聞で話題になったキルギスという国を調べてみると、文字による説明ばかりでなく、国旗や地図を見ることもでき、国歌を聴くこともできる。今までだったら、キルギスてえところがあって、大変なことになっておるのだなあ、と、非現実の世界とまでは言わないものの、遠い世界での出来事に過ぎなかった。実際、遠い世界での出来事なのではあるけれど、こうして、情報を学ぶと、ニュースが流れたり、新聞で記事を読んだりする際に、少しは現実感を伴って接することができるような気になる。幼稚ですかね。
 鳥も大変面白い。絵や写真が見られるだけでなく、鳴き声が聞けるのが素晴らしい。美しい声の例えにカナリアがよく使われる。カナリアのような歌声が……てな物言いがあり、そして、それを読んでわかったような気でいたけれど、よくよく考えてみれば、カナリアの声なんざ聞いたことがなかったわけでありますよ。それが、今は、違う。カナリアのような歌声が……なんてのを読むと、ふむふむ、ああ、あの、声ね、あの、ひょーひょーひょー、ひよっ、ひよっ、ひよっ、というような鳴き声だな、と。
 しかしだね、よく考えると、そんなことを思いながら、本を読む必要はないし、本物のカナリアの声なんぞ知らなくとも、作者の言わんとするところはわかるわけだし、そもそも、書いている作者自身がカナリアの鳴き声を聞いたことがない、ということさえあるやもしれぬ。こんなことを考え始めたら、少々鼻白む思いがして、有り難みも半減してしまいそうだが、いやいや、やはり、本物のカナリアの鳴き声を知っていて、損はない。損はない筈である……と、思ったけれど、よく考えると、カナリアの声を知らない自分には、カナリアのような歌声が……という文章を読むと、夢のような、天から宝石が降るような、音や有り様を想像することも可能だったわけで、実物を知っていると想像に限界ができて物足りない、ということもあるかもしれない、という気がしてきた。いやいや、作者がカナリアのような、というのだから、天から宝石が降る、なんぞ、と想像する方がおかしいのである、とも思われ……ああ、何だか頭が痛くなってきた。一杯引っ掛けて、さっさと寝てしまおう。結局、私にとって大切なのは、真実だとか知識だとかよりも、一杯の澤乃井なのであります。

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2005年04月25日

icon集中中


 福寿庵で天抜きと清酒。近頃じゃ、跡継ぎ息子も気が利いてきて、酒と言えば、黙って、冷で澤乃井を持ってくる。本日は、坂本くんは不在の様子。息子くんによれば、近頃は音楽熱が盛んだそうである。あれこれとCDを買い込んでは、轟音で聴いている、とのこと。尤も、轟音なのは耳が遠いせいだろうけれども。田村師匠の影響がこんなところにも出ておるのだろうか。師匠もちょくちょくここで笊を啜っておるという。友人と友人が知り合って友人の輪が広がるのは、何とも嬉しく、少々鼻が高い気すらするものである。然り乍ら、その一方で、私の知らないところで、二人の親交が厚くなってゆくのは、何だかちょいと嫉ましいというか何というか。じじいのくせに、しかも、男友達に何を嫉妬しているのやら。全く以て莫迦である。
 散歩がてらに、ぶらぶらと遠回りしながら、歩いていると、広場の草叢で、宇宙人面したちび猫を発見。ぴょこぴょこ兎みたように跳ねたりしている。変わり者だね。おーい、だの、君ぃ、だの、ちび猫くんよ、だのと呼び掛ける。いつもなら、振り返り、機嫌が良ければ、にゃあ、と返事が来るところ。しかしながら、本日は、私の声に何の反応もしてくれない。もう一度、呼んでみる、おーい、ちび公くんよ、と。しかし、この度も全くの無視。無視。無視。まあね、考えてみれば、私が声を掛けたからといって、返事をしなければならない、という義理がある訳ではないのである。何しろ、先様は余所様のお宅に飼われておる猫である。けれども、たまには蒲鉾を分け合う仲であるわけで、振り向くぐらいしてくれても良いのではないか、とも思う。兎にも角にも、一体、何をしているのか、忍び足で近づいてみた。すると、あれですよ、蜥蜴です。尻尾が切れて、尻尾は尻尾でくねくね動いている。これが世に言う蜥蜴の尻尾切りなんでしょうな。尻尾の切れた蜥蜴を見たことはあったけれど、切り立てほやほやでくねくね動いている尻尾を見るのは初めてである。思ったほど、不気味ではなく、寧ろ、不思議な感じか。しかしながら、折角の尻尾切りも、今回は奏功しなかったようである。ちび公くんは、蜥蜴本体に夢中な様子。撫ぜるように柔らかく触っては、自分が飛んで下がったり、何がしたいのか判らない。兎にも角にも、殺したり、食べたり、ということが目的ではないようである。要するに遊びなのか。しかしながら、遊ばれている方は堪ったものではないので必死に逃げようとするのだが、宇宙猫くんは、行き先を塞いでしまう。残虐なようではあるけれど、猫としての本能がさせていることだと思うと、残虐だ何だというのは人間の勝手な思い込みに過ぎぬとも言える。ううむ、難しいところですな。五、六分程、あるいは、もう少し眺めてみたけれど、集中中のちび公くんの集中振りは途切れそうになく、何となくもやもやした気持ちのまま帰途についた老い耄れである。

春の苑 猫の戯れ 胸痛し
 生まれながらのものと思えど

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2005年04月24日

icon独り言つ


 今日もに輝く文明の利器を懐に入れて、近所をほっつき歩く。若先生の御指導通り、のんびりのんびりゆるゆるぬるぬるとね。まあ、御指導頂かなくたって、走ったりできる訳ではない。精々頑張ったところで、すたすたと早歩きという程度。しかも、それだって、小学生にすら、昔々あるところにのろまなお爺さんがおりました、と評さかねない程度の早さ、いや、遅さである。
 本日は陽射しが心地よく、緑が喜んでいるのが手に取るように判る。ところが、鳥の声はあまり聞こえない。連中は、もうちょっと涼しい方が良いのかしらん。それにしても、新緑の季節というのは嬉しいものである。限りない未来と希望に溢れている。私の如き未来などほんの僅かしか残っていない者にとってさえ、そう思えるのだから、お若い人たちの中には、この緑豊かなこの木々や草花から多くの力を得ている方だって少なくないだろう。尤も、若い頃には、存外、草花だの鳥だの自然だのってことには興味が湧かないものであるのも事実でありましょうな。実際、私だって、若い自分には目の前にあったとしても緑や花なんぞには目が向かなかったものである。それに対して、マリは草花が好きでしたよ、若い時分から。このちっっぽけな庭にあれこれ植えて育てて。今、私のような懶で、かつ、不器用な老い耄れが、ちょこちょこと庭いじりをしているのも、妻の遺志を継いでのこと……いやいや、そんな恰好の良いものではない。暇を持て余した老人が話し相手がいないので、草木や鳥や猫に話し掛けているだけのこと。

