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2005年07月31日

icon忘れてしまった


 棋聖戦を見逃し、しかも、その見逃した試合で羽生先生が負け、結果としてタイトルを逃してしまった。そのことをうじうじと考えながら、昨日はずるずるだらだらと呑み続けていたもので、本日、大変な宿酔で苦しんでいる。暑さと悪心で熟睡できず、眠いし、気持ち悪いし、暑いし、眠いし、気持ち悪いし、暑いし、眠いし……と、嗚呼、どうにもならない午前中であった。昼になって、少し気力が出てきたけれど、未だ未だ胸の中のもわもわとしたむかつきは消えない。少しでも何か食べないといけないと思う。こういうときには素饂飩が何よりだとは思うけれど、福寿庵に素饂飩一つだけを出前してくれ、とういのは、幾ら何でも申し訳なくて言える訳がない。子供時分からの付き合いだとは言え、先方は家業としてやっている訳ですからな。
 ごろごろしながら水を飲み、ごろごろしながらテレビから流れてくる音を聞いている。見苦しい有り様だ。酒を嗜むようになってから六十年にもなろうてえのに、未だに二日酔いで苦しむなんてのは愚の骨頂じゃありませんか。嗚呼、愚かなり、愚かなり。愚かなるぞよ、茄子彦くんよ。

 夕方になって、少し立ち直ってきたので、自力で素饂飩を拵える。拵えると言っても、大師匠から頂いた蕎麦つゆを水で割って、そこに昆布と酒を落として暖めるだけである。うどんだって、買い置きの乾麺である。こうやって弱っているときには、普段は蕎麦しか喰わない私なのに、饂飩が食したくなるというのはどういう訳でしょうな。まあ、兎にも角にも、目出度く熱々の素饂飩をふうふういいながらいただき、汗をどぼどぼ流したら、大分、正常に近づいてきた。もっとも、正常と言ったって、元来がぽんこつですからね、他人様の正常には程遠い。人心地が出てきたところで、はっと思い出した。すっかり忘れていた。慌てて、小庭に飛び出してみると、地面はからからのかんからりんに干涸びておる。セニョール・ハバネロを始めとして、どの草もすっかりしょげ返ってしまっている様である。何とも申し訳ないことをしてしまった。慌てて、じゃんじゃんと水を撒きましたよ。濡れた葉が何とも言えぬ緑に輝き、元気を取り戻していくのが手に取るようにわかる。熟、申し訳ないことをしてしまいました。今後は決してこのようなことのないように、精進致すによって、平に御寛恕の程をお願い申し上げまする。

投稿者 nasuhiko : 18:34 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月30日

iconあれこれ


 白い花の様子が気になりましてね、と、田村師匠が円嬢を伴って御来訪。お若い二人が並んでハバネロを眺める姿、初々しいですな。半世紀前のマリと私が並ぶ姿も同じように初々しかったのだろうか。初々しい二人に見えた日々だってあったに違いないとは思うけれど、何しろ、大層昔のことなので判然としない。そもそも、自分で自分の後ろ姿は見られない訳だからね。後ろ姿が初々しかったかどうかなどということは判る筈がないではないか、と、捻くれたことを言ってみたくなります。

 セニョ殿の観察を一通り終えたところで、祝杯となる。ハバネロくん育成の初期の頃の不安な気持ちを語り合ったりして。あの頃は、随分うじうじと悩んだけれど、今や互いに暢気なものである。杯を重ねて、どんどん調子が出てきます。花は咲くし、友は訪れるし、酒は美味いし、と、何とも素晴らしい午後である。ところが、がっくりくることが一つ。師匠が「棋聖戦で羽生さんが負けましたね」と仰る。新聞に載っていたそうである。しかも、それは数日前のことだという。ううむ。毎日欠かさず新聞は読んでいるつもりなのだが、一体どうしたことだろう。うっかりしておった。これも、将棋連盟とNHKの宣伝不足がいけないのである、というような、愚痴を零す。愚痴なんぞ零されるとは、お若いお二人、しかも、さして将棋のないお二人には、全く迷惑な話でありますな。

 師匠たちが帰られたあとも、羽生扇子を持ち出してきて、今更ながら棋聖戦を見逃したことを嘆く、そんな具合に杯を重ねていたものだから、幾らなんでも呑み過ぎております。もう止したが善かろう。

 師匠が置いていかれた、ソルバイという人の『ヴァガボンド・スクウォー』というものを聴いている。スウェーデンの音楽だと仰っていたけれど、取り立ててどこがどうスウェーデンなのかというのは私のようなぽんこつには判然としません。そもそも、スウェーデンの音楽などと言われても、頭に何も思い浮びませんからな。聞こえてくるのは、昔の、どこにでもある外国のポップスのようである。まあ、確かに、蒸し暑い夏には、軽やかなポップスが快適なのかもしれませんが、何となくぱっとしない。

投稿者 nasuhiko : 20:07 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月29日

iconハバネロ30


 先日は、突然の雨で、小庭に置き去りにした蚊遣りがすっかり塗れた姿を詠んでみたりした。まあ、陸な句じゃあないのだけれどね、ぽんっと、浮かんだものは書いておきたくなるものである。その句を、眺めながら、ふと思った。セニョール・ハバネロの白い小さな花には蜂や蝶がやってくるのを見たことがない。従って、折角咲いた花であるけれども、受粉することなく、つまり、実を結ぶことなく生涯を終えてしまうのではないか、というようなことを考えていたのでありますな。数日前のことである。後先が取っ散らかって何を言っているか判然としない、如何にも、下手っぴいな文章になってしまったけれど、何をふと思ったかというと、蜂や蝶がセニョ殿の花の周りに現れないのは、私が観察しているからではないか、ということである。もう少し丁寧に述べるなら、観察するに際しては、私てえやつは大きな缶に入れた蚊取り線香を足元に置き、乾電池で動作する電気何とかという、これもまあ、一種の蚊遣りの類を腰にぶら下げているのである。勿論、これは、蚊に刺されぬようにとの用心のためのものであるけれど、考えてみれば、蚊が忌み嫌うものをば蝶や蜂が嫌がらない筈もないだろう。すると、何ですか、こういうことですか。私はハバネロの花に集まる蜂や蝶が見たいけれど、蚊には刺されたくない。刺されたくないので、蚊遣りを携行する。蜂や蝶を含む虫連中は蚊遣りの匂いが嫌いであり、従って、蚊遣りの煙が漂っている限り、セニョールの側にはやって来ない、と、こういうことなのではないかしら。もし、そうだとするとなると、私は蚊遣りの使用を諦め、つまり、蚊に刺される覚悟の上で表に出るしか、ハバネロの花に集まる虫たちを眺める術はない、ということなのであろうか。こいつは、中々に悩ましい問題でありますな。酔った頭を振り回しても少しも解決策など思いつきそうにない。明日は、覚悟を決めて、蚊に刺されながらの観察をすることにすべきだろうか。ううむ、気が進みませんなあ。

 蚊遣り持て 白き花見る孤独かな

それとも、

 蚊遣り捨て 蚊に刺されつつ和気靄々

ううむ。どうしたものやら。

投稿者 nasuhiko : 20:19 | コメント (2) | トラックバック

こんにちわ♪おじゃまします♪

私もほぼ毎日蚊にさされて、最近は虫除けスプレーを自分に吹きかけてから小庭に出るようにしています(笑)

日差しが強くなってきて思うこと...
ハバネロの足元の葉をチギリ取らなければよかった!
昼間、土に直接日があたりグッタリするヤツも出てきた。
そんな時あの足元の葉があれば...

投稿者 yuki : 2005年08月02日 17:05

 私のところでも、下の方の葉っぱを以前に切りました(yukiさんの真似をしたのであります)が、今のところ、ぐったりするようなことはありません。これは途中で一度折れてしまったせいで、背丈が低く、その分、葉っぱが横に広がっているから、意外に足元が日中でもからからになりにくいからかもしれないなどと思っておりますが、本当のことは判りません。
 何はともあれ、早く実が生ることを切に願っておる次第。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月04日 15:22

2005年07月28日

iconハバネロ29


 午後になって、この日記を書こうと、一杯やりながらマックをいじっていたら、「ゆきのブログ」さんに

ハバネロの実がボコボコできてきた!

