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2005年08月31日

icon全くどうでも良いのだけれど


 ふらふらと散歩をする。いつもは公園だとか川だとか、比較的自然の多い方へ多い方へと足が向くものであるけれど、今日は、どういう風の吹き回しか、通りの方へ出てみようという気になった。そうすると、やはり、目に映るものは、異なりますな。当たり前である。ビルと道路と人、人、人、おまけにもひとつ、人。しかも、人々は急いでいる。のんびりしているのは、二人組の小学生の女の子たちと私ぐらいのものである。見慣れた光景ではあるけれどね、それでも、味気ないですな。尤も、私だとて、勤めていた頃には、御同様、齷齪齷齪していたのでありましょう。自分ではそんなつもりは少しもなかったけれど、きっと傍から見れば、忙しそうに見えたのではなかろうかと思う。
 そんなことを思いながら歩いていると、殊更にのんびりした人が現れた。黒い半ズボンに水色のTシャツ。Tシャツの胸には蝶々が描かれている。足元はと言えば、素足に黒いゴム草履である。のんびりと、というよりも、どちらかと言えば、へらへらと、という風に、私の前方を歩いている。幾つぐらいだろうかねえ。三十代か。四十代位だろうか。若くはない。けれども、じじいという程には老けている風でもなく。私よりも歩みが遅いその御仁、通り沿いの店に吸い込まれていった。一体、何処に入ったのだろう、と覘いてみると、お仏壇の何とかという、有名な仏具店なのである。驚きませんか。半ズボンにTシャツ、草履履きで仏具店ですよ。一昔か二昔か、あるいは、もっと前の流行りだったかもしらんけれど、よく「TPOを弁える」などというような物謂いが流行りましたな。それを思い出した。今の時代は、そんなことは関係ないのかもしれないけれど、仏具店にあの服装のへらへらした人物というのは、何とも似合わない。硝子張りの店の前を通りしなに覘いてみると、制服を着たきちんとした女性と対座して腰掛け、何だか説明を聞いているようであった。硝子にへばり付いて覘いているてえ訳にもいかないので、先へ進んだけれど、あまりに気になったので、決心して、Uターンして戻ってみたのであります。そうしたところ、丁度、出てきましたよ。入り口まで女性に見送られてね。件の男性、店の前で、包みを開き、「へえ、こんな仕上がりなんだなあ」などと呟き、手に取って見ているのが、何と位牌なのである。真っ黒という風でもないから、紫檀か何かだろうかね。引っ繰り返したりして、一頻り眺めたと思ったら、元の包みにざざっと包んで、元来た方に歩き始めたのでありました。鼻歌交じりにですよ。ううむ。胸の奥がこそばゆい。いけないということはないけれど、何とも不思議な光景である。時代なんですかねえ。それとも、あの人だけが、ちょいと変わった人なのか。何だか、一気に半世紀も歳を取ってしまったような気のする午後でありました。

投稿者 nasuhiko : 19:47 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月30日

icon中華的


 「ネコとハチミツ」さんのところで、中華料理話を読んでから、近頃、ふとした瞬間に中華料理を食べたいなあ、と思うことがある。そうは思うのだけれど、一人で中華料理というのは如何にも味気ない。然りとて、一緒に食事に出かけようなどという知り合いも現れず、思うに留まっている訳である。しかし、本日、良いことを思い出しました。中華的な素麺の食し方というのを習ったのが突然思い出されたのであります。こういう脳の働きというのは不思議ですなあ。ごちゃごちゃにこんがらがっているぽんこつ脳みその片隅に埋もれていた記憶が、何かの拍子に表面にぷかりと浮かび出る。この老い耄れの記憶力てえものも、未だ未だ捨てたものじゃないね、などと、自画自賛。莫迦である。
 さて、それで、思い出した素麺の食し方ですけれどね、然程、手間がかかるものではない。大蒜を下ろし、生姜と長葱を千切りにする。作業はこれだけであります。それでですな、通常の素麺の汁にごま油を一滴二滴足らした上で、先に用意した薬味を適宜加えながら戴くだけであります。これがね、美味いのですなあ。まあ、本当に、中華なのかと言えば、そりゃ違う。これは、飽くまでも、中華っぽい感じの素麺なのである。けれども、この中華的な、という程度の、中華さ加減も結構なものである。何しろ、美味いんだから、細かいことはどうでも宜しい。中華という看板抜きにして、純粋に堪能致しました。これからも偶に思い出すことにしよう。
 この食し方を誰に教わったのかが思い出せないのだけれど、私に教えてくれた人物はお坊さんから教わった、と言っていたということだけは覚えております。本当に頭の中の仕組みというのは不可思議なものですなあ。教えてくれた御当人を思い出せもしないのに、大本がお坊さんだということは覚えているなんて。それにしても、誰に教わったのでしょうなあ。あんまり美味しかったもので、お礼を申し上げたいのだけれどね。

投稿者 nasuhiko : 19:07 | コメント (2) | トラックバック

あ、簡単で美味しそうですねぇ。
夏ももう残り僅かですが、そうめんはまだあるので
明日のお昼にでも作ってみようかと思います♪

投稿者 keico : 2005年08月30日 21:46

 大変おいしいですぞ。是非是非、お試し下さい。ごま油を垂らし過ぎないが宜しかろう、と思われます。私なんざ、助言できるような身分ではありませんけれど。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月31日 19:52

2005年08月29日

icon最後の炎


 朝の草毟りの際に、それほど暑さに苦しむこともなくなってきた。段々と夏が終わっていくのですなあ。暑くて敵わん、と思っていたのも束の間のことであった。直に、寒いですなあ、ああ、寒い寒い、などと言い出すのである。そんなことを繰り返して七十余年。尤も、幼少時には暑い寒いであまり愚痴は溢しませんでしたか。考えてみれば、学生時分だってそうだね。暑い暑い、寒い寒い、とは言っていただろうけれど、それはそれで楽しんでいたような気がする。
 無駄に長い人生を送っている私ですが、今日、生まれて初めての経験をしました。蚊遣りですよ。あの、蚊取り線香が消える瞬間に立ち合ったのである。あんなものはね、夏場となれば、毎日毎日、ばかみたいに燃しているのだから、燃え尽きる瞬間に出合ったとて、そんなことが珍しいことである筈がないと思うのだけれど、初めてだったのである。もしかしたら、世間の皆さんは、そんなものは何度も見たことがあるよ、と仰るのだろうか。第一、蚊取り線香が燃え尽きるのが何だってんだい、と、そうお思いかもしれない。まあ、そう言われればそうなのであるけれど、私にとっては、生涯において初めての出来事であるし、何というのか、ある種の感動を覚えたのですよ。自らの勤めを全うして消えてゆく姿。最後の炎。燃え尽きて灰になる。今生に悔い無し。あれこれと、言葉を思い浮かべてみるけれど、良い表現がみつからない。兎にも角にも、私は、その最後の瞬間に立ち合えたことに感動を覚えたのであります。ご苦労様でした、という気になった。友人が亡くなったような、そんな気持ちとは全然違うのだけれどね。何だか、改めて感謝したくなったというか。あれだね、ちょこっと近いと言えば、萬年筆のインクの瓶が空になる時の気持ちにも近いかもしれない。尤も、インクの瓶てえものは、作りが悪いからね、最後の一滴どころか、かなりの量が吸い込めずに残ってしまう。まあ、構造上仕方がないのだろうけれど、とても勿体ない気がする。それで、そのインクに書の筆を浸して、落書きしてみたりしてね。それはそれで中々楽しいから良いんだけれど……って、一体、何の話をしていたのだったか……ああ、そうそう、蚊遣りの燃え尽きる姿であった。夏の終わりを象徴するような図であった、などというと、如何にも胡散臭い響きの物謂いだけれど、実際、私には、そんなように思えたのであります。そうは言っても、明日からも、未だ未だ蚊遣りは炊くんだけれどね。