風光る 妻の遺した ジャルディネに

 気が向いた時に、草を毟り、水を撒く。たったそれだけの手間しか掛けていないのだけれど、その一手間のお蔭で、花や草をもっと好きになり、身近な存在のような、仲間のような、少しは連中の気持ちが判ったような気になる。全く以て、人間というやつは何とも手前勝手な生き物である。いやいや、人間という括りは大き過ぎる。全く以て、茄子彦というやつは何とも手前勝手な生き物である。

投稿者 nasuhiko : 20:04 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月23日

iconとうとう


 今朝も早くから起き出して、秘密兵器を脇に置き、鶯の登場を待った。待ったのである。待ったのであるけれど、現れなかった。むむむ、とうとう彼奴は去ってしまったのであろうか。そうでしょうな。そもそも、こんな春が深まっても里をうろうろしている方が変わり者なのであって、鶯と言えば、もっと春浅き時期のもの。梅に鴬なぞという物言いがあるぐらいでね。そうは思うものの、結局、録音に成功したのはあの一度きりであり、些か残念である。けれども、そういうものなのだ。そういうものなのであるよ。この国にはきりっとした四季があるのであって、それが果無さを尊んだり、時の移ろいを味わったりする心を、私らに与えてくれるのである。そう考えれば、鶯が町を去り、山に帰ったことは有り難いぐらいである。録音できたのできないだのと、みみっちいことで愚痴を溢すなんざ、全く以てみともない。そこへ直れ、貴様の如き、女々しい者は日本男児の風上には置けぬ、一刀両断にしてくりょう……と、こんな乱暴なことまで考える必要はない。それに、女々しいだなんてことを言っては、男女同権の御時世では叱られてしまいましょう。まあ、兎にも角にも、鶯くんが無事に山に帰り、また、来春、この界隈を訪うてくれることを祈念して、乾杯しようではないか。
 それにしても、天気が良いと、酒が美味い。寒い時期にきゅうっとやる酒も良いし、暑い時期のぴしゃりと冷えた酒も良い。けれども、この春のほんわかのんびりした風の中、ゆるゆると呑む酒は格別である。この世に四季があるのは有り難いし、清酒があるのも有り難い。風が吹くのも有り難いし、ぬくぬくと陽が射すのも有り難い。鶯の声が一度だけとはいえ録音できて有り難い。澤乃井に揺られて良い心持ちになてきたお蔭で、あれやこれやに、素直に感謝の気持ちを抱ける老い耄れである。
 そうそう、今日はツピツピツピツピーという鳴き声が録れましたよ。あれは四十雀だろうかね。それと、ヘリコプター。まあ、こいつには季節もへったくれもないし、風情の欠片もないけれどね。物の序でに録ってみた次第。普通に聞いても騒々しいが、マックの中でも騒々しい。味が悪いね、ヘリコプターてえやつは。

鶯と暫しの別れに 祝い酒
山の栖に 無事に帰れよ

投稿者 nasuhiko : 18:08 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月22日

iconぱっとしない


 天気優れず。鶯の声も、今日は全く聞かれない。なあに、鶯ばかりが鳥じゃあるまいし、と、秘密兵器を持って、表に出る。風が強く冷たいのに些か驚く。長閑な春の温もりに慣れてしまったせいか、身に滲みる寒さである。天気予報では晴れだと伝えていたのだが、雨雲も集まり始めている。時々、晴れ間も覘きますがね。突然、ぱらぱらと降ってきたと思ったら、すぐに止んだり。何だか纏まりのない空模様である。のろくさ歩いていたら、宇宙人面した猫が広場の隅でごそごそやっておる。やあ、だの、君、だのと声をかけても、まるで耳に入らぬ様子。
 少しく散策するけれど、こんな時には鳥たちも気がすうっとしないのだろう。聞こえてくるのは、高きを舞う鴉のかあかあいう声ばかり。録音すべきものが見当たらない。いやいや、聞き当たらない。雲間から漏れ出ずる光では少々暗く、写真を撮る気にもなれない。考えてみれば、こんなじじいが赤い録音機や青いカメラを手にして、下駄履きで近所をうろうろする図なんざ、妙でしょうな。まあ、極々御近所の皆さんは慣れておるだろうけれども、見知らぬ人が見たらびっくりするかもしれない。モダンなじいさんだね、と。いやいや、そんな訳はない。ああ、おつむの緩んでしまった可哀想なおじいさんなんだね、と。自嘲の風味で書いてみたけれど、これが世の目に映る我が姿の真実なのかもしれむ。そう思うと、情けないような、やけくそで自慢したいような。
 肌寒さ故に膝が痛み出し、早々に引き上げる。昼飯代わりに買い置きの心太を食して、ごろり。師匠にお借りしている『アリーナ』をかけて昼寝でござる。昼寝に最適、などというと、失礼かもしれないが、いやいや、この静けき美しさは、聴いて良し、寝て良し、聞き流して良し、という具合。巫山戯ているのではなく、真実、そう思うのですぞ。
 午後になって起き出してみたら、何だい、気温が上がってきているね。晴れ間も多くなったようである。けれども、こんな時間になってしまっては、鶯の鳴き声を収めようと言っても無理な相談。ぼろ庭で耳を傾けても、やはり。遠くで鴉の声がするばかり。明日があるさ、と言いたいところだけれど、明日も未だ鶯が現れるや否や。いやいや、鶯ばかりが鳥じゃない、と申し上げた筈。兎にも角にも、明朝、晴れることを祈念しつつ、杯を傾ける。それにしても、何ともぱっとしない一日であることよ。