こんなことが書いてあるのを発見した。おおお、おめでとうございます。羨ましい。何とも羨ましい。おめでとうございます、という気持ちと共に、うちのセニョちゃんは大丈夫なのだろうか、という心配もゆらゆらする。花が三つしか残っていないということは、三つしか実が生らないのではないだろうか。ゆきさんのところのたわわに実る写真を眺めて、あまりの羨ましさに、暫し呆然としたじじいである。ううむ、とことん羨ましい。しかし、ですよ、うちのは花が咲くのも遅れていたのだから、これからじゃんじゃかじゃんじゃか実が生り始めないとも限らないではないか。いや、駄目だ。そのためには、先ず花だ。花である。花が咲かなくてはいけない筈でありましょう。花が三つしか咲いていない、とぶつくさ言っているけれど、こうしている間にも、もしかしてもっと散ってしまっていたらどうしよう、と唐突に心配になってきて、慌てて小庭に飛び出した。そうしたらですね。ふふ、良かったのです。良かったのですよ。腰を屈めてじっと眺めると、花開いているのは、確かに三つのままだけれど、そこかしこに花の予備軍、蕾の赤ん坊みたようなものができているではありませんか。緑色なものだから今まで見落としていたのか。それとも、昨日今日の沸き返るような熱気で一気に育ったものなのか。兎にも角にも、蕾ジュニアがいるのである。ということは、直に白い花が咲くのである。そして、さらには実になるってことであろう。いやあ、これらの蕾群の全てが結実したら大変だ。うちだって、負けずにたわわなハバネロ様でござい、となりましょう。何だい、うちのセニョちゃんも大したものじゃありませんか。はは、良かった、良かった。

投稿者 nasuhiko : 17:33 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月27日

icon颱風一家


 あっさりと、颱風七号が通り過ぎた。前評判が凄かっただけに、少々拍子抜けするような気がする程である。それなりの雨、それなりの風があったけれど、正に「それなり」という程度で、大事とは程遠い。セニョール・ハバネロが猛烈な雨と風で、倒されたり、折られたり、吹き飛ばされたりしはしまいかと大きに心配したのだけれど、今朝方、水遣りがてら、ぼんやりと眺めた限り、無事のようであり、一安心したぽんこつじじいである。
 ところが、昼になって、小庭に出て、今度は仔細に眺めてみたのだが、何たることか、花の半分程がぽっきりと茎の部分から千切れて地面に落ちてしまっている。暫し呆然としたけれど、物は考えようである。何と少ない被害で済んだことか、と喜ぶべきでありましょうな。何しろ、大型颱風が通過したのであるからして。昨晩の段階では、根元からすっぽり折れて、どこかに飛んでいってしまうのではないか、と心配していたのですからね。それを思えば、あなた、花が半分落ちたって、呵々大笑して太っ腹に受け止めるべきではないか、と、そう思い込むことにしますよ。くよくよしても仕方がない、と。はあ。

 颱風一過。空が限りなく青く広く、素晴らしい天気である。少し見上げていたら、くらくらしてくる程であります。そう言えば、マリは、「颱風一過」を「颱風一家」と勘違いしていましたな。そんなことを思い出す。可愛らしい勘違いじゃありませんか。亡くなった女房の思い出で惚気るなんざ、実に莫迦なじじいである。彼女は書き言葉は余り得意ではなかったからね。そもそも「颱風一過」なんて、頻繁に出てくる言葉じゃないしね。知らなくたって困りゃしない。それに、考えてみれば、外国人ならずとも、「颱風一家」と勘違いしている人がいないとは限らないのではないかしら。お若い人にはそういう人だっていそうじゃないかね。まあ、どうでも良いことだけれど。

 夕暮れも近い。そろそろセニョちゃんの無事を祝って一杯いこうと思うけれど、マリの「颱風一家」の話を思い出したのも何かの縁、暫く振りにワインにしますかね。赤にしようか白にしようか。

投稿者 nasuhiko : 17:25 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月26日

icon颱風七号


 颱風がどんどんどんどん近づいてくる。テレビで天気予報を眺めていると、真っ直ぐ東京に向かってくるように思える。地震に続いて颱風だなんて、何とも慌ただしいことである。尤も、颱風てえものは、夏から秋に掛けての、言ってみれば、季節ものだからね。来なきゃ来ないで、何だか物足りないような気がするやもしれぬ。しかし、こんなことを言っていられるのも、大きな被害に遭ったことがないからですな。颱風というものは、家を壊したり、橋を壊したり、農作物を目茶苦茶にしたり、人の命を奪ったりする恐ろしいものなのである。この老い耄れは、颱風で本当に酷い目には遭ったことがないもので、少々甘く考えている節がある。自分で言うのも何だけれどね。
 雨が降ると、水遣りの心配が要らないてえのが有り難いと言えば有り難いのだけれど、こう風が強いと、今度はセニョール・ハバネロが倒れてしまいやしないかと気掛かりで、雨の中、度々小庭に出てみる始末。今のところ、大丈夫のようだけれど、今晩辺りどうなってしまうのだろうと思うと、今から心配で心配で仕方がない。
 まあ、でも、ですよ。ぐずぐずと思い煩っていても埒が明かないのである。自然界の生き物が自然の猛威と対峙するのであるからして、人間のようなものがあれこれと考えてみたところで、どうにもなるものではない。天に任せるしかないではないか。そんな気になってきて、天に任せたとなれば、此方人等は、身を浄めるぐらいしかできることはない。早速、澤乃井をきゅうっと、ね。こうやって、酒で身を清めるってのは良いね。浄め序でに塩を舐めて、と。ふふ、美味いね、どうも。
 セニョちゃんの身は案じられはするものの、颱風てえのは、何となく、わくわくさせるようなところがありませんか。正直な心を吐露すれば、小さい頃から、颱風がやってくると何となく興奮してしまうのであります。溢れそうな川を覘きに行って、こっ酷く叱られたりしたことを思い出す。颱風で痛い目を見たことがないから、こんな暢気なことを思ったり、言ったりしていられるのであって、酔っ払った老い耄れの戯言とはいえ、不謹慎に過ぎますな。今日のところはもう筆を擱くが良さそうである。

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2005年07月25日

iconハバネロ28


 虫喰いだの、地面に埋もれるだの、日光が足りないだの、土が悪いのではないか、などなどなどと、あんなに苦労していたセニョール・ハバネロのお世話であるけれど、今となっては、何だかね、良い思い出である。ぱっと見の威勢の良さというのか、そんなものは未だ足りないように思う。正直なところ、そう思いますが、虫喰いも少なくなり、花がずんずんと咲き、緑も濃くなってきている。何を文句を言うことがあろうか。はは、良い気分だよ、良い気分です。お蔭で、昨日も澤乃井を美味しく頂きました。尤も、いつだって澤乃井は美味いのだけれど。
 しかし、今日になって、ふと疑問が湧いてきたのである。花が咲いたは良いが、その後、どうなるのか。花が咲けば、お次は実が生ると相場は決まっているけれど、そこには受粉というものがある筈である。しかし、いくら観察していても、蜂や蝶がセニョ殿の白い花にやってくるところを見たことがない。蜂や蝶がやってこないのだとしたら、どうやって受粉するというのだろうか。仮に、受粉が為されなかったとすると、やはり、直に花が枯れて、それで終わり、ということになってしまうのではないだろうか。放っておいて良いのか。それとも、何か対策が必要なのか。ううむ。新たな悩みが発生しましたな。
 そんなことをぼんやりと考えながら、眺めていたら、突然、猛烈な雨が降ってきた。