投稿者 nasuhiko : 17:05 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月28日

icon影と日向


 午前中、例によって、カメラ片手にのろくさと散歩する。公園で一休みしていたら、いやにくっきりと影が出来ている処があるのに気づいた。まあ、だからどうということはないのである。所詮は影ですからね。光があって、物があれば、影もできましょう。影がなかったら、そりゃ幽霊だてんで、その方が問題だ。だから、影があって良かった、良かった、てなもんだ。不思議なものや話をテレビで観るのは好きだけれど、目の前に幽霊なんぞ出てきてもらいたくはない。尤も、出てきたら出てきたで、存外、悪くない経験かもしれないけれど。
 その、地面に出来た影をぼうっと眺める。暇な人間にしか出来ない業である。そうすると、当たり前のことだけれど、少しずつその影と日向の境が移動していく訳である。そうは言っても、すたすたと進む訳ではないのであって、太陽の動きに合わせて、この境がじりじりじりじりと動いていくのであるなあ、と思いながら、眺めているから、そう見えただけのことかもしれない。はっきりと動きが判るほど、長くそこにいたわけではないですからな。

 荒屋に戻ってからも、何となく、先程の、影と日向のことが気になる。気になるので、それについて、あれこれと思いを巡らしてみるのだけれど、結局、何がどうしてどうなった、というような結論がある訳じゃなし、もやもやした侭なのだけれどね。これで、何か他人様に語れるようなものが湧き出てくるのなら、私も哲学者だとか何だとか、一廉の立派な人物になれたんだろうけれどね。もわもわするばかりで、何も生まれてきやしない。けれども、これはこれでね、悪くないものです。ぼんやりとこんなことを考えながら、呑む澤乃井てえものもね、悪くないものですよ。はは、暢気だね、と。

投稿者 nasuhiko : 21:18 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月27日

icon付ける薬のある筈もなし


 天気が良い。散歩に出る。使い古したぽんこつ足も、本日は少しは軽い。それにしても、晴れていても朝のうちは気温が上がりませんな。夏も間もなく終わるのでありましょう。
 散歩しているとよく判るますな、雑草の生長が恐ろしく早い時期なのだなあ、と。背高泡立草というのでしたかね、あの、外来ののっぽの草がありますな。あれなんざ、私よりも背が高いのが幾らでもある。しかしですよ、先日の颱風でばったり折れてしまったものも少なくない。ううむ。それが自然の掟なのだろうけれど、照りつける陽光の下、何本も並んで倒れているのを目にすると、少々切ない気がしなくもない。
 考えてみれば、セニョール・ハバネロだって、同じ運命を辿るところだったのである。ところが、添え竹が支えてくれて、難を逃れたのであります。ありがたい。そういう心で見回してみると、ほほう、確かに、竹というものは丈夫ですな。しっかりものである。狂風に煽られ続けた所為で、傾いでしまっているものもあるけれど、倒れてしまっているというものはないようである。
 そうであった。昨年は、雑草の中の雑草、とでもいうように、笹や竹を目の敵にして、小庭から排除しようと躍起になっていたのであった。彼奴らの根をずっと掘って掘って、隣との境まで掘り捲って、ああ、それでも全部を退治することはできないのだなあ、などと、そんな風なことを思っていたものであります。ところがですよ、この度は、その竹にセニョ殿を救っていただいたような訳であり、竹というものは、あれですな、すうーっと真っ直ぐに伸びるだけあって、正々堂々とした侠気があると申しますか、私に、言わば昨年までの敵に、塩を送ってくれた、ということになりましょうか。
 では、私も、その竹の塩に報いるために、今後は、笹や竹を刈るのを止めようかしら、と思わなくもない。一度はそう思ってみたけれど、あれですな、それでは、却って、竹の顔に泥を塗るとういようなことになるかもしれない。敵に塩を送るという立派な行為だけれども、私がこれを機に竹派に寝返ってしまったら、竹氏の折角の行為は、敵に塩ではなく、敵を懐柔する作戦だったということになってしまう。竹てえやつは何だい、気持ちの良い男だなあ、と思っていたけれど、結局は、ああやって、敵を取り込もうというような嫌らしい作戦だったのだねえ、と、そんな噂が立ってしまうかもしれない。いけない、いけない。そうなのだ、やはり、私は今後も竹や笹をこの荒屋の小庭の世界では雑草と認定し、戦い続けねばならない。そうであってこそ、初めて、竹氏の敵に塩が輝くのであります。
 嗚呼、呑み過ぎてどんどん訳が判らなくなってきた。兎にも角にも、竹氏よ、ありがとう。そして、また正々堂々と戦おう、と、こういうことだろうか。下手の考え休むに似たり。いやいや、酔漢の考えなんざ、休むに似たりどころか、全くの空回り。先程から、からからからから、如何にも空疎な音がする、と思ったら、それは私の脳味噌の音なのでありましょう。老い耄れの酔っ払い、付ける薬のある筈もなし。莫迦である。

投稿者 nasuhiko : 19:20 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月26日

icon颱風一過


 あちらこちらで大変な被害を巻き起こしたようだけれど、幸い、我が家の界隈では、大事は起きていないようである。朝起きたときには、概ね、一過したあとと言って良いような様子でありました。雲一つないどころか、かなりたくさんの雲が出ていたけれど、その向こう側には真っ青な空が覘いていた。そんな朝の空模様をぼんやり眺めていると、胸の中がすうっと、静かに透明になるような心持ちがしたものでしたよ。しかし、はっと我に返る。そうだ。セニョール・ハバネロはどうしただろうか。あれほどの大風、どこかに飛んで行っちまったり、折れちまったりしてはいまいか、とセニョちゃんの元へ小走り。尤も、大人が走り回れるほど広い庭ではない。小走りにというのは、まあ、何というのか、比喩的誇張であります。さて、件のセニョ殿だけれど、いやあ、良かった。添え竹をした甲斐がありました。添え竹くんは、大幅に傾いていたけれど、何とか、その、護衛というのか警護というのか、兎にも角にも、南米からいらっしゃった要人の身を守ることに成功したのであります。この狭い庭の中にも、ばったり折れてしまった草木がある訳だから、恐らく、添え竹がなかったとしたら、ハバネロ殿だとて倒れてしまったに違いない。何しろ、以前にも、途中からぱっきりと折れてしまったことがあるぐらいですから。尤も、あの時のは、虫か蜥蜴でも追い掛けて走り回っていたちび公が激突した所為なのではないかと思われますがね。孰れにせよ、無事で何より。結構、結構。

 午後からは蒸し蒸しと暑い日になった。けれども、それにしたって、とてもじゃないがもう盛夏とは言えないでしょうな。蒸し暑さの中に、仄かに秋の匂いが香りましたよ。

投稿者 nasuhiko : 21:03 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月25日

icon颱風様御来訪


 颱風十一号というやつがすぐそこまで来ているという。確かに、突然、ざざーっと降ってみたり、止んでみたり、と、この界隈の空模様も何かと忙しい本日。
 前にも書いたような気がするけれど、颱風の前の静けさ、それから、颱風の最中の雷、叩き付けるような雨、大木をも折らんかなという勢いで吹きつける風、そんなものに触れると、どきどきというのかわくわくというのか、兎にも角にも、非日常に触れる昂揚した気分になる。自分が颱風で痛い目を見たことがないから、こんな暢気なことを言っていられるのだけれど、正直なところ、早くも興奮気味の老い耄れであります。白状すると、ちょいと前から、もう呑み始めている。我が事ながら呆れますな。まあ、颱風が来ようが来まいが呑む訳であるし、ちょいと時間が早まっただけのことだけれどね。先日来、硝子の酒器と猪口で、形だけでも、多少なりともお上品な風で呑むことを心掛けているのだけれど、今日みたいな日は、やはり一升瓶から、湯呑みほどもあろうかというぐい呑みにどぼどぼと注いで、ぐびぐび呑む方が相応しいような気がするから不思議である。実際、そんな呑み方をしているもので、早くも酔いが回ってきましたよ。莫迦である。未だ五時にもなっていない。颱風を肴に呑むなどという、大戯けのこんこんちきの私であります。幾ら酔っ払ったって、最後に苦しむのは自分ですからね、まあ、どうでも宜しい。私の身なぞどうでも良い。そんなことより、あれですな、セニョールは大丈夫だろうか。折角、添え竹をして上向けようとしたところなのに、支える筈の竹諸共、大風に倒されたりしてしまわないだろうか。ううむ。