花冷えの 雲の切れ間に 鴉のかあ

投稿者 nasuhiko : 18:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月21日

iconまだおりましたが……


 塵を出して戻るところ、鳴きましたよ。ホーホケキョ。おお、未だいてくれたのか、と、慌てて荒屋に戻り、秘密兵器を手にして表に出る。奴さん、また、随分と高いところで鳴いておる。ホーホケキョ。昨日、あれほど練習したのにもかかわらず、いざ鶯を目の前にしてあたふたするばかりでなかなか思うようにいかぬ。むむむむ。しかし、あれこれやっているうちに、どうにか動き出した。早速、鳴き声のする方に向けて、ぴかりと赤くてちっちゃな機械を向ける。時間が時間だけに、通勤する人々、通学する若者たちが足早に通り過ぎる。無論、ただ通り過ぎるだけでなく、茫と突っ立って高い木に向けて手を翳している老い耄れを一瞥。ああ、可哀想なじいさんだね、とでも言いたそうな眼差しである。ふん、判らん人々には判られんでも構わんわい。兎にも角にも、静かに通り過ぎてくれ給え。鶯を脅かすことなく、この機械の中に、自転車のぎーこぎーこと進む音が入り込んだりしないようにね。
 息を殺して、静かに録音。録音を始めると先様が鳴き止んでしまったり、ホーホケキョと、こう、何と言うのか、あああ、止めるとホーホケキョ、と気が合わなかったりするものの、録っては止め、あれれ、ホーホケキョ、録っては止め、と何度か繰り返す。
 さあ、兎にも角にも、マックにさしてみようではないか。おお、一杯録れておりますなあ。早速、順番に聴いてみる。これが、微妙なのである。かちゃかちゃ金属音が入っていたり、風の音らしきもの、衣擦れのような音、などなどなど、余計なものがたくさん録音されておる。勿論、鶯の声も入ってはいるのだけれど、小さい。かなり小さめである。しかしながら、一回目の挑戦としては、立派なものだ、と思おうではないか。さて、問題は、これをどうすれば良いのか、ということである。絵や写真なら、何とはなしに扱い方が判るものの、音のものはどうすれば良いのだろう。要らないところを切ったり貼ったりできるのだろうと思うものの、操作方法が如何な見当がつかぬ。今日の分は、全部捨ててしまって、明日からまた挑戦して、録音状態の良いものを用意するのが先決かとも思うけれど、明日も未だ鶯が鳴くのかどうか、それは誰にも判らぬ訳で、そうなると、この遠くで小さく聞こえる鳴き声だって、貴重なものではないか、と。もやもやと纏まらぬ考えを肴に呑み始めてしまった。明日は明日の風に任せるとして、今日のところは、これ以上余計なことはせずにホーホケキョ。

鶯の歌 雑音の間から

投稿者 nasuhiko : 18:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月20日

icon鶯がいるうちに……


 田村師匠が昨日訪うて下さったのは、交換音楽のためばかりではない。一番の目的は、私の呟きに応えるべく、鶯の声を録音してマックの中に入れる道具を買ってきて下さったのである。驚きました。このクロスセブンという赤くてちっちゃな代物で外界の音を録ることができ、かつ、マックに差し込むだけであれこれできるようになるのである。文明はここまで進んだのか。この小ささは、比較するなら、何でしょうな、百円ライターというもの、あれぐらいでしょうかね。いや、あれよりは大きかろう。ううむ、俄には信じ難かったのだけれど、師匠が説明がてら実演してくれたのであるからして、現実なのである。
 自分独りで同じことができるのかどうか、と、早速、本日試そうと思っていたのだが、間の悪いことに雨である。鶯が鳴く訳がない。他の鳥だって、宇宙人面した猫だって、現れる気配がない。仕方がないので、自分で、そのちっこい機械に向かって喋って、録音することに挑戦した次第。ところが、これがなかなかうまくいかない。師匠はあんなに簡単そうに扱っていたのだが、この老い耄れときたら、手先が不器用な上に脳みそまで不器用なもので、弄れば弄るほど訳がわからなくなる。情けない気持ちに襲われながらも、懲りずに、説明書と首っ引きで、かれこれ一時間ほども格闘した結果、何とか仕組みが理解できた。判ってみればどうということもないような気もするものの、暫く使わなかったら、またすっかり忘れてしまいそうな気もする。まあ、そうしたら、また格闘すればよいのである。
 いざ、録音という段。こんなちっぽけな代物に向かって独り言つ姿、傍から見れば、全く以て笑止以外の何ものでもなかろう。しかし、こういう時、うまい言葉が出ませんな。「ああ。ああ。マイクのテスト中」と、典型の中の典型ですよ。しかも、冷静に考えれば、マイクをテストしている訳ではない。録音機能をテストしているのである。まあ、そんなことはどうでも良い。そして、マックにさしてみた。すると、画面に出てきましたよ。ダブルクリックするとマックから「ああ。ああ。マイクのテスト中」としょぼくれた声が聞こえてきた。はは、馬鹿馬鹿しいけれど、何となく愉快である。三度も、己の、言ってみれば、棒読みの台詞を聞いてしまった。莫迦だね、全く。
 あとは、明日、晴れるのを待つのみ。そして、鶯の声を録音するのである。しかし、少しく心配ですな。この雨を機に、鶯がもう来なくなってしまったりしないか、と。春も大分深いもの。

春雨の間の悪き 鶯何処

投稿者 nasuhiko : 19:19 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月19日

icon交換音楽08


 田村師匠来訪。インフルエンザで寝込んでいる折に大変お世話になったことを、今頃になって、しかも、先方からお越し頂いたところで、御礼を申し上げる。全く筋の通らぬ話でお恥ずかしい限り。
「最近、ぱっとしないようですね」老耄日記を懲りずに読んで下さっておるのである。忝ない。「何だか、くさくさしましてねえ。陽気が陽気になってきたって言うのに、気が晴れませんな。どうも躰の方が本調子じゃないもので、気分も、何とはなしに沈みがちなんですよ。まあ、寧ろ、このぐらいの方が老人らしくて丁度良いぐらいかもしれませんがね」「無理してはしゃぐこともないじゃないですか。自然にしているのが一番ですよ」優しいお言葉である。不覚にも涙が出そうになった。
 考えてみれば、気が晴れないということを気にする余り、ますます気が滅入るという悪循環に落ち込んでいたことは確かである。それより何より、話し相手がいるということが、何とも有り難い。独りでいる時だって、独り言は滝のように零れ落ちるし、宇宙猫や木々や草花、鳥なんぞに向かって話し掛けたりしてはいるわけで、全く口を開かないというわけではないけれど、生身の話し相手がいるのとは大きに異なるのである。しかも、師匠は聞き上手というのか話し上手というのか、口重の老い耄れから言葉を引き出すのが大変巧い。あれこれと由無き事を遣り取りするうちに、すうっと心が晴れていくのが感じられる。感謝至極。勿論、早い時間から傾けた澤乃井が舌と心を滑らかにしてくれたことも忘れてはならない。暫く振りに、気持ち良く、心底美味しくいただけましたとも。
 師匠が本日貸して下さったのは、『アリーナ』という、水色に薄い緑を混ぜたような何とも上品な色合いの美しい紙のケースに入ったアルバムである。「心が落ち着きますよ。いい感じにリラックスできます」と仰る師匠の言葉に偽りがある筈などない。アルヴォ・ペルトという、名前すら耳にしたことのない、現代の作曲家の作品であるけれど、妙な不協和音や仕掛けなどない、淡々と静けさの中に進む音楽である。現代音楽ということで聞く前に身構えてしまった己が莫迦みたいである。いやあ、素晴らしい音楽ではないか。空気が透明になっていき、もわもわと淀んでいた気持ちなどどうでもよく思えてくる。狭量な自分がどこかに飛んでいってしまった。
 私の方からも、今回はクラシックだけれど、少しは現代的なような、同じく透明で静かな、高橋悠治のバッハをお貸しした。タムゾー先生の耳に合いますかどうか。