 窓叩く 驟雨ばしゃばしゃ 耳に涼し

 こんな句を捻り出して、悦に入っている。大した句じゃないね。窓から外を眺めると、ハバネロくんの前に蚊遣りが置き忘れた侭ではないか。うっかりした。

 夕庭に 驟雨ばしゃばしゃ 蚊遣り濡れ

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2005年07月24日

icon大きに揺れた


 昨日の揺れはかなりのものであった。尾籠な話で恐縮なのだけれど、私、厠におりまして、丁度座り込んだところで、ごごごごごごごごと揺れ始めたもので、大きに動揺した。実際の揺れよりも心の揺れの方が激しかったと言えましょう。何しろ、此方人等、お穴を丸出しの状態ですから、何というのか、落ち着かない。荒屋の狭い厠のことですから、両手を伸ばして支え棒にして、何とか凌ごうとするのだけれど、そういう時にも、尻丸出しではね、どうにも締まらない。いや、本当の話ですぞ。疑うなら試されるが良い。お尻を丸出しで、気丈に振る舞うということがこんなに難しいとは私も思っておりませんでしたよ。
 昔から、厠というところは、狭い空間を柱が四本で支えているのだから、地震が来たって安全だよ、などと言われてきたけれど、あれですな、そういうのは、新築の立派な建物での話なのでしょう。私のところでは、大変でしたよ。壁も柱もぎゅうぎゅうみきみきと音を立て、このままばらばらになるのではないかと思った。そうは言っても、結局のところ、何ともなかったわけで、もしかすると、厠が安全だという言い伝えは間違っていないのかもしれないけれど、ああいうところだと、閉所としての恐さもある。閉じ込められちまうんじゃないか、とね。厠に閉じ込められたら、それこそ糞詰まりですよ。そんな下らないことを思う。
 今になってあれこれと考えている訳だけれど、家屋倒壊ということにでもなれば、畳の上でごろごろしていようと、厠の中にいようと、あまり変わりはなさそうである。変わりがあるとすれば、やはり、お穴を出している、というところでありますよ。そんな恰好では逃げるに逃げられない。揺れているし、あたふたしているしで、ズボンを引き上げるのも儘ならないかもしれない。ズボンを上げるが儘ならないからといって、ズボンを下ろしたままでは、足に纏わり付いて駈けるどころか歩くことも儘ならないだろう。そして、そのまま、瓦礫の下敷きになったとしたら、どうなるのか。ズボンを下ろしてお穴丸出しで倒れているじじい。消防隊員だか自衛隊員だか誰だかは判らないけれど、そんな醜い枯れ枝じじいを発見する羽目に陥る御方には実に申し訳ないとしか言い様がない。今の内に謝っておこう。斯様な混乱の折とは申せ、醜態を晒しまして、平に御容赦願います。

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2005年07月23日

iconハバネロ27


 先日、小さな白い花を開いて幸福を齎してくれたセニョール・ハバネロであるが、本日、丁寧に眺めてみたところ、五つも花が咲いている。ほんの四、五日のことなのだけれど、着実に成長しておるのですなあ。自然の力というのは素晴らしいものである。感心頻り。小さな花を飽かず眺めてにたりにたりと薄笑いを浮かべる老骨。あまり良い景色とは言えない。けれども、嬉しいのである。嬉しいからついつい口元が解けてしまうのであって、如何ともし難い。誰に見られている訳でもない。良いではないか。尤も、いつだったか、夕方のニュースで見たけれど、最近は覘く技術が途轍もなく進んでいるのだそうで、いつどこで誰に覘かれていないとも限らない世の中なのだそうである。まあ、私の呆けた薄ら笑いを好んで覘く御仁もおらんだろうけれどね。女性などは安心して暮らせない、大変嫌な世の中になったものである。
 しかし、この白い花はあまり南米の気配を醸し出しておりませんな。静かで控えめな佇まいは、寧ろ、和の心を示しているようにさえ思える。こんなことを言っているけれど、私は南米に行ったこともないし、精通している訳でもない。テレビや映画で見た景色を頭の中でごちゃごちゃにして捻くり回して、勝手に想像しているだけなので、南米には、斯様な楚々とした花がたくさん咲いているのかもしれません。

 蚊遣り手に 御機嫌如何と 庭巡る

 蚊取り線香の匂いてえものも、セニョちゃんにとっては、嘸かし新鮮な香りでありましょうなあ。

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2005年07月22日

icon湯呑み酒2


 やっとのことでマックで聴ける落語のCDをみつけることができた。そこら辺に新聞や本を放り投げてあったのがいけない。その下に埋もれていた。そうそう『ご存じ古今東西噺家紳士録』というものでしたな。間が空いたのでちょいと気を削がれたような気もするけれど、それでも落語は楽しいですな。
 さて、大師匠が御覧になったという伯楽という人を探してみると、ありましたよ。馬生の弟子なんですな。金原亭の親玉ですか。なるほどねえ。こりゃ不勉強でした。写真を拝見すると、目がぎょろっとして良い感じだね。残念なのは落語が収録されていないことである。「鞍馬」という出囃子だけ聴いてみたけれど、かえって、気分がもやもやしますな。しかし、あれですね、「火焔太鼓」というと、どうしても志ん生のものを思い出しちまうってのも、幸か不幸か。他の人が、しかも、現役で活躍しているような人がどんな風に演じるのか、興味深いですな。このCDには誰の「火焔太鼓」が収められているのだろう、と調べてみると、柳家つば女のものであった。また知らない人かね、と思ったけれど、写真を見てみたら思い出した。見たことのある顔だね。ついでだから……ついでだからってのはないね、ついでだからってのは。折角だから、ぐらいですか。兎にも角にも、先日戴いた末廣の湯呑みに酒を用意して、マックの前に腰を下ろして、柳家つば女の「火焔太鼓」を聴き始める。声も軽く、それなりに軽快である。こんな蒸す時節には、こういうのも悪くないね。嗚呼、益々、生で落語が見たくなる。近々に新宿まで出向くことにしよう。そうなんだけれど、一つだけ問題がある。あすこは酒を呑ませないからね。良い噺を聴きながら、澤乃井をぺろっと舐める幸せ。この楽しみがわからないのだろうか。末廣の亭主も野暮じゃないかね。

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2005年07月21日

icon日本一多くの木を植えた男


 先日テレビで宮脇先生という方を見て大きに感動した。教育テレビの「日本一多くの木を植えた男」という連載の番組である。この人は地球を救うのではないかと感服した、と書くと、少々大仰に過ぎはしないか、とも思うけれど、事実、それ程感動したのだから仕方がない。もっと詳しく知りたいと、書籍を探したところ、件の番組の本が出ているのを発見しました。早速、注文しておいたのだけれど、先程、届きましたよ。便利な世の中ですなあ。まだ、届いたばかりで詳しく読んだわけではない。いやいや、実は、ぱらりぱらりと捲っただけである。NHKの教養番組の教科書みたようなもののようである。表紙になっているのは麦わら帽子を被った宮脇先生が正面を見据えているお写真である。テレビで見たときもそうだったけれど、物凄い眼光であります。ははあ、とひれ伏したくなりますな……なんぞと、毎度ながら、こんなごてごてした装飾的な物謂いをするものだから、私てえ人間は言うこと書くことの何でも彼でも嘘臭く思われてしまうのである。この本を手に取っていただければ、わかるだろうけれど、眼光の鋭さは本当に並々ならぬものでありますよ。ちょっとあれですな、レスリングの、あの、気合いだあ、と叫ぶ人と似ていなくもない。
 私が先日見たのは、全八回のうちの七回目だったようである。こんなに立派な先生の興味深い話の大半を見逃してしまったのは実に残念である。まあ、しかし、泣き言を言っていても仕方がないので、寧ろ、ぎりぎり最後には間に合うように出会えたのを幸いだと思うことにしよう。兎にも角にも、折角手に入れた教科書を熟読させていただこう。二十五日に最終回の放送があるようだから、それまでに七回目までを読んでおきたいところであります。

 澤乃井を舐めながら、小庭の草木を眺める。この生き物は目を楽しませ、気分を和ませたりするだけでなく、人間があれこれの環境を破壊してきたことによる地球の混乱を正す役に少しは立っているのかもしれない。そんな目で眺めると、一つ一つの木、一つ一つの草がより愛おしく感ぜられ、酒も美味い。尤も、澤乃井てえやつは、いつだって美味いのだけれどね。

投稿者 nasuhiko : 19:47 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月20日

icon湯呑み酒


 夕方になって、大師匠が一杯加減で御来訪。末廣の帰りだそうで、お土産として湯呑みを頂戴した。こんな老い耄れを気遣って戴くなんざ、実にありがたい話である。
 大分、酔っていらっしゃるもので、話の後先も内容もあっちこっちに取っ散らかっているけれど、その姿から存分に噺を楽しまれてきたのであろうと、ありありと推測される。羨ましい限りである。文楽を見ようと思っていたのに代演が入っていたとか、金馬が思ったよりしょぼくれていないとか、終いにゃ、のいるこいるという人たちの漫談の真似までして下さった。昼の取りは伯楽という師匠で「火焔太鼓」を掛けたという。私は伯楽という人を見た覚えがないのだけれど、立派な出来だったそうであり、そんなことを言われると、何とも羨ましくなる。上機嫌振りがね、何とも羨ましい。随分御無沙汰しておりますからね。明日にでも新宿まで出向こうじゃないか、という気になる。