 ところで、先程、空の様子を見上げようと表に出たら、暫く振りに宇宙面したちび公くんに会いましたよ。尤も、向こうは、まるでこんな老耄には何の用もない、と無視を決め込んでいたけれどね。しかし、あのちび公くんてえやつは、雨の中でも普通にのんびりと歩いておりましたよ。猫というのは、雨を嫌がらないものなのだろうか。些か不思議な光景でありました。

投稿者 nasuhiko : 19:25 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月24日

iconハバネロ34


 昨日は早くから呑み始め、相当な深酒をしてしまったけれど、少しはものを考えてもいたのである。そして、早速、本日、実行に移しました。添え木ですよ。やはり、実が地面に触れた状態というのは、どう考えても宜しくない。
 添え木の材料だけれど、セニョール・ハバネロと直に接する訳だから、出来得れば自然のものの方が善い。頑丈さや扱いやすさということを考えれば、金属やプラスチックが都合が良いのかもしれないけれど、そんなものに縛りつけられるセニョ殿の身になって見給え。如何にそれが理不尽なことであるかは歴然である。それで、自然にあるものを考えたのであるけれど、ただの棒切れだと、地面の中ですぐに腐ったりしかねない。呑んだくれながらもああだこうだと思案した結果、竹に思い至った。竹はですな、概ね真っ直ぐだし、切り取ってからも頑丈なまま長期間持ち堪えるからね、これは良い。しかも、そこいらにぼうぼうと幾らでも生えている。早速、二本ばかし切ってきて、脇の枝をばさばさと切り落として、地面に突き刺しましたよ。すっきりしていて、中々宜しい。色も控えめで結構。最初は上の方の葉っぱや枝葉を切り落とさずに残しておいた。その方が、姿が宜しい。だけれど、折角の日光を塞ぐ形になってしまうので、南米生まれで、恐らくは太陽を好むセニョ殿のことを思い、不要な部分はばっさりと切り落とした。
 あとは、添え木というか添え竹と結び付ける段である。ここまで自然だの何だのと拘ってきたし、実際、そういう心境なのである。それ故、草で結んだりすることも考えたのだけれど、屡々調整が必要かもしれないし、私の不器用な指先でも何とかなるものを、と思案した結果、あれですな、ビニールに包まっている針金にしましたよ。電気製品のコードとかにくっついてくるあれである。そりゃあ、ビニールの感触なんぞ気に入らないだろうと思いますがね、ここは一つ堪えて戴きたい。添え竹生活をしているうちに、上向きに育っていってくれれば万事解決と相成る予定。御不満を呑み込んで、暫しお付き合い願いたい、と平に平に御願い申し上げた次第。もし、ビニールのところから、おかしくなるようなら、また何か他のものを考えるけれどね。
 それにしても、南米から、東洋のちっぽけな島国に連れてこられ、気温も日光も足りず、世話人の技量も心遣いも足りないところへもってきて、今度は竹の棒にビニール針金で括り付けられる。何の因果でこんな目に合わせられるのやら、と、嘆いているかもしれませんなあ。ううむ。実に申し訳ない。

投稿者 nasuhiko : 18:43 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月23日

iconハバネロ33


 朝の水遣りの際に、セニョール・ハバネロの、葉っぱに隠れた低い所を丁寧に覘く。ううむ。やはり、懸念されていた事態が起こっていたのである。枝葉が成長し、実もどんどん生長する。素晴らしいことである。けれども、どういう訳か、大本の幹が斜めになってしまっているが故、先っぽの方が重みに耐え切れず、じわじわと撓んでおり、嗚呼、何たることか、折角の瑞々しい緑に輝くハバネロ殿の実が、地面すれすれ、精々が一糎、場所によっては、僅か五粍程しか浮いていない。つまり、これは、ぷくりとした実が地面に接してしまうまであと僅かということである。実が育てば育つほど、重みが増し、地面に近づいていくことになるとは。ううむ、困りました。先日は、添え木なんざ、南米生まれのセニョちゃんの好むところではなかろう、と思ったけれど、事態が進行してしまった今、そんなことも言っておられんのではないか、とも思う。地面に接したまま、無事に成長を続けるなんてことは、考えにくいですからね。それとも、大丈夫なのだろうか。いや、そんな筈はない。

 最早、数日の内に手を打たねば生らないことは歴然なのである。兎にも角にも、何らかの方策を立てねば、と。そして、じっくり腰を据えて方策を案ずるには、澤乃井を呑まなくては、と。澤乃井を呑むには、気の利いたつまみのひとつもあると良いのだが、と。気の利いたつまみと言えば、ああ、幸い、未だ山葵青海苔があるじゃないか、と。こんな具合で、風が吹けば桶屋が儲かるの類の飛躍論法で、一杯やり始めたのであります。莫迦である。こんな態度で一体何か解決策が浮かぶのだろうか。いや、そんな筈はない。困りました。

投稿者 nasuhiko : 20:03 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月22日

icon新しい下駄


 前の下駄がつんつるになったもので、新しい下駄を購入した。驚きました。何とたったの八百円だったのである。八百円ですぞ。下駄というものも人気がなくなったのだなあ、と思ったものだけれど、どうもそういうことではなく、最後の一つだからだということでありました。最後の一つだと何故安くなるのか、というのは、よく判らない。靴ならば、サイズがあれこれあるので、一足だけ残ったら何かと不便だということはありましょう。けれども、下駄ですからね。尤も、下駄にだってサイズがない訳ではない。しかし、それにしたって、精々が大小。もしかしたら、大中小ぐらいの区別のあるものもあるのかもしれないけれど、私は見たことがない。殆どの場合、下駄なんざ、サイズは一つしかないもの。踵が食み出たって構いやせんのでありますよ、下駄や草履てえものは。
 兎にも角にも、八百円で下駄が買えたということが、私に細やかな幸福感を与えてくれている。けれども、曲がり形にも桐の、鼻緒だってビニールなんぞではない、まともな下駄が、たったの八百円で買えてしまうのは申し訳ない、という気がしなくもない。下駄なんざ不人気で、職人さんたちの手間賃がどんどん下がっちまっているのだろうか。考えてみれば、近頃、下駄を履いている人をとんと見掛けなくなりましたな。ちょいと前までは……と言っても、かれこれ二十年程前までってぐらいだけれど……近所をほっつき歩く程度なら下駄履きって御仁は決して稀ではなかったのだけれどね。若い人が履かないのは解らなくもない。彼らは生まれてこの方一度も履いたことがないのでありましょう。下駄というものは履き心地も良いものだし、一度履けば常用するようになるものだと思うのだけれどね。ところが、どういう訳か、下駄履き経験のある筈の年輩の人ですら、今では下駄を履きゃしない。洋装だからではないか、と推測される方もいらっしゃるかもしれないけれど、洋装に下駄というのも珍しいものではなかったのであります、ちょいと前までは。近所での買い物程度なら、私は今でも洋装でも下駄履きであります。