春の月 音降り注ぎ 心澄む

アルヴォ・ペルト: アリーナ』 高橋悠治『プレイズ・バッハ

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2005年04月18日

iconまた謎の物体2


 証拠写真が撮れなかったので、幾許かでも、雰囲気を伝えようと、暫く振りにタブレットに取り組んだのであったけれど、相変わらず、難しいですなあ。あの下手っぴいのぴーぴきぴーの謎の物体の絵を描くのに、何と四時間半も費やした老い耄れでござい。四時間もよく頑張った、とも思うのだけれど、四時間かけてもあんなものしかできぬのか、とも言えるわけで、そう思うと、情けないことこの上なし。多少の絵心を持っているつもりであったけれど、大きに疑わしくなってきた。今暫く修練を積まねばならぬ。
 それにしても、あの物体は何だったのだろうか、と顧みるに、少なくとも、私の七十余年の人生に於いては未知のものであることだけは確かである。プロペラのないヘリコプターはないし、あのような妙な動きをする飛行機もない。そもそも音を立てずに飛ぶものなどあるのだろうか。ヘリコプターを比較した限りでは、然程小さくはなかったように思える。いや、寧ろ、かなり大きかったのではないか。ううむ。それにしても、気にかかるのは、私以外に誰も見ていないのか、ということである。不思議だ。もしかしたら、他にも見ている人がいるのに、宇宙船を見ましたぞ、などと騒ぎ立てると癲狂院に放り込まれかねない、と自重して、心の中にしまっておるのではないのか。そんなことを思う。仮に、私がもっと若かった時代、例えば、勤め人をしておった頃であれば、謎の飛行物体を見た、なぞと訴える気にはなれなかったかもしれない。マリにだけこっそりと伝え、君だけが信じてくれれば僕はそれでいいのだよ、などと、気取ったことを言ったりしてね。自分で書いておきならがら照れ臭いなんて、全く以て莫迦である。老人のしょぼしょぼした目に映るほどの大きさなのだから、多くの人が見ていて然るべきだと思うけれどね。

 あの場面を頭の中、心の中で反芻しているうちに。東から現れたヘリコプターは件の物体を追跡していたのではないか、という気がしてきた。国だか都だか、自衛隊だか警視庁だか判らないけれど、あのヘリコプターの主は、謎の物体の存在を認識しておるのかもしれない。知っていながら、公表せずに静かに追跡している。そんなことがありえるだろうか。あれこれ想像すると随分と恐ろしい話のように思えてきました。

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2005年04月17日

iconまた謎の物体


 またこんなことを書くと、最近、あのじいさんの妄想が酷いねえ、などと笑われる恐れがある。けれども、まあ、実際に見た、というか、見えたものを見なかったことにするのも、如何なものか。尤も、厄介なのは、私自身は確実に見たと思っているのだけれど、実は、それは錯覚だったり妄想だったりする可能性がある、ということである。それを防ぐには何と言っても証拠が必要なのだ。又もや後悔至極なのだけれど、写真を撮り損なった、愚かなじじいである。前回の経験が全く活かされていない。いや、全く活かされていないというのとは、少々違う。謎の物体を発見して、暫し呆然とした後、そうだ、カメラだ、と、気づきはしたのである。慌てて、愛用の青いデジカメを持ち出してきて、撮影しようとしたのであった。ところが、カメラを構えると謎の物体が見えなくなってしまうのである。カメラを目元から外して、空を直接見上げれば、そこには依然として、其奴は存在し、動いている。けれども、カメラを向けて、画面のところを見ると、あまりに小さ過ぎるのかどこにも映っていない。カメラを退けて、空を見れば、やはり、見える。埒が明かないので、当てずっぽうでカシャカシャとシャッターを押してみたけれど、あとで、マックに繋げてみたところ、何も映っていなかったのである。ううむ。無念。これでは、妄想や幻覚ではない、ということを人々に伝えようがない。
 皆様におかれましては妄想老人の幻覚だと思っていただいてかまわない。かまわないけれども、兎にも角にも、その未確認飛行物体が如何なるものだったかを記したい。
 昨十六日の午後、そうさね、二時頃だったろうか。鳥たちの囀りに耳を傾けながらぼんやりと外を眺めていたら、遠くからヘリコプターのババババという音が聞こえてきた。全く近頃は毎日低いところを飛びやがって、五月蝿くて仕様がない、と些かの立腹。小鳥たちは脅えてしまい、すっかり押し黙ってしまった。空を見上げると、そこに、ヘリコプターがある……はずだったのだが、目に見えるものは、少々姿がおかしい。薄鼠の四角い塊の下に丸みを帯びた部分がある。プロペラらしきものは見当たらない。しかも、動き方が妙である。ゆるゆると前方に進んだと思うと、時々、小首を傾げたり、後ろをちらりと振り返ったりするような仕草。如何にも謎に満ちた動き、謎に満ちた姿、しかし、音はヘリコプター。全く以て不可思議である。と、思っていたら、東側から視界にヘリコプターが入ってきた。あれあれあれあれ。こっちがヘリコプターなのか。ということは、向こうの妙な物体は音も立てずに進んでいるというのか。はて面妖な。ううむ。と、考え込むのではなく、先に記したように、慌ててデジタルカメラを取り出したのである。けれども、御報告した通り、結局、何も写せなかったのである。そは現か幻か。ううむ。私自身でさえ自信がない。ううむ。

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2005年04月16日

icon春風に吹かれ


 狭苦しい庭を眺める。ほわほわと暖かい風が頬に心地よい。樹木の淡い緑が良いですなあ。この、雲間から漏れ出づる春の陽射しを最も享受しているのが小鳥たちなのだろう。鶯は今日もホーホケキョと威勢が良い。その合間には、ツピツピツピツピツピーと静かに歌うものがいる。雀は、チュチュンのようなチョチョンような、愛嬌があるようなないような、どっちつかずの声。キョエーッだのキーッだのという耳障りの良くないものもいる。このちっぽけな庭とも呼べぬ庭や、近隣のものを合わせても存在する樹木は大した数ではない。巨木や大木というような代物があるわけでもない。けれども、彼らは、あるいは、彼女らは、大きな声で囀っている。春なのである。
 そこで私は思ったのである、この囀りを何とかしてマックで聞こえるようにというか、インターネットで聞こえるようにできないものか、と。我が家の界隈は、東京の中でも比較的緑が残っているとはいえ、年々、自然が後退しているのは歴然。この鳥たちの未来だって決して明るくはないだろう。そう思ったら、せめて、今この瞬間の、元気な歌声をマックに収められたらなあ、と思った次第。例によって例の如くで、どうすれば良いのやら皆目見当はつかないものの、師匠連中の知恵をお借りすればどうにかなるのではあるまいか、と思う。いや、何でも人頼みではいけない。インターネットの海を探索に探索を重ねれば何か判るに相違ない。とはいうものの、その海が余りにも広過ぎてねえ。また、泣き言かい。
 マックの中に入れられれば、インターネットにも置けるに違いない。そうしたら、世界中のどこにいても、鶯や雀、鴉や鳩の鳴き声を聞くことができるのである。宇宙人面した猫や、白豚のような猫の鳴き声を聞くことだってできるのでありますぞ。楽しかろうなあ。また、機械音痴のじじいが勝手なことをほざいているよ、と、お笑いの方も多かろうけれども、こういう愚か者の夢想からも何かが生まれることだってあるのではないか……って、まあ、現実的には、あまりないでしょうがね。けれども、こんなことを思い浮かべて、楽しい気分に浸れるのなら、大いに結構。誰に迷惑かけるじゃなし。ホーホケキョ。