 大師匠が帰られた後、マックで聴くことが出来る落語のCDのことを思い出して、伯楽さんを聴いてみようと思い立つ。ところが、あろうことか、件のCDがみつからないのである。何処へ行ってしまったのか。こんな狭い家の中で、しかも、あれこれと持ち歩くような代物じゃないのに、一体どうなっているのだろう。かれこれ半時間ほども頑張って探してみたけれど、到頭みつからない。仕方がないので、本で読みますか。火焔太鼓は志ん生の文庫本だったかね、と思いながら、目星をつけた本棚を覘いてみたのだけれど、あろうことか、志ん生の文庫本のシリーズがみつからない。一冊二冊じゃないのだから、そうそう紛れてしまう筈もないのだけれど、どうしたことだろう。釈然としない気持ちのまま、杯を重ねる。ううむ。

 探し物みつからぬまま 夏の酔い

投稿者 nasuhiko : 21:58 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月19日

icon宮脇先生という人


 昨日は早い時間から楽しく呑んだ。楽しく呑めるということほど素晴らしいことはない。何よりである。何よりであるけれど、呑み過ぎるというのはいけない。こんな歳になって、未だ呑み過ぎてしまうことが間々あるなんざ、みともない話である。夜になって、濃いお茶を淹れてぼんやりしていると、何とも眼光の鋭い、独特の気配を持った人物が登場し、カメラを睨め付けるようにして、あれこれ語りかける番組に出会した。にこにことしているようでありながら、目の力、大変強く、拝見するのに正座したくなる……というのは、如何にも大袈裟ではあるけれど、そんな気さえするようなお方であるのは本当である。
 実を言うと、チャンネルをかちゃかちゃやっているうちに偶然出合ったものであるから、途中からしか見ていない。どんな話かというと、森を再生させる、というような話である。専門的なことは私には判る筈もないのだけれど、この宮脇先生というお人の熱意はよくよく伝わってきた。そして、この先生のやっていらっしゃることは、壊れかけの地球を救うことになるのではないか、と、そんな風に感じましたよ。アマゾンや東南アジアや中国で植林するのである。その土地に本来あるべき木を植えて、林に育て上げるのである。地球からどんどんどんどん森が消え、森が消えるからそこに住む昆虫や動物なんぞも消えてゆく。そして、私のようなぽんこつにはわからないけれど、そんなことが地球の環境破壊の要因となっているのでしょう。だとしたら、この先生の植林は、その逆を行くものであり、環境再生とでも呼ぶべきものなのではないかしら。この植林が、延いては地球を救うのではないかと思う所以である。理屈に昏いというのは悲しいもので、まともに説明できません。説明できないどころか、そもそもまともに理解できているのかどうかも怪しい。けれども、この老い耄れた直感が、この先生の凄さに敬服しなければいかん、と言うのであります。
 次回は一メートル四方の面積とやる気があれば森を育てられるというようなことを語られるそうである。大きに学び、我が小庭にも一メートル四方の森を育て、少しでも環境再生に役立つよう頑張ろうと思う。その土地に合った木を植える、ということだけれど、ここには何が相応しいのだろうね……ハバネロでないことだけは確かだろう、と思い至り、少々鬱するじじいである。

投稿者 nasuhiko : 18:47 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月18日

iconハバネロ26


 大変暑くなった。もう梅雨明けなのではないかと思う。朝一番で水遣りをするが陽射しは非常に強い。こう暑くなると、水を撒く時間が遅くなると、根腐れを誘引したりするという意見を度々耳にしているので、真偽は判らぬものの兎にも角にも、朝と夕に水を撒く老い耄れである。それにしても、この時節、朝に水を打つのは気持ち良いものである。一日が始まるぞ、という心積もりが引き起こされるというか、ね。

 昼が近づいた頃合いに、師匠大師匠、加えて、円嬢コロリン嬢が現れる。セニョール・ハバネロが白い花を開かせたことを知り、覘きに来たのだそうな。代わる代わるに、小さな花を覗き込んでは声を上げる。女性陣なんぞは、随分と高い声で耳が痛いほどであるけれど、それほどみなさんが喜んでいるという訳であって、セニョちゃんの育て主としては、鼻が高いような、少々擽ったいような、何とも独特の嬉しさを味わわせて戴いた。育て人冥利に尽きますな。
 一段落したところで、大師匠が持参下さった上善如水を戴く。暫く振りに呑むけれど、相変わらずの味でありますな。お若い女性陣には喜ばれておる。私としては少々物足りないような気も少しだけしたけれど、いやいや、夏には、こういうすうっとした酒は結構であります。

 ハバネロの花が咲き、私自身、大変大変喜んでいたけれど、それだけでなく、あの小さな白い花が、お若い友人達を喜ばせ、こうして我が荒屋に集まって杯を交わさせる。嬉しいじゃありませんか。明日からも、頑張っていこうという心が高まる。まあ、私が頑張らずとも、夏の陽射しがあれば、ずんずんずんずん育っていくに違いないのだからして、結構毛だらけ猫灰だらけ。余は満足じゃ。少々呑み過ごしておりまする。

 白き花囲んで楽し 冷やし酒

投稿者 nasuhiko : 18:13 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月17日

iconハバネロ25


 いやあ、人間、諦めてはいけません。あざみさんのように前向きに生きるべきなのである。それで、報われることもあろうし、報われないことだってあろうけれども、兎にも角にも、前向きに生きるところから始まるのである。
 愚痴を溢し、泣き言を漏らしてばかりだったセニョール・ハバネロとの日々であるけれど、愈々、明るい光が雲間から見えてきたのである。何と、本日見てみたら、白い花が咲いている。花が咲いたら、その次は実になるのでしょう。嗚呼、素晴らしいではありませんか。花が咲いているのですよ。そして、実になるのであります。
 しみじみと観察してみると、花の候補かもしれないような、小さな蕾みたようなものも散見される。これらが全て花開いて実になるとしたら、どんなに素敵なことでありましょう。年甲斐もなく興奮して、息苦しいほどである。何だ彼んだと焦りや苛立ちを感じたりもしてきたけれど、こうやって花が咲いてみると、それらも全て良い思い出というのか、本日の感動の為の肥やしのようにさえ思えてくるから、人間てえものは調子の良い生き物でありますなあ。
 もう直に梅雨も明けるだろう。そして、毎日、強烈な陽射しがセニョ殿の上に降り注ぐであろう。そうすれば、故郷の環境に近づくだろうから、今よりも、もっともっと元気になるに違いない。そして、たくさんの実を生らせるに違いない。そして、それをみんなで収穫して、その実りを用いて、美味しくて辛い、辛くて美味しいカレーを大師匠が作ってくれるだろう。そして、カレーを食しながら、杯を酌み交わし、自然の恵みをみんなで寿ぐことになるだろう。嗚呼、素晴らしいではないか。素晴らしいではないか。