 私は下駄屋じゃないのだから、下駄を履け、履け、履きやがれ、などと言う心算は毛頭ない。けれども、もし、履いたことがない、という、履かず嫌いでのことであるのなら、そりゃ、下駄にとっても人にとっても不幸な話であるなあ、と、要らぬ心配をしておるのであります。

投稿者 nasuhiko : 19:27 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月21日

iconハバネロ32


 セニョール・ハバネロは、その後も、順調に成長している。実もたくさん生っている。十個以上はあるように思う。数え始めるのだけれど、くらくらして、結局訳が判らなくなる。いや、私が、十まで数えられないような愡け茄子だという訳ではありませんぞ。ハバネロの実を数えるのが存外難しいのである。これはやってみなければ判らんかもしれないけれど、奥の方や、やたらと低い、地面すれすれのところに生っていたりして、しかも、緑の中の緑であるからして、みつけにくいこと甚だしい。腰は痛くなるし、あれ、この実は数えただろうか、未だかな、などと、やっているうちに訳が判らなくなるのである。けれども、ざっと、十はあるでしょうな。未だ花も咲いているから、最終的にはどういうことになるのか。大豊作である。ふふ。
 腰を屈めて、下の方を覗き込んで、懲りずに実を数えていたら、不思議なことを発見した。大本の茎が曲がっているのである。地面から斜めに出ている。実が地面すれすれになっている、と先に書いたけれど、それは、木自体が斜めになっていることから生じている現象のようである。今のところ、問題は発生していないけれど、もう少し木が生長し、実も生長したら、重さに耐えかねて、倒れてしまうのではないか、という心配がもくもくと胸の中で膨らむ。何か添え木のようなもので支えて、横ではなく、上に延びるような方向づけをすべきなのか、ど思ってみたり。しかし、今まで、あるがままに自由に育ってきたのに、ここに来て、添え木に縛りつけられたりしたら、どんな気がするだろうか、とも思う。何しろ、相手は南米人ですからね。勝手気侭に、気の向く侭に生きるのを善しとしているのではないか、と。尤も、これは私の想像に過ぎません。何しろ、南米の人に知り合いというものがいませんからね。本当の南米の人というのは、どういうものなのか、とんと判らない。判らないけれども、長年の読書や映画鑑賞やの影響で、南米人というのは自由闊達な気風の持ち主なのではないか、なんて思い込みがある。アミーゴというのは、友だちという意味でしたか。ちょいとしたことが切っ掛けで、すぐ仲間になって、そらそら、まあ、一杯ってんで、テキーラをくくぅっと呑み干し、今日から俺たちはアミーゴよ、てやんでえ、ってなもんでね。はは、何だか、これじゃ寅さんみたような風ですか。
 嗚呼、妄想激しく、話がどんどん逸れてしまったけれど、さてさて、セニョちゃんに添え木はするべきや否や。ううむ。どうしたものだろう。

投稿者 nasuhiko : 18:12 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月20日

icon呑み過ぎたけれど2


 何たることか。またもや大幅に大幅に呑み過ぎてしまった昨晩。ううむ。愚かなり。嗚呼、愚かなり。
 昨日は、夕刻から一人で盃を傾けた。日比野さんが見えた時に、氷を脇から入れて冷やす硝子の酒器や、硝子の猪口を出し、つまみも、何の工夫もないけれど、少しは形の良い皿に載せた。まあ、どうということでもないのだけれど、普段に比べると大きな違い。普段は、一升瓶から直に、湯呑みに近いほどの大きなぐい呑みにざぶざぶと注いで呑む、という有り様。つまみにしたって、平生なら、そんなにいくつも用意はしないものだから、手近の皿にざざっと雑に載せるだけである。まあ、何というのか、言ってみれば、味気ない。まあ、この素っ気なさも年寄りの一人暮らしの味だと言えば言えないこともないのだけれど、考えてみれば、それほど大した手間がかかる訳ではないのだから、せめて、この能登のつまみがあるうちぐらいは、きちんと見てくれのことも考えて呑もうではないか、という気になったのであります。
 実際の話、どの皿にどのように盛り付けようとも、中味は同じ訳であるから、味が変わる訳ではない。当たり前である。けれども、気分は変わる。この度、改めて、気分も美味の一つの要素であるなあ、と感じた次第。日頃があまりに雑ですからね。余計にそう感じたということもあるでしょう。ちょいと、小皿に小奇麗に……小奇麗なつもりで……盛り付けるだけで、美味さが違うのなら、その手間を惜しむことはない。尤も、これにも弱点がないこともない。美味しいものでね、ついつい呑み過ぎてしまう、という。はは、馬鹿である。呑み過ごしたのを、肴の所為にしているなんざ、笑止千万。こんな歳になっても、未だ適量が判らぬ上に、肴に濡れ衣を着せるとは、全く以て、情けないことこの上ない。往生際の悪いじじいである。

投稿者 nasuhiko : 17:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月18日

icon呑み過ぎたけれど


 昨日はどろんどろんに泥酔してしまった。不思議なことに、本日は大した宿酔にはなっていないのだけれど、いやあ、呑みましたなあ。途中からさっぱり記憶がないのだけれど、それでも楽しかったという気分だけは残っている。ありがたい。
 未だ私が勤めていた時分の知り合いの方で、年に一度か二年に一度か、兎にも角にも、忘れた頃に、ご訪問下さる。その都度、何かしら、美味しいものをぶら下げてきていただいてね。はは、先方も嫌いじゃないですからね、座るとすぐに、ひとつ、傾け始める。
 暫く振りに呑む上善如水は、正しく清らかな水の如き滑らかさで、すいすいすいすい胃の腑に流れ込んでいった。硝子製の、脇の凹んだ所に氷を入れて、見た目も中味も涼しくなるという、お気に入りの徳利というのか酒器というのか、でね。猪口も青い硝子製ですよ。うちにも気の利いたものがない訳ではないのである。はは、自慢ですか。自慢するほどのものでもないんだけれどね。しかし、この組み合わせは、夏の来客時には大きに重宝するのであります。
 御持たせになるけれど……って、日比野さんが見えるときはたいていそうなんだけれど、昨日のつまみも美味かったですなあ。海胆鮑と蛸の塩辛、それに山葵青海苔と来たもんだ。何でも、能登の珍味だとかいうことである。これがどれも美味いのですよ。驚きました。ちょいと山葵青海苔があまりにも鮮やかな緑色過ぎるのが不思議な感じがしましたけれど、味は素晴らしい。どんな味を想像されますか。私は最初、どちらかというと塩っ気の強い味を想像したのだけれど、これが案に相違して、甘味が強いのであります。しかし、これが、何とも酒に合う。次は、蛸の塩辛ですよ。塩分控えめでね。烏賊好きの人はどうか知らないけれど、蛸の少しだけこりっとした感じが良いですな。そして、海胆鮑ですよ。独特の深みがあってね。また酒が進んでしまう。このつまみを順番にちょびっとずつつまんでいるうちに、気がつけば、上善如水は空いちまっていた。一人頭五合ずつですか。まあ、そのぐらいは呑んだでしょうな。考えてみれば、私は注がれてばかりだったからね、六合、あるいは、七合ぐらい呑んでしまったかもしれない。ああ、よくぞ二日酔いにならなかったものですな。酒が良かったのか、つまみがよかったのか、相手が良かったのか。孰れにしても、楽しくたっぷり呑んで、翌日も元気なんだから、言うことはない。
 上善如水は干したけれど、つまみ類は未だ冷蔵庫に入っております。ふふ、本日は、普段通りの澤乃井できゅきゅっといきますよ。