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2005年04月15日

icon嗚呼、情けなや、情けなや


 何だ彼んだと、流感で臥せって以来、調子が出ない。熟、当たり前の日常の有り難みを思い知る。もともと雑な性格であるのに、体力が落ちて、不断にも況して根気がない。他愛ない日常に向けての一歩が、なかなか踏み出せないのである。
 例えば、ピアノ。バッハのインベンションをあんなに毎日練習していたのにねえ。勿論、今でも、きちんと弾けるようになる日まで頑張ろうとは思っている。寿命との勝負という要素もなくはないけれど、兎にも角にも、頑張ろうと思ってはいるのである。けれども、寝込んでいた間は当然練習どころではなかったわけであり、恐らく、唯でさえ拙い技量が途轍もなく後退しているであろうことは想像に難くない。そういう想いが心の片隅にあるもので、どうにも練習を再開する気になれないのである。途轍もなく後退してしまっているであろう現実を直視したくない、というような心。莫迦だ。それで、もう少し元気が出てきてからにしようではないか、などと、自分で自分に言い訳をして、練習再開を先延ばしにしている有り様。嗚呼、情けなや。
 例えば、韓国料理。あれほど頻々と作っていた納豆と豆腐のチゲ。目の前に納豆があり、豆腐があり、大蒜があり、味噌がある。けれども、ちょいとした手間をかける気力が出ず、豆腐に醤油を足らして食すのみ。葱を刻んだり、生姜を下ろしたりする気もしない。納豆だって、パックを開けて、そのパックの中におまけで付いてきている出汁醤油と芥子を落として、ざざっと掻き回して食すのみ。器に移すことさえしないとは、何というしだらのない有り様だろうか。懐が貧しくとも、脳みそが貧しくともかまわないけれど、斯様に心が貧しいのはいけない。嗚呼、情けなや。
 近頃じゃ、酒を呑むのも、熱心ではない。相変わらず、澤乃井は美味いのだけれどね。けれども、一杯二杯呑みながら、帳面にあれこれと落書きをしたら、もう今日は店仕舞いだ、と、寝床に転がり込んでしまうのである。寝床の中で、本を読むでもなく、ラジオを聞くでもなく、ぼんやりしているうちに、眠ってしまう。こんなことでは、お酒様に申し訳が立ちやしない。嗚呼、情けなや。ホーホケキョ。

春の夢 嗚呼 情けなやと独り言つ
 明日こそはと 早寝すれども

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2005年04月14日

icon快晴・快哉・再会・幸い


 雲一つない、というほどではないけれど、日光が眩しいほどの晴天である。ぼんやりと雨続きで薄墨色の空に慣らされた目には痛いほどの輝き。春はこうでなくてはいけない。今まで、自分がそれほど天候に左右される人間だと思ったことはなかったが、先日来の鬱した気分とどんよりとした空模様とは関係があるのではないか、という気になってきた。現に、ほれ、本日のように晴れ渡れば、気分はすっきり。というか、ほぼすっきり。まあまあすっきり。ううむ、じっくり考えてしまうと、それほどすっきりしていないような気がしてきてしまう。いやいや、けれども、昨日までよりは、かなり改善されているのは確かである。
 午前中から辺りをうろうろした。あちらこちらで色鮮やかな花が開き、爽らかな萌葱色も目映い。春は気にけり。今更ながらそう思う。そうそうそうそう、そうなのである。ちび猫を発見しました。全く以て、猫なんざ、気紛れなものである。心配するに値せぬ。あれこれと慌てふためいていた己が身が如何にも莫迦みたいではないか。まあ、実際、莫迦なのでありますがね。
 件の、宇宙人面をしたスパイ猫は、白豚の如き、あるいは、白熊の如き、恰幅の良い猫と広場で追い掛けっこをしておりました。宇宙猫が白豚を追い掛け、次は、白豚が宇宙猫を追い掛け、暫く休憩。また、宇宙猫が白豚を追い掛け、続いて、白豚が……と、そんなことを繰り返していて飽きる様子がない。ベンチに座って、一頻り、その姿を眺めたが、馬鹿馬鹿しい猫たちであるなあ、と思うものの、その一方で、何とも言えず、幸せな気分にもなる。不思議なことだ。こちらを振り向いたときに、スパイ猫が一声、にゃんとないたけれど、それは、暫く振りだな、あるいは、じじい、生きていやがったか、という意味だったのか。兎にも角にも、私の顔を覚えているように思われた。それが、嬉しいことなのか。そんなことが嬉しいのだろうか。正直に申せば、かなり嬉しい。全く莫迦なじじいだよ。

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2005年04月13日

icon

 今日もまた、薄暗い、灰色の空である。それでも鶯が鳴いている。今年の鶯は数も多いし、随分、元気なようである。彼此二週間以上も威勢良く鳴いておる。ホーホケキョを習得できず、見習いの、ケキョッという短い叫びの期間も非常に短かった。今年の連中はいつにも況して優秀なのかな、と思わされる。ホーホケキョには、全体の高低もあるし、一羽一羽の個性もあるし、長い時間耳を傾けていても飽きることがない。しかし、耳を楽しませたあとには、姿を見てやろう、という気になるのが人情。そこで、声のする方へ歩いていくと、鳴き声は消え、また別の木の高い枝の方角から聞こえてくる。例年なら、近所を一回りする間には姿を目にすることは難しくはないのだが、今年は、未だ一度もその姿を見ていない。野性として生きる上で、警戒能力が高いということは重要なことだろうから、目に見えないのは残念だけれど、この元気な鶯一家は末長く繁栄するだろう。それはそれで結構なことである。
 野性で思い出したけれど、野の鶯のホーホケキョは、所詮は、野のものに過ぎず、野趣を楽しむというのが精々のところである、と何処かで読んだ。大方、百鬼園先生の御著作であろう。代々の美声を受け継ぐ、その為だけに育てられている風雅な鶯の声など、私は終ぞ耳にしたことがない。嘸かし美しいのでしょうなあ。けれども、そういう在り方には疑問の念を抱かなくもない。それは正に籠の鳥であるわけで、少なくとも、自然の美ではない。どんなに美しい声を持っていても、宙を舞うことのできぬ鳥。ううむ。その心境や如何に。こればかりは、御当鳥に尋ねてみるより他に知りようもない。
 野の鶯と籠の中の鶯。喩えるのなら、野に咲く花と活け花といったところか。将又、スクリーンの中のオードリー・ヘップバーンと我がマリと。優劣などつけられるものではないし、つけるべきものでもない。確かなことは、私はマリと結婚して幸せだったということである。尤も、では、ヘップバーンと結婚したらどうだったろうか、というと、その答えは誰にも判らない……いやいや、マリとの結婚以上に幸せである筈はない、と答えねばならぬのだよ。ホーホケキョ。