 梅雨明けよ ハバネロの花 開きおり

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2005年07月16日

iconテレビと過ごした半日


 蒸し蒸しと暑い中、水遣りをしたり、ちょこちょこと雑草と思しきものを抜いたりしたけれど、もうどうにも暑くて暑くて、早々に引き上げて、部屋の中で扇風機の風を浴びながらぐったりするばかり。畳の上を転げながら、ぼんやりテレビを見ていると、よく見掛ける太った若者が青梅の案内をしている。いつもにこにこしていて、気持ち良く飲み食いするので、彼のことは嫌いではない。中々良い青年ですな。青梅のあれこれを紹介するうちに、澤乃井の小澤酒造が経営しているという「ままごとや」というお店が映る。涼やかな奴も良いのだけれど、厚からず薄からずといった具合の肉が炙られているのも良い。気の利いたコースを出しているようである。あんなに美味い酒を造るんだから、水が良いに決まっている。水が良ければ、それだけで料理なんざどんどん美味くなるに違いない。そして、また、あの太っちょが美味そうに食すものだから、画面を見ていて羨ましくて仕方がない。そうこうするうちに、夏に限定の吟醸酒なるものが出てきた。薄緑の白っぽいような瓶に薄緑の涼しげな文字でしたかね。いやあ、呑みっぷりが良いから、益々美味そうに見える。あれは良いね。早速、酒屋に尋ねてみよう。あの店に限定品なんてえものが揃えてあるかしら。
 そんなのを眺めていたら、こちらも一杯やらない訳にはいかないてんで、早速、始めましたよ。青梅の紹介は意外とすぐに終わってしまって、少々拍子抜けでしたけれど、まあ、此方人等、呑み始めてしまったものは止まらない。どのチャンネルもぱっとしないね、なんてことを呟きながら、堪え性なく、リモコンでチャンネルをがしゃがしゃしているうちに、『母のいない大家族』という番組に出会した。陰気な話は厭ですよ、と思いながらも、引き込まれる。嗚呼、これが、思いもかけず、私の心を激しく打ちのめしたのであります。正直に申せば、私は猛烈に泣きましたよ。こんなに良い子はいませんよ。今時珍しい、なんていうようなことではなく、古今東西探しても、この、あざみちゃんみたような良い子はいないに違いない。勿論、弟妹達だって立派なものである。けれども、やはり、あざみちゃんというお嬢さんは本当に素晴らしい女性であります。この老い耄れは七十年以上も生きてきて、未だにこんなような情けない代物なのに、彼女ときたら、十六歳であのように凛々しく美しく、しかも、達観している。諦めているのではなく、前に、未来に向いている。酔っ払っていたせいもあり、細かいところに関しては事情がよく判らないけれども、兎にも角にも、あざみ嬢の素晴らしさは本当の本物でありますよ。思い出すと、また涙が溢れてくるので止めますけれど、嗚呼、十六歳の少女の健気な姿に、私ももう少しあれこれと頑張って生きようと勇気づけられました。あざみ嬢に、幸多かれ、と祈らずにはいられません。いや、彼女なら、こんなじじいの祈りなどなくとも、立派に生き抜くに違いありませんとも。大丈夫です。

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2005年07月15日

icon夜に回帰


 昨日の、家守くんの亡骸に団子虫が集っている図を、実は、写真に撮ってある。撮ってあるのであるけれど、それは余りにグロテスクなもので、この愡け茄子日記に載せるのは見合わせたのであります。見合わせたのであるけれど、日中まじまじと眺め、夕方には青いデジタル・カメラで接近して撮影し、マックに繋いで画面でも眺めたせいで、脳裏にすっかりその悲痛の姿が焼き付いてしまったのであろう、夜半に家守が現れた。

 剣士の姿をした家守殿が夜間の警邏を行っていると、そこにすうっと小さな蛾が現れる。「ここまで来られるかい、やもりくんよ」とちょいと離れたところをふらりふらりと嘲笑うように舞う。家守くんは剣を抜き、やあ、やあ、と必死で突くのだけれど、先方は手慣れたもので、届かぬところをふわりふわり。やもりくんが手を止めると、からかうように近づいてきて、空中でくるりと回って見せたりする。何とも嫌らしい蛾ではないか。このままでは埒が明かぬ、と、やもりくん、一計を案じる。剣を持つ手を伸ばしたまま、一気に壁から飛び出したのである。よもや届く筈はない、と高を括っていた蛾は慌てましたよ。慌てたけれども、既のところで、身を翻し、一目散に逃げ去った。家守殿は地面に叩き付けられ、随分痛い思いをしたけれど、取り敢えず、敵を追い払えはしたわけであるから、目的の一部は果たせたのである。「やれ、やれ」と手足、胴体に纏わり付いた土埃を払う。「俺様にも羽があればなあ」と嘆いた途端、家守くんは意識を失い、暗闇の中に沈んでしまった。宇宙人面をした猫が背後から忍び寄っていたことに、気づけなかった不覚。見ているばかりで、助けてあげられなかった私は、残念至極。だが、嗚呼、これが自然界の掟なのである。私のそんな気持ちを知ってか知らずか、ちび公はこちらを向いてにやりと笑う。

 と、まあ、こんなような夢を見たのであるけれど、昼間現実世界で見たことが、多少姿を変えているとはいえ、そのまま夢に出てくるようでは、私の想像力というのは相当に乏しいのでしょうなあ。団子虫が家守にむしゃぶりついた図がそれほど強烈だったということでもあろうけれど。

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2005年07月14日

icon自然の回帰


 小庭に出る。乾燥している訳ではないので水撒きは不要であるけれど、順にあれこれと眺める訳である。一番端っこまで来たところで、昨日の、家守くんの亡骸に到達する。ちょいと胸元にわさわさと黒っぽくなっている。きっと蟻が集っているのだろう。そうやって、自然世界は循環していくものなのであろう、などと思う。そして、どれどれ、もう少し間近に観察しようと、腰を下ろしたところで、仰天した。蟻ではないのである。何たることか、群がっているのは団子虫の一団。彼此十匹以上はいる。家守公の喉から胸に掛けて、ざわざわと団子虫が大小取り混ぜて犇めいている。ううむ。些か不気味である。これが蟻だったら、不気味でないのか、と問われれば、どうでしょうな、やはり、蟻であっても不気味であろうか。よく判らない。
 しかし、何故、この老い耄れは、この有り様にびっくりしたのか、と、考えると、理由は全く判然としない。予想を裏切る事態だったからだろうか。ううむ。今まで、団子虫てえものは、何というのか、地面の中の微生物か何かを食しているのだろうか、というような、大雑把な理解しかしていなかったし、そもそも興味を持っていなかったので、彼らの生活の何くれに関しては無知なのであります。セニョール・ハバネロの根元辺りにたくさん集まっていた姿を見かけた時には、もしかしたら、この団子虫連中が葉っぱを齧っているのではあるまいか、と、一瞬、疑ってみたりもしたけれど、まあ、団子虫てえものは、高いところをうろうろするよりは、寧ろ、地面の中でも石の裏とかね、そんな処を栖にしている生き物であるから、葉っぱを齧るなんてことはあるまい、と、思って無視しておりました。結果的には、それは間違いではなかったのかもしれませんな。団子虫が肉食だったとは思いもよらなかった。では、彼らは普段は何を食しているのだろう。石ころの裏なんぞに屯しているところから考えるに、蛞蝓や蚯蚓なんぞを獲物にしているのだろうか。

 朽ちて土に戻るのでもなく、蟻に齧られ分解されるのでもなかったけれど、孰れにせよ、家守くんは自然界の循環の一員として生を全うしたのであるからして、嘆き悲しむよりも、寧ろ、祝われるべきような事柄であるのやもしれぬ。そう思い込みたいじじいである。本日も、『フォーレのレクイエム』を大きな大きな音で聴きますよ。

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2005年07月13日

icon家守の死


 庭の片隅で家守がひっくり返って死んでいた。どういう経緯でこういう状態になったのだろうか、と考えるに、喉元に小さな穴が開いているので、恐らく、宇宙人面したちび猫くんがやっつけたのかもしれない。もし、仮に、ちび公くんの為せる業だったとすると、本能の為さしむるものであり、自然界においては仕方がないことなのだろうけれど、それでも、何というのか、家守公の物言わぬ姿は痛々しく、私の胸に波風がゆらゆらと揺らめくのである。私は菜食主義者なんぞではないし、格別の宗教的自制心を持ち合わせている訳ではなく、例えば、ガンジーさんの無抵抗主義のような、美しい志からは限りなく遠いところにある、単なるぽんこつじじである。だから、家守くんの遺体を前にして胸が痛いなんぞと言うのは片腹痛い話なのであるけれど、本当のことだから、仕方がない。
 庭の何処かに穴を掘って丁寧に埋葬しようかとも思ったけれど、それよりも、自然に土に帰るのを待つのが森羅万象の摂理に適っておるかもしれない、と、思いを改め、庭の片隅に引っ繰り返った姿の侭、其の侭にして部屋に戻った老い耄れである。