投稿者 nasuhiko : 16:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月16日

iconくらくらのふらふら


 大きな地震であった。畳の上でごろりと転た寝をしていたもので、一瞬、何が何だか判らなかった。何とはなしに頭がくらくらするような、つまり、眩暈がするような感じがして、目が覚めた訳だけれど、何分、寝惚けているもので、はっきりしない。棚がぎしぎしと悲鳴を上げて、部屋のあちこちで置き物がかたかた音を立てているのに気づくに及び、漸く、これは地震か、と気づいた私である。で、慌てて、表に駈け出して、安全な場所に避難する……というようなことは、できないものである。
 普段は世のあれこれにうじうじし、くさくさと気を滅入らせるような性格でありながら、何故か地震に関してびっくりはするけれども、あまり動ずることのない私である。ははあ、地震だね、などというように。まあ、これは一種の諦観から来るものなのか。孰れにしてもですよ、大きな地震が来たら、人間てえものは無力なものでしょうな。歩くどころか立つことも侭ならず、揺れが治まってくるのを待つしかないのではないか。お若い人で、身体能力が常軌を逸して優れた人なら、多少は事情は違うかもしれないけれど、たいていの人は、無力なものではないだろうかね。少なくとも、私はそうである。全くの無力である。普段から走ることなどできたものではないし、日によっては膝が痛かったり、腰が痛かったりして、すいすいと歩くことさら能わない訳である。そんなぽんこつに、地面がぐらんぐらんと揺れている際、一体、何が出来ようか。何も出来る筈などない。尤も、身体的に無力でも、頭や心で頑張ることはできる筈だ。本日も、地震だと理解してからは、火は使っていないな、とか、逃げるときには玄関よりは庭が良かろう、とか、財布はあそこ、懐中電灯はあそこ、などと、思い浮かべたりすることはできた。まあ、そう思うことが出来ても、揺れが治まる前に、この荒屋のことだから、ばたんきゅうと潰れてしまわないとも限らないけれどね。そうなってしまったら、考えなんぞ、何の役にも立ちませんな。諦めるしかない。こんな、ある意味でのんびりした気持ちでいるのも、私が十分に齢を重ねているからでしょう。地震にやられなくとも、私の余命など高が知れている。しかも、世の多くの人々の命に比ぶれば、我が命の価値なぞ、相当に軽いものである。これは卑下したり、いじけたりして申している訳ではありません。本当のことです。

 他の人たちはどうか知らんけれども、死に対する恐怖とか不安というものは、私には今はござんせん。この先、どうなろうとも、来るものは拒まず、死ぬるときは、それ、天寿を全うする日と思えますな。こんな風に思うようになったのは、やはり、家内を失ってからであります。自らをどうかしてしまおうなどということは微塵も思ったことはないけれど、未練はない、というか。変な物謂いになってしまいますな。いやいや、私は、これでも非常に日々前向きに生きているのであるけれどね。何だか、地面が揺れて、頭が揺れて、心も揺れているのか、普段から訳の判らない私の文章が、ますます縺れてこんぐらかって、ふらりふらふら、何処へ行く。辿り着くべきところが見当たらぬ有り様。ううむ。

投稿者 nasuhiko : 21:03 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月15日

icon空を見上げる


 八月の十五日になると、色々なことを思い出す。思い出させられるのが半分、思い出さずにはいられないのが半分。新聞を読んでも、テレビを眺めても、あれこれと触れられている。そういう報道を見て、日本の至る所で多くの人が様々な想いを巡らすことだろう。私のような年寄りは当然として、若い人たちだって、何かしら感じる筈である。感じてもらいたい。
 みんながみんなそう思うとは限らないかもしれないけれど、やはり、戦争というものはひたすら恐ろしく、ひたすら悲惨なものであり、決して繰り返してはいけないものなのである。このことを次の世代へ、次の次の世代へ、と伝えていかなければいけない。

 元来、私は記憶力が良い方ではない。しかも、年々、頭の中がこんがらがってしまうので、自分でももやもやするばかりで訳が判らないことがたくさんある。しかし、そんな私でも、しっかりと覚えているものがいくつかある。空から焼夷弾がずんずん降ってくる光景。そして、終戦後、米国軍人を初めて間近に見た時の恐怖。焼け野原を眼前にして、半ば呆然とし、半ば昂揚している自分。そんなことどもは、そりゃもう、忘れようがない。忘れようがないどころか、頭の中でどんどん増幅して、実際に見たときよりも強烈なものになってしまっているのではないか、とさえ思う。ああ、やっぱり、私の頭の中はごちゃごちゃの出鱈目なのかもしれない。何が本当のことなのか、よく判らなくなる。

 空を見上げますな。すると、青空が広がっている。この空を見上げている限りでは、ああ、今日は静かで平和な一日であるなあ、と思えるのである。しかしですよ、俄に雲がもくもくと押し寄せて、雷雨が始まることだってあるのである。事実、本日も三時頃だったか、そんな風でありました。随分激しい降りだった。それにしたって、雨なら多少の我慢をすれば済む。けれども、この長閑な青空に突如としてB29がたくさんたくさん姿を現わし、焼夷弾を雨霰と降らせたらどうしますか。どうにかしよう、どうにかしなければいけない、と思うけれど、結局、どたばたするばかりでどうにも出来ないのであります。そんなものなのである。もう戦争をしてはいけません。どんな理由があっても絶対にいけませんよ。

 夏の空 俄に曇り 降りに降る

投稿者 nasuhiko : 17:30 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月14日

iconイメージバトンなるもの

 「ゆきのブログ」さんからイメージバトンとういものを頂戴した。バトンというのは、リレーのあれですな。イメージという方はこの場合、何なのか、判然としない。兎にも角にも、バトンを渡されたら、のろまながらも私とて走ろうではないか、というか、メンバーの一員として頑張ろうではないか、という気になる。問題は、仕組みを理解していない、ということであります。仕組みを理解していないまま、闇雲に行動して、余所様に迷惑をおかけしまいか、ということが心配なのである。さらに問題なのは、私のこのブログを読んで頂いており、なおかつ、ブログを書かれている方に繋げなければならないということですよ。もし、私の理解があっているならば、そういうことである。ううむ。

「マイブーム〜いま自分の中で流行っていることは?」
 戴いたのは、こういう御質問である。じっくり考えてみると、あれですな、私てえ人間は実に飽きっぽいということがよく判ります。ピアノだの、落語だの、将棋だの、詩だの、韓国料理だの、ハバネロだの、デジタルの写真だの、と、あれこれと調子に乗って一頻り騒ぐのだけれど、暫くすると、まあ、何ですよ、一段落する、と言いますかね。尤も、すっかり忘れてしまうということでもなく、また思い出したように盛り上がったりすることもあるけれど、直に他のことに目が移る。いい歳をして落ち着きがないと情けなく思う反面、こんな雑な性格のままどうにか長い年月やってこられたものであるなあ、と自ら感心したりもする。馬鹿である。
 さて、ぼそぼそと愚痴を溢していても限りがないので、今、この瞬間に私の中で流行っていることというのを考えます。ううむ、難しいところだけれど、敢えて挙げるなら、ヒラリー・ハーン嬢ですかね。彼女がどのように天才なのかということは私の如き素人には判る筈もないけれど、兎にも角にも、聴いていて気持ちが良いのである。だんだんCDも揃ってきました。畳の上に寝転がって、遠めの扇風機の風を浴び、ヒラリーちゃんのCDを聴きながら昼寝するのが、今の一番の楽しみであります。尤も、これだって、いつ飽きちまうか、判りませんけれどね。