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2005年04月12日

icon老人は早起き……

 矢鱈に早く目が覚めた。暫し床の中でぐずぐずごろごろ転がったりしてみるものの、そのごろごろする様を自ら想像すると、余りにも情けないので、起き出すことにする。四時なんぞに目が覚めるのは老人である証拠だ。尤も、此方人等、正に老人であるわけで、考えてみれば当然のことである。寝床から這い出してはみたものの寒いし、暗い。表の様子を窺ってみたけれど、うっすらと雨が降ったり止んだりという具合。仕方がないので、ぼーっとする。暫し、ぼーっとするけれど、時計は一向に進まないようである。猶もぼーっとする。それでも遅々として時は停滞しているばかり。辺りが明るくなる気配など、微塵もない。もう暫く、と、更にぼーっとするけれど、事態に進展なし。ぼーっとすること自体が無駄なことだけれど、今日の「ぼーっと」は、いつの「ぼーっと」にも況して不毛に思われる。ぼーっとしていても、全く埒が明かないので、寒い中、傘を手に表に出る。早朝の散歩と言えば、聞こえは良いが、実のところ、やけくその散歩である。
 兎にも角にも、えっちらおっちら歩く。若先生に、お酒を止めないのでしょうから、せめて散歩を、と強く勧められている。それも、のろくさのろくさ歩け、と。せっかちにすたすた歩くと、弱った膝や腰を益々痛めたりすることもある、とのこと。情けない話である。散歩で躰を痛める危険性があるなんて。
 暫く歩いていると、驚くほど寒くはあるものの、まあ、これはこれで悪くはないかもしれない、と思えてきた。無目的にぶらぶらふらふら歩く。のこのことことこ歩き続ける。そして、ごみ置き場の前まで来て吃驚。何だ、これは。何なのだ、これは。空き缶の山ですぞ。週に一度限りしかない瓶と缶の収集日は、普段だって、山のように積み上げられているのだけれど、今朝のこの様子は尋常ではない。何なのだ、これは。四畳半ほどの範囲に渡って、空き缶が積み上げられている。所狭く、無理矢理にぎゅうぎゅう押し並べられているのがありありと見て取れる。ちょちょいと突いたらがらがらがっしゃんと崩れるに違いない。ほほう、殆どがビールなのであるな。なるほど、合点。これは花見の残滓なのでありましょう。人々が酔狂に騒いだ挙句の残骸がここに積まれているのである。瓶の方を眺めてみると、ほれほれ、こちらには清酒の一升瓶やワインの瓶が主立ったところ。そうなのだ。これらの酒は、この一週間に花見に伴って費消されたものなのである。中身は全て胃の中に収まり、容れ物はここに積み上げられる。この圧倒的な缶の大山、瓶の小山こそ、散り落つる濡れた花弁よりも何よりも、浮かれた日本の春の騒動の終わりを告げているのであります。そして、人々は有り触れた日常に戻り、木々は青葉を繁らせるのであります。さようなら、また、来年の春の日まで、と。

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2005年04月11日

iconもわもわ

 昨日は強風が吹いて、たくさんの桜吹雪が舞った。本日は雨が降り、多くの花弁落つ。花の盛りは短く、その短さ故に、一層、美しさが有り難く目を慰むのだけれど、濡れそぼち、地に落ちた薄桃色が、仕事や買い物や何や彼や、あれこれの用事に急ぐ人々に踏み汚され、忘れられてゆく。当然のことなのである。全く以て当然のことなのである。万物流転。花は咲き、落ち、新緑に取って代わられる。けれども、それは来年また美しい花を咲かせる為に必須の流れなのである。そう理解してはいても、猶、寂しい気持ちがするのは何故だろうか。
 窓の外の、雨に濡れた景色をいつまでも眺め、いつまでもうじうじくよくよしていても限りがないので、少しでも気を晴らそうと、『ご存じ古今東西噺家紳士録』をマックに入れて、聴いてみる。けれども、どうもうまくない。いやいや、流れてくる演目が面白くない、などというわけではない。私の心の中に、落語を楽しむ余裕がないのですな。何を聴いても、心から笑う気にはなれない。笑う気になれないと思うことで、ますます気が滅入る。このもわもわと鬱した気持ちはどうすれば良いのか。普段なら、澤乃井をきゅきゅぅっとやって、と思うところなのだが、今日はなぜかそんな気にもなれない。どうしたのだ、茄子彦よ。しっかりしろ。

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2005年04月10日

icon馬の油4


 彼此一ヶ月以上もソンバーユなるものを使用している。左手にだけ塗るという件の成果だけれど、その後、大きな変化はない。左手の方が右手よりはすべすべしてきているのは明らかなので、この実験は終わりにして、今日からは両手に塗っていくことにしよう。どうせなら、両手すべすべの方が良いに決まっておる、誰かが私の手に触れるということなどないとはいえ。
 さて、肝心の、おでこの痒みの件である。これが一進一退といった印象なのだけれど、総じて眺めれば快方に向かっているようである。このソンバーユは天然の馬の油だけなのであって、化学薬品などは入っていないようだから、効果が緩やかなのは仕方がないだろう。というより、ステロイドなどの化学の力ずくの方法論に恐れをなして、漢方だの、天然だの、と言い出したわけで、この緩やかさが躰に良いのだと信じたい。まあ、命に関わるような問題でもないし、痒くて痒くてどうにもこうにも辛抱ならん、というような状態は脱しているので、じわじわと治ってくれれば良い
のである。このまま続けてみようと思う。
 馬の油が良いですよ、とすすめて下さった方に教えていただいた本によると、それこそ何にでも効きそうなことが書かれている。あまりに何にでも効くように書かれ過ぎているので、些か胡散臭い気がしなくもないけれど、付け過ぎたからといって害がありそうもないので、老体実験を繰り返しましょうぞ。インフルエンザにやられてから、前にも況して膝の調子が宜しくない。そりゃねえ、七十年以上も使い込んでいるわけで、老朽化が甚だしいのは仕方ないのだが、折角だから、膝にもソンバーユを塗ってみようという気になった。塗り心地も良いし、塗って悪いということはないだろう。病は気からというのだから、気休めになりさえすれば、それも一つの薬効と言えなくもない。
 ふと考えるに、近頃じゃあ健康のことばかり、気にしているようで、厭になりますな。中年と称されるような歳になってから以降、友人たちが寄ると集まると、体調不良比べ、病気自慢を始めるようになった。何処にでもある光景だろう。そんなことを繰り返しているうちに、自らの、少しずつ自由を失っていく、病体や老体に慣れてくる、という効果もあるのだろうけれど……。
 老い耄れ老い耄れと、自嘲を気取った気持ちも少しはあったのだけれど、冷静に考えてみれば、文字通り、故障だらけの老体なのですよ。くさくさしますな。躰が弱ると、心が弱る。心が弱ると、ますます躰が弱る。ますます躰が弱ると、ますますますます心が弱る……という、悪循環に陥っておるじじいであります。