 仮に、私が道端で倒れて死んでいたとしたら、通り縋った人は、警察なり何なりの役所に届けねばならないのだろう。其の侭放っておいて自然に帰るのを待とう、などということをしたら、何らかの犯罪に問われてしまうのかもしれませんな。この世界の中に生を受け、一つの生き物として生きているくせに、人間というものは、手前勝手な理屈をあれこれと拵えて、そのおかげでどんどん不自由で不可思議な存在になっているのではないだろうか。そうは思うけれど、その一方で、葬儀とかお墓とかいうもののがあるおかげで、心に区切りを付けられる、という有り難みもある訳であります。そういう何というのか、目に見える区切りがないと、どうしても、人というのは、ぐずぐずずるずるずぶずぶの、泥沼のような心境で堂々巡りを繰り返してしまったりし兼ねませんからね。死を前にして、中々平常心でいられるものではありません。嗚呼、家守くんの死から、何だってこんな話になってしまったのか。今晩は、家守君の為に、『フォーレのレクイエム』を聴くことにしますよ。

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2005年07月12日

iconハバネロ24


 時々拝見させていただいている、ゆきのブログさんのところのハバネロが実をつけられました。おめでたい。何ともめでたいことである。写真を拝見する限り、緑濃く、ぷるんとした実でありますなあ。素晴らしい。しかも、実が生っただけではないのである。

もう辛いのかな? 虫が全然つかないよ。

と書かれておられる。そうなのだろうか。実が出来るほど成長すれば、当然、辛く辛く、世界で一番辛くなって、虫が付かなくなるのだろうか。だとしたら、この老い耄れも、希望を持って頑張ろうという気が弥増すというもの。勿論、虫に喰われたって何だって、大師匠からの預かり物なのであるからして、頑張るのは当然なのだけれど、正直に申せば、正体の判然としない虫に未だに喰われているセニョールの姿を見ると、悲しい気持ちになる、というより、近頃では、無力感に襲われるというか、嗚呼、何とも情けない心持ちになるのである。しかし、ですぞ。実が生るようになれば、虫が付かなくなるのかもしれない、ということであれば、もそっと前向きな心境で日々を送れそうである。他人様のハバネロから希望を戴けるなんざ、有り難い話でありますな。同じ目標に向かって進む者として、陰ながら応援していたつもりが、実は、此方の方が励まされていたということになる。

 しかし、未だに、我が小庭のセニョちゃんは、虫喰いにあっている。犯人は誰だか判らない。蟻巻なのか蛞蝓なのか。将又、他の何かなのか。兎にも角にも、判らないということは、対策の施しようもないし、怒りの向け所が定まらず、もやもやするばかり。いやいや、もうそんな愚痴は止めようではないか。それよりも、実が生って虫喰いがなくなる日に向かって邁進するが良かろう。尤も、具体的にどうすれば良いのかということは、ちっとも判らないのだけれどね。まあ、気の持ちようですかねえ。

投稿者 nasuhiko : 16:47 | コメント (2) | トラックバック

TBありがとうございます☆

まだ実が青いのですが、きっと辛いに違いありません!
虫も食べれないほど!
一口かじって確かめたい衝動にもかられますが。。。
そこは赤くなるまで我慢します。

ただ試しに葉っぱを何枚か料理に使ってみようかな~と考えています。やっぱり葉っぱも辛いんでしょうか!???

投稿者 yuki : 2005年07月12日 18:49

 先ずは、実が生りましておめでとうございます。
 私のところのものは、未だ花も咲かない有り様でありますし、緑も薄いので成長が足りないのでしょう。けれども、実が生る日を夢見て頑張る所存でおりますよ。

 正直に申し上げると、おめでとうという気持ちと羨ましいという気持ちが半々であります。嗚呼、白状すれば、嫉ましいほどに羨ましい。

 しかし、ハバネロの成育で一喜一憂し、このようにインターネットの世界に知己を得るというのは、不思議なものです。
 何はともあれ今後とも宜しくお願い申し上げます。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年07月13日 18:14

2005年07月11日

icon喉元過ぎれば03


 英国でのテロで亡くなられた方の数は益々増えていくようであり、何とも恐ろしいことである。御当人も無念だろう。また、その御家族も遣り場のない悲しみや怒りに震えておられるのだろう。結局、戦争だのテロだのということになると、犠牲になるのは殆どの場合、普通の人なのだというところが、何とも辛い。例えば、ブッシュとビンラディンが一対一で喧嘩をすれば良いのである。そうすれば、痛いのは当人たちであって、一般の大衆の命が軽々しく失われることはないのだ。まあ、こんなことを、この老い耄れじじいがここで幾らほざこうとも世の中には何の影響もないのですけどね。まあ、それでも、ぶつくさと愚痴を溢さずにはおられないのであります。

 もやもやした遣り切れない気持ちを抱えたまま、カメラを持って、例によって散歩に出た。ぼんやりと歩いているうちに、突然、マリが『フォーレのレクイエム』をとても愛聴していたことを思い出しました。脳みその中の記憶の繋がりというのは本当に不可思議なものでありますな。兎にも角にも、駅の方に足を向けて、レコード屋を覘くと、ありましたよ。何だか知らないけれど、「奇跡の名盤」と謳われているのに僅か1000円だという。結構な話である。
 家に帰って、大きな音でかけてみる。今では当たり前だけれど、裏に引っ繰り返さないで済むというのは、こういうものを聴く時には有り難い。家内がよく聴いていたレコードに比べて、のんびりゆったりしていて、何となく牧歌的な印象を受けますなあ。それにしても、実に美しい音楽である。私のような無宗教の者の耳にも美しい。何というのか、鎮魂歌でありながら、鎮魂するばかりでなく、鎮魂する側の私たちの気持ちを慰撫し、少なからず元気にしてくれるような気がする。マリのことも思い出され、正直に申せば、少し涙が零れたけれど、嘆いているばかりなのではない。生きる活力にも繋がる、未来への道筋が見えるような気がするではありませんか。こんな物謂いは少々大仰に過ぎましょうけれど。

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2005年07月10日

icon喉元過ぎれば02


 人が死ぬということは仕方のないことなのであろうけれど、それに関しては、やはり、あれこれとものを思わざるを得ないものである。場所は英国、被害者は、恐らくは、見知らぬ英国の人々なのであるけれど、それでもやはり私の心に波風が立つのである。胸が痛い。この胸の痛みというものは何処からやって来るのかは判らないけれど、これも一つの現実なのである。その一方で、膝の痛みという切実な問題もあり、どちらの痛みがより大きな問題なのかというと、それはどちらとも言えない。

 先日教えて頂いた微温湯に浸かるというのをやり始めてから、膝の重みは大幅に和らいできている。してみると、やはり、血液の流れが悪かったのだろうか。まあ、兎にも角にも、有り難いことを教わった訳で、感謝に堪えません。二十分も風呂桶の中でぼうっとしていると、さすがに出てきた頃合いには、全身が怠い感じがするけれど、その怠さに対して、遠くから扇風機を浴びてごろ寝をするという楽しみが生じる、とも言える訳で、今のところ、毎日、飽きずに続けている。こうやって膝の痛みを和らげ癒すように、胸の痛みを和らげ癒す方法があればいいのに……という、女学生が夢見るようなことを思う。こんなじじいが何を甘ったるいことを言うのだろうか、と、自分でも思うけれど、胸の痛みをなくす方法があれば、本当に良いと思う。けれども、ないのでしょうな。というより、寧ろ、そういう胸の痛みを忘れてはいけないのである。胸の痛みがあるのは当たり前なのでありますよ。そういう恐ろしいことが起きているのであるからして、ね。そういう意味では、こういう気持ちを喉元過ぎさせてはいけない。いつまでも、あちちち、と、その痛みを覚えておかねば。人間てえものは、何でも彼でも直ぐに忘れてしまいますからな。

 戦争で、テロで、地震で、電車の事故で、台風で、などと、色々な痛ましい出来事が起きて胸を痛める。一日中そういうことばかりを考えている訳にもいかないけれど、心の何処かにその痛みを留めておかなければ、人間という愚かな生き物は同じことを繰り返してしまう。くどくどしいぐらいに、胸の痛みを心に刻み付けるが良いのである。