 さて、今度はバトンを渡すということを考えるのだけれど、私のブログをどなたが読んでいらっしゃるかは全く判らないのであります。もしかすると、読んで下さっているかもしれない、という幽かな期待を込めて、「甘くて苦いチョコレートな日々」のMalyrineさん、「ネコとハチミツ」のkeicoさん、如何でございましょう。仕組みも判らないまま、こんなことをお願いしていますけれど。お二方にどうやってお教えすれば良いのだろうか。他の方でも、バトンを受け取って引き継いで下さる方がいらっしゃいましたら、宜しくお願い致します。
 ああ、そうでした。題は「この夏、これはおいしかったなあ」というので如何でしょうか。ちなみに、私は、行者大蒜というのを冷や奴の上にのせたのをつまみながらやる澤乃井がこの夏の一番であります。ああ、よく考えたら、これこそが、今の私の中の流行だったのかもしれない。

 訳も判らずずるずる書いていたら、無駄に長くなってしまいました。

投稿者 nasuhiko : 21:54 | コメント (5) | トラックバック

誠に光栄至極にございます。若輩者ではございますが、
謹んでお受けいたします。
冷奴に行者大蒜を肴に美味しいお酒を召し上がっていただいて、
しばしお待ちを。

投稿者 Malyrine [TypeKey Profile Page] : 2005年08月15日 12:25

 判然としないまま、お願いしてしまいました。何卒、宜しくお願い致します。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月15日 17:36

今日も楽しく読ませていただきました!
ヒラリー・ハーン...
ぜひCDのところに飛ぶようにリンクをはってください!
まってます。

投稿者 yuki : 2005年08月16日 23:18

茄子彦さま

バトンを送っていただき、恐縮でございます。
今月は何かと忙しく、ろくにブログを更新する時間もないのですが、
せっかく茄子彦さまからのバトンなので、近々書こうと思っております。
もう少しお時間下さいませ。ではでは。

投稿者 keico : 2005年08月17日 21:05

 未だイメージ・バトンというのがどういうものなのか、よく判っておりません。それなのに、厚かましくお願い致しまして、恐縮千万。

 御多忙の由、御無理でない折に、宜しくお願い致します。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月18日 11:12

icon米を呑む


 ここのところずっと米を喰っていない。もともと、あまり米は炊かない私である。元来、痩せ形で、当然、食も決して太い方ではなかったけれど、近頃じゃ、それに拍車がかかっている。まあ、今更、成長する訳じゃなし、近所を一回りするぐらいが関の山で、運動らしい運動をする訳ではないのであるからして、そんなに栄養を摂取する必要などないしね。兎にも角にも、ご飯を炊くということは滅多にない。夏めいてきてからは、一度も炊いていませんな。遡って考えると、梅雨の頃にも炊いた記憶はない。最後に米を炊いたのはいつだったろうか。米炊き日記でも付けておけば、面白いかもしれない。今日は、二百二十五日振りにご飯を炊いた、なんぞとね。米が嫌いな訳ではないけれど、一人だとどうも炊く気がしないのは私ばかりではないと思うのだけれど、世間の一人暮らしのみなさんはどうしておられるのだろう。不思議である。私の場合は、白い米は食べていないけれど、透明な澤乃井という米を殆ど毎日摂取しておりますからね。存外、米の消費量としては少なくないのではないか、という気もする。また、こんな馬鹿なことを言っている。
 米を喰わずして何を食すのかというと、そりゃ、麺類か豆腐である。素麺や蕎麦の買い置きは欠かさない。蕎麦つゆだって、出来合いのものを常備している。尤も、気が向けば、蕎麦つゆを作るのですよ、私も。しかし、これがね、なかなか難しい。結構、美味いね、というものができることも偶にあるけれどね。上手くいったときでも、出来合いのものとおっつかっつというところ。到底、福寿庵には敵わない。先方は専門家だから当たり前のことだけれどね。
 蕎麦と素麺と豆腐、偶に饂飩、などという食生活で、よく飽きませんね、と言われることがあるけれど、あなた、そんなことを言ったら、私は澤乃井にはもっと飽きたことがないですよ。そして、今後も飽きそうにありません。日本のあちらこちらに酒造があり、いろいろなお酒があるのだから、中には澤乃井よりも旨いというものだって、ないとは限らないけれど、何というのか、長年の付き合いなもので、すっかり口に馴染んでいるから、結局、いつも澤乃井に帰ってきてしまう。そんなものですよ。

 夏の宵 米を呑み干すほどに酔い

投稿者 nasuhiko : 19:01 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月13日

icon白雨去り


 良いお湿りだというには、少々激しいものであった昨晩。どこすかと雷が鳴ったり、ね。この時期には、叩き付ける雷雨にさえ、一服の涼を感じられるものである。本日はどうかというと、晴天とは程遠いながら、何とも中途半端な空模様。暑さが緩いというだけでもありがたいと思うべきなのかもしれないけれど、雲のもわもわと同様にもわもわして気分も晴れない……と、こんなことを書いていたら、突然、昨夜にも負けぬような、猛烈な雷雨が始まった。ははあ、御天道様は、私の如き者の愚痴までお聞き及びでありましたか。御天道様の前では壁も障子も何の役にも立ちやしない、ということなのだろう。嗚呼、しかし、気持ちが良いですな。思い切り雨が降り、思い切り雷が鳴る。尤も、これが永遠に続くのでは困るのだけれど、どうせすぐに終わるだろうとわかっているから、こんな暢気なことを言っていられる。
 喜んでいるのは、私だけではない。草木も大きに喜んでいるようではありませんか。水に濡れ、正に瑞々しく輝く緑。近頃は、この緑色が地球というか、宇宙というかの、生命の象徴じゃないかいな、と思うことがある。宮脇先生の御本の影響だろうか。情けないことに未だ読み終わっていないのだけれど、素晴らしい本である。こんな枯れ枝じじいでさえ、心を打たれるのだから、感受性の豊かなお若い人々なら、感動も一入であるに違いなく、その感動を胸に、緑の森作りに励む人が増えると良いのだけれどね。NHKも深夜の再放送だなんて、けちけちしないで、夏休みの時期なんだから、お子さんでも見られるような昼間の時間帯に再放送すれば良いのである。何も野球ばかりが夏休みじゃあるまいに。

 白雨去り 瑞々しきは緑かな

投稿者 nasuhiko : 18:38 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月12日

iconハバネロ31:!!


 私てえものは何とも雑な人間である。いやはや、呆れるほどである。私が、日々ぼうっと暮らしている間に、大事件が発生していたのである。大事件といっても、殺人だとか、我侭で乱暴な解散だとか、そんなことではなく、大変お目出度い、喜ぶべき事件なのである。その大変喜ぶべきお目出度い大事件に今日まで気づけなかった私の頭も相当にお目出度いと言えましょう。情けないことである。
 セニョール・ハバネロが実をつけたのですよ。実をつけたのですぞ。緑色の、ちっこいピーマンみたような実が生っているのである。嗚呼、何という感動。到頭、ここまで漕ぎ着けましたか。漕ぎ着けましたかと言ったって、私はといえば、水を撒くぐらいしかしていないのですけれどね。
 それにしても、いつの間に実をつけたのだろう。先日までは、花が咲いても受粉させる作業をしなければ、花が散ってそれで終わりになってしまうのではなかろうか、と懸念していたほどであったのに、いつの間にか、実になっている。その実だって、二糎ほどもあろうかというものであるのであって、一晩にいきなりこんなに育つなんてことはありそうにないですからな。自分では丁寧に見ているつもりでいても、見逃していたんでしょうな。木を見て森を見ず、ではなく、その逆というか、木を見て実を見ず……てのは、如何にも語呂が悪いですな。そんなことはどうでも宜しい。
 ううむ、確かに、見えにくい。見えにくい、裏側の奥まったところに生っている。何だって、また、あんな見えにくいところから実が生るのだろう。不思議ですなあ。普通に考えたら、天辺の方から、つまり、陽当たりの良い方から実が生るというのが筋ではなかろうか、と思うのだけれどね。いや、どこから生ったって結構なんですけれどね。はは、実が生っているよ。
 ふふ。笑いが止まりません。一つなったってことは、そのうち、どんどんどんどん生り出すのかね。未だ白い花もたくさん咲いているのだから、そいつらが全部実になったら、豊作、豊作、大豊作ですよ。狸の皮算用だね。はは、馬鹿丸出し。それにしても、嬉しいねえ。
 早速、乾杯といきますか。奴に行者大蒜を載せて、澤乃井をきゅうっとね。目出度い酒は最高だね。ああ、でも、呑み過ぎないように注意しないと。私には、今晩も寅さんを見るという使命がありますからね。いやいや、今日みたいな目出度い日には呑み過ぎたってかまやしないか。はは、何だってかまやしない。目出度いんだからね。