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2005年04月09日

icon桜の下を歩く


 体調も大分上向いてきたので、暫く振りに長めの散歩に出る。満開の染井吉野。名所という訳でもないのに、樹下に陣取って杯を酌み交わす人々がいる。花見というと、大勢連れ立って、騒々しくやるのが一般化してしまっている。酔狂とはよく言ったもので、酒を呑み、酒に呑まれ、老いも若きも相揃って燥ぎ興じる姿は、日本を代表する景色の一つだと言っても良かろう。羨ましい気持ち、微笑ましい気持ち。はたまた、些か鬱陶しい気持ちを持つことも、なくはない。
 大宴会、それも良い。けれども、花弁がひとつふたつ、はらりはらりと舞うのをゆっくりと目で追いながら、静かに呑む酒も悪くない、とも思う。私にそんな相手がいるだろうか。思いつかない。結局、一人でやるしかないのでしょうなあ。我が荒屋からそう遠くない広場の桜の樹の下のベンチで一休み。病み上がりで、ちょいと歩いただけで、すぐに息があがってしまう。情けない話である。

 猶も、ふらりふらりと散歩を続ける。穏やかな光とゆったりとした風が気持ち良い。誇るように満開の花も良いけれど、散る花も結構ですな。大風でざばざばと振り落とされるのは味気ないけれど、今日のような、のんびりとした風で、思い出したようにはらはらと舞い落ちる花は名状し難き風情がある。しかも、これが良いのは、散ったあとには、新緑が待っているというところにある。一頻り、華々しく世を謳歌した花は、新しい緑に場所を譲る。未来に向けて散るのであります。この見苦しい生き様の老い耄れは、その潔い姿に興趣を感ずる、というより、憧れるのですよ。私は次の時代の人々のために何かを残しただろうか。颯爽と道を譲っただろうか。そんなことを思うと、薄桃色の花弁に、甘酸っぱい回顧の念を引き出されるのであります。ああ、そんな春の午後。

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2005年04月08日

iconのんびりと振り返る4


 少しだけ気力が整ってきたので、えっちらおっちら若先生の元に出向くと、インフルエンザのA型というものであるとの見立てを頂戴した。けれども、効果のある薬は発病してから比較的早い時間に、何十時間かの内にでなくては意味がないそうであり、私の場合、その意味では機を逸したそうである。兎にも角にも、解熱剤だの痛み止めだの胃の薬だの何だのを処方され、呉々も大人しくしていろと諭されて、とぼとぼと家路を辿る。
 家に帰って、大人しく蒲団に収まり、ぼんやりする。薬が効いているから、いつの間にかうとうとして、夕方目が覚めた時には、かなりすっきりした気分になっていた。床の中で、目を閉じたり開けたりしてみたけれど、先日の南の島の海岸のような景色は浮かんでこない。忘れないうちに、絵に描いておかねばならんなあ、と思ったところで、インターネットの日記を放ったらかしたまま何日も経っていることに気づいて、びっくりする。欠かさず頑張っていたものが、気にならないほど弱っていたのだなあ、と、インフルエンザの暴威に感心するほどである。放っておくとどうなってしまうのか、と気になって仕方がない。うじうじしていても埒が明かないので、決心してマックを付けてみた。ほほぅ、表示される分量がちょっと減っているだけで、日記はなくなってはいないのであった。ついでに、メールを見てみてびっくり。私の身を案ずるメールが幾通か届いていたのである。まずは驚嘆し、目を疑った。けれど、その文章を読んで、涙が出た。こんな枯れ果てたじじいのくせして未だ涙が滴るとは。ああ、何とも有り難い。この妄言に暴言を重ねるが如き日記を続けてきて良かった、と心底思う。この老い耄れの身を案じて下さる人々が、世界のどこかにいるのですぞ。勿体ない話です。感謝感激、そして感涙。

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2005年04月07日

iconのんびりと振り返る3


 火曜の朝には少しく快方に向かっているという感じがし始めた。けれども、寒気がさらず、くらくらして力が出ない。何か食べなければ、体力が持たないぞ、と思うのだけれど、何かを作ろうという気にはなれない。結局、冷蔵庫の中の蒲鉾を齧るばかり。あのスパイ面をしたちび猫を探し求めて薄着でほっつき歩いたことが引鉄になって風邪を引き、ちび猫用に買い込んであった蒲鉾で辛うじて食を繋ぐ、というのも、何だか皮肉な話ではある。
 快方に向かってきたのだけれど、お蔭で、如何にも風邪らしい、咽喉や頭、関節の痛みに苦しみ出す。高い熱が出ている間は、風邪の苦しみというよりは、少しくふわふわしたような、息苦しさが中心のよくわからない、心の迷いのような、病状だったように思う。遡って考えると、その間は、然程辛くもなかったのかもしれぬ。孰れにせよ、あやふやな記憶、あやふやな感想に過ぎぬけれど。
 斯くして、朝からひたすら寝床でうんうん唸っているような状態が続いた。マリだの、母上だのに助けを求めたいような、何とも男らしくない有り様である。その情けなさが届いたのか、助けが訪れた。田村師匠と円嬢である。老耄日記の更新が止まったのを訝しんで訪うてくれたのである。忝ない話だ。私のみっともない伸び切った姿をみると、急いで走り回って、プリンやヨーグルトといった食べ物、栄養剤、すうすうする飴の類、風邪の苦しさを軽減するという紙のマスク、などなどなど、あれこれと買い求めてきてくれた。何と感謝して良いのやら。うつしてしまっては申し訳ないので、早々にお引き取り頂き、独り、床の中で感謝の念を噛み締めた。感涙。実に有り難う。孰れ、必ずや、この御恩に報いますぞ。