投稿者 nasuhiko : 15:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月09日

icon喉元過ぎれば


 とうとう亡くなられた方が五十名を超えたという。何とも痛ましいことである。対岸の火事だとばかり言ってはいられないと思ったのであろうか、威張りん坊の都知事があれこれ物申したりしている。ワイドショーなんぞでは、物識り顔で色々な人々が色々なことを言っている。テレビを通じて物識り顔で物申されると、私のような物を知らない愚か者には、何でも彼でも本当のことのように思われてしまう。知識人振った連中の発言のあれこれを見て、大変不安な気持ちになったり、憤ったり、悲嘆したり。彼らは、色々なことを放言したい放題だけれど、自分の発言が人心をおかしな方向に煽ってしまったりする事を恐ろしいとは思わないのだろうか。思わないのでしょうな。一見しただけで、彼らの顔の厚みは歴然であるからして。
 そうなのだ。言いたい放題の発言を垂れ流して世間を煽り立て、数日すれば、すっかり他の話題に移ってしまうのが、日本のマスコミてえものなのでありましょう。毎日のように大きな出来事が起きているので、そうするしかない、とういこともあるのだろうけれどね。正に、喉元過ぎれば……てえ具合なのである。そして、私なんぞも、新聞やテレビに振り回されて生きているものだから、昨日まで立腹したり嘆いたりしていたことも、今日には忘れ、そして、今日の出来事も明日には忘れ……結局、その日暮らしの螽斯。蟻のように未来に向けて物事を積み上げていく事など出来ぬのである。考えてみれば、七十年以上もそうやって生きてきた訳で、私という生き物は、何とも愚かな存在なのであります。

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2005年07月08日

icon途でもない


 イギリスで大変な事件が起きた。四十名に近い方々の命が失われ、七百名余りが負傷しているという。歳の所為か、こういう事件を耳にし、目にすると、震えが来る。何をしていたという訳ではなく、普通に暮らしていたのに、突然、命が奪われたり、怪我をさせられたり。途でもない話である。
 イギリスでなくて、他の国、例えば、日本であってもおかしくないのではないか、と思えてくる。テロリズムというのは恐ろしいものである。しかし、考えてみれば、戦時中にはこの国でも同じようなものであったとも言える。戦争というのは、そうやって何でもない人々が当たり前のように殺されていくことなのである。イラクやアフガニスタンでもたくさんの何でもない人々が当たり前のように殺されたのだろうし、朝鮮や越南でも何でもない人々が当たり前のように殺されたのだろう。広島や長崎でも何でもない人々がなくたくさんたくさん当たり前のように殺されたのである。それが戦争というものなのでありますよ。お国や思想家の人々は、色々と理屈を振り翳すものだけれど、戦争ということになれば、結局、普通の人々が当たり前のように殺されるのである。殺されるだけでなく、略奪されたり、陵辱されたり、凡そ人が人として決してやってはいけないようなことが当たり前のように行われるようになるのである。恐ろしいことである。全く以て人間というものは狂っている。どうしてこんなことになってしまったのだろう。楽しく明るく日々を送り、多少の軋轢があろうとも、譲り合いの精神で乗り越えれば良いではないか。大方の人は同じように思っているのではないかと思う。けれども、威張って武張った人が戦争を始めてしまう。

 あれこれ思い悩みながら、早い時間から呑み始めたもので、すっかり酔いが回ってきた。兎にも角にも、亡くなられた方々の御冥福を祈り、また、この世から、あらゆる戦争やテロや、そのような恐ろしいことがなくなるように、祈願する次第であります。普段は無宗教の老い耄れであるけれど、こういう時には、世界中のあらゆる神という神にお願い申し上げる。

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2005年07月07日

icon微温湯


 腰が痛い、膝が重い、と泣き言ばかりを書いていたら、御助言のメールを頂戴した。私の如き訳の判らぬポンコツじじいの戯言を読んで戴いた上に、御助言まで戴けるとは、何とも有り難い話である。感謝に堪えない。実に勿体ない。
 どういうことかというと、簡単に言うと風呂に入れ、ということである。これでは身も蓋もないですな。説明します。腰のちょいと上ぐらいまでお湯を張る。温度は体温より少しだけ高く、うっすらと暖かいと感じる程度。熱いのは厳禁であるとの由。そういう状態で腰まで浸かって、おでこからじんわりと汗が出てくるまで、大人しくしていなさい、ということである。見当としては二十分程。御覧の通り、実に細やかに御説明戴いたので、私のような盆暗でも労せず理解できた次第。兎にも角にも、血流が良くなるので、膝の重みはそれで解決するのではないかと思う、ということでありました。
 早速、有り難く、実行させて戴いたところ、成程、心持ち、膝の具合が良くなったように思われる。上がった後で、少々ばてたような気味があるけれど、遠くから扇風機の風に当たったら、すぐにすっと疲れが引いたようである。そのまま、畳の上にごろ寝して、三、四十分ほど、ぼんやりうつらうつらしたら、すっかり良い気分である。いやあ、これは手軽だし、気持ち良いし、良い方法を教わりました。明日からも、ちょいちょい試させて戴くことにしますか。

 風呂上がり 畳にごろ寝 扇風機

 これじゃ、風趣の欠片もない、小学生の日記みたような句だね。

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2005年07月06日

icon名前なんぞ2


 雨が降ったり止んだりして、はっきりしない。気温も中途半端なせいか、朝から膝がずんと重い感じがして厭だ。そうして、だんだん気が塞いでくるのである。早く梅雨が終わらないだろうか。うじうじしながらも、ついつい小庭に出て様子を見てみる。天候が良くない良くない、とは思うものの、最近はセニョール・ハバネロの具合は決して悪くはない。尤も、調子が良いという風でもないのだけれど、一時期の不調、苦しみ具合を考えれば、悪くないということは、私にとってもセニョちゃんにとっても、とっても素晴らしいことなのである。
 しかし、昨日の話に戻るけれども、ハバネロ殿のことをあれこれ書けるのも、名前が判っているからだ、ということではありますな。名前がどうだこうだなんてことは、人間の手前勝手な御都合主義の産物で、先方の草や木は、あっしらには関係ないことでござんす、と外方を向いているに違いない。まあ、実際、草や木が名前で呼び合ったりする筈はないし、名前がなくても、彼らは育つし、花を咲かすし、子孫を遺していく訳である。
 そんなことを考えながら、小庭でぼーっとしていると、ほうほう、暫く振りではないか。宇宙人面したちび公がやってきた。こちらの顔を見ると、にこりとする訳でもなく、にゃあと声を出す訳でもなく、何となく近からず遠からぬところで、一休みしている風である。手を舐めたり首をぐいと曲げて背中を舐めたり。合間にこちらの様子を窺ってみたり。「ちび公くんよ、一杯いくかい」と声を掛けるけれど、特段、返事をする気配はない。「ちび公くん」と猶も呼び掛けると、ちらりと見上げた。けれども、考えてみれば、この猫の名前が「ちび公」である筈はないのである。飼い主様が付けた、立派な名前があるに違いない。しかも、その名前にしたって、飼い主殿には意味があるかもしれないけれど、ちび公くん本人にとっては、意味はないのじゃないだろうか。まあ、他人様の家内のことだから、私がとやこう言うつもりはないけれど。
 冷蔵庫から鈴廣を取り出して、ちび公くんと半分こ。ちび公くんには牛乳。私は澤乃井。こうやって、対座して一杯やるのに、確かに名前なんぞ要りませんなあ、と声を掛けるも、あれあれ、先方はじゃかじゃか喰ってじゃかじゃか飲んで、もうどこかへ去っていった後。まあ、元気なことは結構なことである。

投稿者 nasuhiko : 20:46 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月05日

icon名前なんぞ


 我が小庭には、植えたもの、植えないのに勝手に生えたもの、大師匠からの預かり物、と、あれこれの草花がある。御存知のように、私は、マリの遺したものを何とか育てよう、というような気持ちから庭弄りを始めたのであって、元々花や草木に格別な関心を寄せていた訳ではない。しかしながら、家内の思いが籠っているであろう草や土と接しているうちに、何とはなしにそれなりの愛着や拘りが湧いてくるから不思議である。近頃では、雨の日でも傘を差して一渡り眺め回したりして、一端の園芸家気取りである。いや、まあ、気取っている訳ではないのだけれど、結果的に、そんな風なことになる。そうやって愛でていると、ああ、今日はこの草の緑が濃いな、とか、漸く、花が咲きましたか、などなどと、それぞれの移り変わりを目や指や鼻で感じる訳である。そういう色々な感興を得られるというのは実に有り難いことであり、この自然の恵みや驚異に感謝したい気持ちになったり。そして、当然、日記に書きたくなる訳である。そこで、はたと困じ果てる。名前が判らないのである。判らないから日記に書きようがないのである。人間てえものは愚かなものである。手前で考え出した言葉というものに囚われて、名前が判らないから日記に書けない、と泣き言を言ったりしている。莫迦である。情けない。仕方がないので、庭の右奥の草に薄桃色の見たことがない花が咲いた、などと、書いてみたけれど、どうにも落ち着かない。言葉というものに毒されているのか。毒されているのでしょうな。