投稿者 nasuhiko : 18:43 | コメント (2) | トラックバック

おめでとうございます!
とうとう実をつけたのですね。
たくさんの実がついて色づくのが待ち遠しいですね。

投稿者 yuki : 2005年08月13日 16:39

 ありがとうございます。
 実が生ったのです。実が生ったのであります。
 いやあ、感動しますなあ。嬉しいだろうとは思っていたけれど、その予想の何倍も嬉しい。
 ゆきさんのところのものは、もう色付かれた由。私のところも無事に成長して赤く輝いて欲しいものであります。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月13日 18:45

2005年08月11日

icon打ち水


 昨日今日と、比較的暑さがやんわりとしているものの、それでも、相当なものである。まあ、夏なんだから、暑いのは当たり前と言えば当たり前なのであって、暑くなかったら夏ではない。

 植物には水が必要だから、朝方、水遣りをしますな。そして、夕方にも水遣りをする。ハバネロを始めとした草木をいたわり育てるためには、これは大切な日課である。朝夕といっても、正確に何時と決まっている訳ではない。ざっと朝方、ざっと夕刻。大事なのは日中にやってはいけないということである。このことをどこで覚えたのか。マリがやっているのを見て学んだのか、商店街の花屋のおやじに教わったのか、それとも、テレビか何かで見たのだったか。兎にも角にも、夏の昼間に水遣りをすると根腐れを起こすというようなことらしいのである。少なくとも、私はそう思い込んでいるので、日が高い間は地面がどんなに乾いていようと、水は撒きません。しかし、ですな、テレビなんぞで、打ち水で涼を取り、云々などと言っているのを見たりすると、昔々のそのまた昔によく打ち水をさせられていたなあ、ということを思い出し、打ち水をした直後の、涼しい風が流れてくる様が脳裏に浮かび、ここは一番、思いきり庭に打ち水をしようかしら、と思ってしまう。けれども、打ち水はしない。何故ならば、それは根腐れということが起きるからかもしれないからである。そんなことになったら、大変だ。夏の陽射しと高温続きでどんどん元気になってきているセニョール・ハバネロの根が腐ったりしたら、それこそ一大事である。それで、打ち水を我慢する。ううむ。何だろう。理屈では納得している筈なのだが、どうも腑に落ちない。してはいけない、と思うと、ますますしたくなるのが人情てえものでね。ああ、打ち水がしたいなあ、とつくづく思う。このままじゃ、夢にまで出てきそうですなあ。まあ、夢に出てきたって構わないんだけれどね。

 打ち水の夢に出るかな 母の顔

投稿者 nasuhiko : 21:41 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月10日

icon男はつらいよ03


 昨晩は『男はつらいよ』の第二作がちゃんと放送されました。NHKてえところも、少しは気が利くようである。第二作の放送予定日に小泉の傲慢騒ぎで中止になってしまった。さて、では、全四十八作を見ようかという気になっている私は、第二作目を諦めて、第三作目を見なければならんのか、と気に病んでいたのだけれど、きちんと第二作が放送されました。はは、結構、結構。折角なら、順番通りに見たいもの。
 早い時間から呑むと、肝心の結末の辺りで、眠くなったり、酔っ払って訳が判らなくなってしまいかねないてんで、寅さんのある日は、放送が近づくまで呑み始めないことに決めました。そんなに酒を呑む時間を調整してまで、見たいのかね、と問われたならば、まあ、そんなこともないんだけどね、と答えるであろう。実際、まあ、そんなに熱心に執心している訳ではない。飽きっぽい私のことですから、最初のうちだけのことでありましょう。

 そう言えば、先日、占然菜なるものを知人から頂戴したのだけれど、これが恐ろしく美味いのである。何でも、行者大蒜というものを刻んで漬け込んだもののようなんだけれど、辛過ぎることもなく、くどくもなく、かといって、あっさりしすぎりということもなく、しっかり味はついている。そうだ。胡瓜があるから、もろきゅうみたようにしてつまみにする、と。そいでもって、澤乃井をきゅうっとやりながら、寅さんといきますか。ふふ。腰を据えて呑んで眺めるためには、今のうちにちゃちゃんと準備をしとかないといけませんな。

投稿者 nasuhiko : 21:39 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月09日

icon男はつらいよ02


 折角『男はつらいよ』のシリーズを全部見てやろうではないか、という気になっていたのに、昨日は、いきなり放送がなくなってしまった。小泉という手前勝手な人間が空騒ぎしているせいである。それに乗っかって、NHKが寅さんを中止して、政局だ何だのと騒いでおる。いやいや、政治を扱うなと言っているのではない。政というのは国の未来を決める大事なものですからね、大きに放送していただきたい。けれども、ですよ。普通の放送でさんざっぱらやっているのだから、わざわざ映画の時間を侵食しないでもいいではないか、と思うのである。総合テレビで心ゆくまでやればいいではないか、とね。
 それにしても、今回の話は訳が判らない。訳が判らないので、文句を言って良いのか、声援を送れば良いのか、という判断ができません。私に言えることは、説明が足りないから何が何だか判らんのである、ということだけであります。尤も、私のような老い先の短いじじいなんざどうでもいいのである。未来に生きる筈のお若い人たちはどう思っているのだろうか。政治家の多くは私と同年配の死に損ないのじじいどもである。そんな連中に、訳の判らん理屈で国を揺さぶられてかまわんのだろうか。みなさん、もう、政治というものには失望して無関心なのだろうかね。だから、投票率だって低くなるばかりなのではないか。
 テレビではあれこれと騒いでいるけれど、何となく、国民は蚊帳の外という気がしなくもありませんな。燥いでいるのは、政治家とマスコミばかりなり、と。
 ニュースを見ても、新聞を読んでも、結局、何故、解散して大騒ぎになっているのか、というのは判然としない。小泉という人が暴言を吐いて引っ込みがつかなくなって暴走しているだけのように見えますよ。寅さんだったら、何と言うのだろう。それを言っちゃあお終いよ、と言うだろうか。御天道様が見ているぜ、と言うだろうか。あるいは、この政のお祭り騒ぎを前にして、結構毛だらけ猫灰だらけ、と言うだろうか。しかし、あれですな、寅さんてえ人は、私のような熱心ではないファンでも即座に思い出せる名言をいくつも持っておりますなあ。妙なところで感心頻り。
 さてさて、今日は無事に放送されますかねえ。

投稿者 nasuhiko : 20:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月08日

icon怖い話


 夏と言えば怪談の類が定番である。何故、夏には怪談なのだろうか。判然としない。肝試しとか、そんなことと関係があるのかもしれないが、推測に過ぎない。そもそも、私は怖い話は好きではない。怪談に関して、あれこれと思いを巡らしたことはないので、よく判らないのが当たり前なのである。好き好んで、怖い話を見たり聞いたりしたがる人の気が知れませんな。怖い話は苦手だけれども、不思議な話というのは嫌いではない。不思議な話と怖い話の境目というのはすっきりと線が引けるものではないので、不思議な話だなあと興味深くテレビの番組を見ていたら、何だか最後はすっかり怖い話になってしまって、嫌な心持ちがすることがある。幽霊とかそういう話も不思議な話として聞くのは良いけれど、怖い話として聞くのはお断り申し上げる。何を言っているんだか、自分でも判らなくなってきた。一番不思議なのは、この、私の老い耄れた脳みそのもやもやしたところだということか。