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2005年04月06日

iconのんびりと振り返る2


 目が覚めると、もうどろんどろんになっていた。何時だかわからないけれども、日は出ている。兎に角、熱っぽい。尋常ならざる熱っぽさである。元々もやもやしている思考が益々ぼやけて何が何だかわからない。兎に角、肩口の辺りを中心に猛烈な悪寒に襲われ続ける。咽喉もが痛い。目が乾く。何をする気も起きないし、何をすれば良いのかもわからない。辛うじて、厠まで這い蹲って用を足す。ついでに、水を飲む。水をごくりと飲む度に咽喉が痛い。痛いけれども、どうにも水を欲する本能がある。そして、また床に就く。床に就く、というような風ではない。実態は、倒れ込む、という有り様。
 次に、目が覚めたのは夕刻近くだろうか。未だ日は残っている。相変わらず、悪寒が酷い。咽喉も痛い。腰も痛い。膝も痛い。頭まで痛くなってきた。水を飲む。考えがあちらこちらにぶわぶわして纏まらないのは相変わらず。けれども、兎にも角にも、薬箱まで這っていき、漁ったところ、パブロンエースを発見し、服用する。その前に、何かを食さねば、と思い、冷蔵庫を開けたのだけれど、吹き出る冷気が恐ろしく感ぜられ、結句、何も喰わずに、薬を飲む。眠くなる成分が入っていたのだろうか。次に気付いた時には、深更。猶も、悪寒は続いている。痛いとか重苦しいというよりも、訳が判らない精神状態に陥り、呑み過ぎの状態に似ていると言えなくもないようで、ぼやんぼやんとして、心が定まらぬ。目を閉じると、いつかのように鮮やかな色が目紛しく飛び交うのかというと、今回は違う。目を閉じると、森の中から覗き見る海岸の景色。ジャングルのような、濃緑の木々の間から、白茶けたような砂浜が見える。目を開くと荒屋のおんぼろ部屋。また目を閉じると海岸。何なのだろうか、これは。しかも、じっと見ていると、どこか懐かしいような気がしてくる。けれども、一度も、こんなところに行ったことはない。目を開けたり閉じたりを繰り返しながら、ここはどこだろう、と思い巡らす。いやいや、そんなことをしている場合ではない、と、起き出して、冷蔵庫を漁る。とっとと喰えそうなものは鈴廣の蒲鉾のみ。二切れ齧って、薬を飲む。水をがぶ飲みする。あまりに急いているので、口の端から滴り落ちた水が、咽喉を伝って、胸に入り込む。冷たいが、気持ち良い。一頻り呆然としてから、床に就く。すぐに眠りに落ちた。

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2005年04月05日

iconのんびりと振り返る

 二十七日の朝、羽生先生と山崎青年の決勝戦の再放送を前に、早々と起き出して、雑事を済ませ、羽生扇子を片手にテレビの前に座していたところ、少々、熱っぽい気がする。騒ぐほどのことではあるまいな、と思いながらも、手近にあった体温計で計ってみたところ、三十六度五分。私の平熱は三十五度八分か九分といったところだから、成程、微熱がある状態だ。けれども、そんなことをいちいち気にしていても仕方がないので、声援に励む。先週見た通りに、山崎青年は早い段階からどんどん時間を費やしてしまって、敵方である筈の、私さえ心配になるほど。そうは言っても、神風を吹かす応援の手を緩める訳にはゆかぬ。熱っぽいもので、扇子で煽ぐと妙にすうすうして気持ちが良いのを幸いに、いつにも況して、振り回す。しかしながら、よくよく考えてみれば、これは地震で放送が途切れてしまった分の再放送なのであるからして、私がいくら煽ごうとも勝負の行方に影響があるわけなどないのである。ないのであるけれども、そんなことを言ってられないのが、馬鹿なところ、というのか、あるいは、自己弁護するならば、純情なところ。一所懸命、風や吹け吹けと、右へ左へ扇子を揺らす。山崎くんよ、残念だったなあ、もう時間の問題でしょうなあ、と思いながら、一休みして一杯やったりしてね。また、思い出したように扇子を振り回したり、と、余裕を見せておったわけである。ところが、何たることか、終盤になって、突如として、羽生先生の旗色が悪くなった。慌てて、杯を置いて、力の限りに神風を起こそうとしたものの、時既に遅し。再放送を考慮に入れれば、まるまる一週間以上遅い。兎にも角にも、残念ながら、逆転負けを喫し、NHK杯は少年の手に渡ったのであった。敵ながら天晴れ。山崎時代もそう遠くないかもしれない。いやいや、渡辺くんだっているのであった。将棋界は新しい才能がどんどん出現して、安泰ですなあ。
 羽生先生が負けて気落ちしたこともあるし、応援に力を入れ過ぎたのもるし、ますます熱っぽい気がしてきて、再度、熱を計ると、何と、三十七度四分。あわわわ、これは大変だ。風邪に違いない。悪化する前に大人しく寝た方が良い。とは、思うものの、NHK杯の、女流棋士のたった一人だけの出場権をかけた清水さんと中井さんの試合を午後から放送する、と知らされ、それを見てからでも良かろう、という気になる。まあ、一時間ほどあるから、と、買い置きの乾麺で笊蕎麦をのたくたと拵えて、つるっとやって、ついでに澤乃井を嘗める。蕎麦と酒、良いものですなあ。日本に生まれて良かった。などと、調子に乗っているうちに、放送が始まる。ところが、この辺りから記憶が目茶苦茶になってきてしまう。熱と酔いとでね。白状すると、試合の結果もわからないほど。兎にも角にも、最後の明確な記憶は、女流戦の終了後、体温計が三十九度五分を指していたことだけである。躊躇なく、床につきましたよ。床についたのですが、時既に遅かったわけですな。

投稿者 nasuhiko : 19:23 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月04日

icon猛烈に消耗した

 未だ完治とは程遠いものの、少しずつ日常生活に戻っていこうとしている老耄である。人々よ、インフルエンザを侮る勿れ。実に恐ろしいものなのであります。若先生によれば、高齢者には命を落とす人さえいる、という。老体ながらも私は何とか持ち堪えたけれど、テレビのニュースでは、ローマ法王もインフルエンザが引鉄となって……と伝えていた。私如きの冴えない者の命と比較するのは恐れ多いけれど、病や死はどのような立派な人の上にも、私のような訳のわからない呆けた者の上にも、平等に訪れるのであるなあ、と思われ、些か神妙な気持ちにならざるを得ず。御冥福をお祈りする。尤も、無宗教を自任する私の出る幕ではないのだろうか。いやいや、死を悼む気持ちに宗教は関係ない。心から、お祈り申し上げる。

 年末には並の風邪に倒れ、今回はインフルエンザに倒れる。基礎体力というのが足りないのでしょうな。脳みそだけでなく、肉体も着々と老化しておるのである。当たり前だ。ちび猫捜索のために、近所を薄着でうろついたのがいけなかったことは明白である。酔っ払って勢いがついていたもので、上着を羽織りもせずに、下駄履きでよろよろ路地を歩き回ったのがいけなかったのだ。全く以て、あの宇宙人の顔をした猫には振り回されっ放しのこんこんちきである。

 若先生曰く、高熱が続いて、思っている以上に猛烈に体力を消費していますから、呉々も今暫く、大人しくしていて下さいよ、とのこと。老いては子に従え、という諺がある。若先生が私の子供であるわけではないけれど、老い耄れは若い人の言葉に従うことにして、今日のところは、これぐらいにして、のんびりだらだらすることに致しましょう。

投稿者 nasuhiko : 17:53 | コメント (0) | トラックバック