 一体、名前に何の意味があるのというのだろうか。こんなことでむず痒い心持ちになるなんて、なんて愚かなじじいだろう。

 万緑や 存じませぬぞ 名前なぞ

投稿者 nasuhiko : 17:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月04日

icon老い耄れの一票


 大蒜の食べ過ぎでお腹を壊し、うんうん唸りながら厠に籠って、日曜の午前中と午後の多くの時間を費やした莫迦なじじいだけれど、夕方になって、何とか立ち直ったもので、どうにかこうにか選挙に出向くことができた。老い先短いぽんこつが選挙に参加するのはどうかとも思う。けれども、こうしてこの国に生きている限り、選挙で意思を示すということは国民としての義務でありますからね。本来なら、年寄りは未来のことは若い人に任せて引退するのが良いのではないか、とも思うのだけれど、引退の時期の判断というものは、スポーツ選手なんぞに限らず、私たち一般の、何というか、下々のものでも見極めが難しい。肉体的には相当にがたが来ているので、身体を使うようなことではもはや社会には殆ど貢献出来る筈がない。せいぜいが、道端に落ちているゴミを片したりすることぐらいであろう。頭の方も捩子が緩んでいるので他人様の役に立つことは出来そうにありませんな。そう考えると、最早、私なんぞは社会のお荷物に過ぎない訳であるからして、選挙に参加するような身分ではないのではないか、という気がしてくる。老いては子に従え、というような、言葉もあるではないか。こう書いたものの、ふと考えると、あれは女性に関しての言葉だったような気がしてきた。どうだったでしょうな。例によって、あやふやな記憶の儘に書き散らしている。
 立派な若い人たちが良い国を作ってくれれば、私のようなじじいは大人しくしていれば良い、ということは確かである。けれどもね、若い人たちは政治にあんまり関心がないようで困りますな。今度の選挙だって、四十五パーセントにも満たない、情けない投票率だというじゃありませんか。昔はこんなではなかった、と愚痴を溢したくなるけれど、こんな世の中にしてしまったのは、結局、私たち年寄りの責任なのである。若くて頭が良く、しかも、心がきれいな人が政治家になって、この国の舵を取ってくれないものだろうかねえ。

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2005年07月03日

icon開けっ放し


 大蒜を炙りぃの、味噌をつけぇの、澤乃井をぐびりぃの、大蒜を炙りぃの……と、あまりに美味いもので、昨晩は、結局、大蒜の塊を二個も喰ってしまった。お陰で元気が出たんだろうか。出たんだろうとは思うものの、恐らく、急激に大量のエネルギーを摂取し過ぎたようである。恥ずかしながら、お腹の具合が悪い。午前中は頻々と厠に駆け込むことと相成った。しかし、この時期、あの狭い空間は何とも暑い。暑くて暑くてかなわない。かなわないけれども、お腹がぴいぴいなもので、閉じ籠もらざるを得ず、汗がだらだらと流れ、下からも流れ、脱水症状を起こしたりしないかと心配なほどである。全く、こんな歳になっても適量というものが判らないというのは、何とも情けない話であります。しかし、よく考えたら、誰がいるわけでもいないのだから、厠の戸を開けたままにしておいても良いのではないか、と思い至る。
 早速、試してみたけれど、駄目です。何とも落ち着かない。不思議なことでありますなあ。誰もいないのだから、どうどうと開けっ放しで、寛げば良いではないか、と理屈では判っているのだけれど、どうしても気後れがする。これは、長年の習慣が身に染み付いているからだろうか。だとしたら、偏見に囚われ、脳みそが硬直した老い耄れ故のことなのか。他の人々はどうなのでしょうな。尤も、全面的に開ききるのでなければ、平気でありました。三センチ程開いた状態にしてね。それだと、まあ、最初は何となくむずむずするような気がしたけれど、直に慣れました。ということは、徐々に開ける巾を大きくしてゆけば、いつかは全開でも動じることなく、堂々と用を足せるようになるのだろうか。ううむ。試してみる価値はあるだろうか。

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2005年07月02日

iconすっきりしない。


 何とも気怠い。こういう季節の境目のような時には、あれこれと不都合が生じるものですな。腰の方の痛みは、畳にタオルで解決しているような気がするものの、膝の方が宜しくない。ずきずき痛いというようなのではないのだけれど、何となく、奥の方でずうんと痛くて重い、というような具合。寒暖が揺り返したりすると、どうしてもあちこちの関節がおかしくなる。考えてみれば、七十年以上も使い続けてきたぽんこつであるからして、少しぐらいの不具合は当然、未だどうにか動いているだけでも有り難いと思え、というところが、正しい心構えなんでしょうな。理屈はそうなのだけれども、しかし、すっきりしない。身体の調子がすっきりしないと、気分もすっきりしない。
 極力冷房の世話にはならないようにするのが、身体の為であるし、無駄な資源を消費しないという意味では世界平和の為でもある。尤も、世界平和だなんて、言っているけれど、そういうことも少しは考えなくもない、という程度のものでしてね。確固たる信念を持って、あれこれしている訳ではないので、夏が本格化してくれば冷房のお世話になることだろう。まあ、兎にも角にも、今のところは、扇子と団扇と扇風機。
 すっきりしない、すっきりしない、と泣き言ばかりを繰り返しているのは、みともないばかりで何にもならんから、少しは元気が出るように、精のつく物でも喰おうではないか、と思うのだけれど、鰻や肉なぞを思い浮かべても、どうも食指が動かされない。何が食べたいかと考えると、青紫蘇と生姜を薬味にして揖保乃糸でもさらっと、というようなところかねえ。じゃなけりゃ、奴。どちらも余り力が出そうにない。と、そこで、ふいと思い付いた。大蒜を炙って喰おうじゃないか、と。
 早速、大蒜を炙って、味噌を付けてやっつけましたよ。これが、またつまみとしても抜群だね。我ながら、良いことを思い付いたものだ。へへ。美味いねえ。美味くて力が出るてんだから、有り難い喰い物だよ、大蒜てえやつは。

 熱々の大蒜頬張り 冷やし酒

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2005年07月01日

iconハバネロ23


 昨晩は、今年になって初めて蒲団ではなくタオルを一枚ひいて、その上に寝た。これが良かったのでしょうなあ。腰痛が治まったようである。調子に乗ってじたばたすると、またぶり返しかねないので、大人しくしているけれど、うんうん、調子が良い。調子が良いのは私だけではない。こんなに涼しくなっているのだが、どうもセニョール・ハバネロも調子が良いように見受けられる。緑の色が濃くなってきたような気がするのだけれど、気のせいだろうか。よく考えてみれば、齧られている葉っぱだって相当減ってきていますな。こういう時に、写真というのは何とも便利なものである。少し前の写真と比べて確かめてみたけれど、やっぱり、色が濃くなり、齧られている葉が減っているの。ああ、愈々、ハバネロくんの黄金時代も間近なのだろうか。嬉しいねえ。やはり、あれですな、暑さが足りないのが一番の原因だったのでしょうな。それから、根元を少し掘ったのも良かったのかもしれない。珈琲の残り滓を撒いたのだって効果がなかったとはいえまい。考えてみると、本当の原因は何だかわからない。判らないのだけれど、此方人等、農家でもなければ科学者でもないのだからして、原因が判らなくたって、かまやしない。大事なのは、セニョちゃんが元気に元気に育ち、立派な実を付けてくれる、ということなのである。すっかり浮かれて、大喜びしている老い耄れであるが、実りの日まで、未だ未だ道程は長いんでしょうなあ。それにしたって、夏間近。未来は明るそうである。今宵は、祝杯ですか。まあ、祝い事がなくたって呑むんだけれどね。祝い事があれば、一層美味いものである。

 ハバネロの 緑眩しき 梅雨晴れ間

投稿者 nasuhiko : 17:45 | コメント (0) | トラックバック