 怖い話といえば、先日、良次郎君がやってきて、さんざっぱら蕎麦を喰いましたが、その食後の話。二人して、もう喰えない、腹がはち切れそうだ、とだらだらしながら、扇風機に当たっていた。すると「茄子彦さん、寝るときも扇風機はつけっぱなしですか」と問う。「夜寝るときはそんなことはないけれど、昼寝の時なんざ、つけたまま寝ちまうこともありますな」「そいつは危ない。気をお付けなさい。扇風機の風を間近で浴びたまま寝込むと、心臓がきゅうっと止まって逝っちゃうことがありますからね。ご注意なさった方が宜しい」などと言う。最初は、小噺か何かだと思って、どんな下げが来るんだろうと待っていたのだけれど、そうではなくて、これが、真実、真摯な忠告だったのであります。何とまあ、驚きました。扇風機で死んじまうなんてことがね。急性心不全とかそういう類かね。何だかよく判らないけれど、それから、扇風機をまともに浴びたままだと安心して昼寝もできなくなった。仕方がないので、近頃は、三十分程で自動的に消えるようにして寝ているけれど、この暑い最中に扇風機が止まれば、暑さで自ずと目が醒める。仕方がないので、また、三十分にして寝る。で、暑くて目が醒める。こんなことを繰り返しているから、昼寝をすると、ぐったりしますよ。

投稿者 nasuhiko : 20:04 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月07日

icon男はつらいよ


 ちょいと前から寅さんのシリーズを全作品放送するとNHKが騒いでいた。羽生先生の大事な試合の時には陸に宣伝もしないのに、こんなものは熱心に宣伝するのか、と呆れ果てている。だってそうでしょうよ。寅さんは映画館に行ったり、ビデオやDVDを買ったり借りたりすれば、誰だっていつだって観られるものなのである。それに対して、将棋の大事な試合はその日限りのもので、再放送なんぞもない。そして、次の日には結果を新聞で知らされてしまうのである。なぜ事前にもっともっと宣伝しないのか、実に解せない。NHKというところは、寅さん全作品だなんて、人気取りみたようなことばかりに熱心のようである。不祥事続きで世間から見放されているから、媚びるように人気取りをしたくなる気持ちも判らないではないけれど、羽生先生のタイトル戦を宣伝して放送する方が余程大事だということを肝に銘じてもらいたいものだ。寅さんに恨みがある訳じゃないし、テレビで何作かをぼんやり眺めた程度のもので熱心なファンとは程遠いけれど、嫌いじゃないのであるけれどね。苦言を呈させて頂く。然り乍ら、嫌いじゃないものでね、ついつい、観ましたよ、『男はつらいよ』をね。はは、結局、NHKの手口にまんまと嵌められているような気がしなくもないけれど、作品に罪はない。
 いやあ、それで、どうかというと、良いね。ああ、全く結構である。結構毛だらけ猫灰だらけって、早速、受け売りしたりして、私という人間は何と軽薄なのであろうか。いやあ、それにしても、ああいう気持ちの人は良いですな。東京と言っても、この、三多摩の手前辺りで育ったような、私のような中途半端な人間とは違って、あっちの人たちは本当に気持ちが良いね。落語の世界と繋がっているんだねえ。大きに楽しんだ。いやいや、期待していたのの何倍も何倍も楽しめました。こんなに楽しめるのは、こちらが歳を取って、心に余裕ができたからかねえ。よく判らない。今では、二作目からもずっと見続けようかな、という気になっております。全く以て暢気なじじいである。

投稿者 nasuhiko : 18:55 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月06日

icon青空を見上げる


 間の抜けた青空が広がり、じりじりと太陽が照らす。ちょいと表に出るだけで、くらくらするほどで、帽子を被らずにいるのは危ないかもしれない。世間では疾くに夏休みになっている筈だと思うのだけれど、あれですな、不思議と、子供たちが駆け回ったり、騒いだりしている声は聞こえてこない。如何に元気な小中学生と雖も、この厳しい暑さには太刀打ちできぬということか。まあ、あとは、あの、ボーッとという霧笛みたような音と共に発表される光化学注意報の所為もあるやもしれん。あんな音で脅かされたら、親御さんたちも子供たちを外に出す訳にはいくまい。そもそも近頃の子供たちてえものは、外遊びが好きじゃないのかもしれませんしね。一時期ほどは世間でもあれこれ言われていないけれど、ゲームなんぞの室内遊技ばかりに専心しているのかもしれない。

 本日は八月六日。空を見上げても爆撃機は飛んでこない。ただ青空が広がり、太陽が照りつけ、油蝉がじいじいじいじい五月蝿く鳴いているだけである。あの八月六日の空はどんな空だったのだろうか。そんなことを思いながら、漠然と青空を見上げていたら、涙が零れました。

 油照り 涙を汗に溶かしけり

投稿者 nasuhiko : 17:30 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月05日

icon更に不覚は続く


 連日連日不覚続きで、我ながら、つくづく情けない。歳は取りたくないですなあ、などという泣き言はみともないものだということは重々承知しているものの、それでも、ぽろりと、歳は取りたくないものですなあ、と零したくなる。尤も、私の頭がぼんやりしておっちょこちょいなのは、今に始まったことではなく、小さい頃から、不覚の連続。昨日も不覚、今日も不覚、そして、明日も恐らく不覚、といような具合なのである。はは、ここまでくると、いっそ気持ちが良い、などと、莫迦なことを言って開き直っている。
 朝の水遣りを終えて、一段落だてんで、ごろごろしながら、本を読んだり、テレビを眺めたり、要するにだらだらしていたのだけれど、新聞や本が部屋の隅に積み重なっているのが、急に気になり出して、そう言えば、暑くなってからは掃除をさぼってばかりであるなあ、と思い至る。思い至るけれど、こう暑くては何もする気がしない。そのまま、猶もしぶとくだらだらしていたのだけれど、気になり出したのが止まず、新聞だけでも片付けようと、ちょこちょこと始めたのである。そうしたらですよ、出てきました。宮脇先生の番組の教科書みたような本である。すっかり忘れていた本が出てきて、そりゃ良ござんした、というようなものだけれど、良くないのは、放送を見わすれてしまった、ということである。次の放送までにこの本を読んできちんと予習のようなことをして臨もうなどと、殊勝なことを思っていたけれど、やはり、私は愡け茄子なのであります。
 くよくよしながら、本を眺めていたら、未だ再放送がある、ということが判明した。しかしですよ、これが宜しくない。午前二時からの放送なのである。私なんざ、特別な用事など何一つないのであるから、深夜だってかまわぬだろうとは言えるのだけれど、起きてられやしない。深夜に尿意を催して目が醒めるなんてことはちょいちょいあるけれど、そう都合よく時間を選んで起きられる訳ではないし、そもそも、そんなときは寝惚けているだろうから、テレビを見たって話なんぞ判る筈がない。嗚呼、つまり、もう宮脇先生の番組を見る機会はない、ということになるのだろうか。無念である。ぐずぐず言っていてもしかたがないから、この本をちゃんと読んで、地球を助けられるように森林作りに励もうではないか、と誓う。どうせ口だけだとお思いの方も多かろうけれど。

投稿者 nasuhiko : 17:59 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月04日

icon朋来たる


 数日前、良次郎君からお中元が届いた。五色そばという奈良の蕎麦で、少々澄ましたような風の代物である。彼のことだから、美味い物をみつけてきてくれたのだろう、と思っていたのだけれど、ここのところ、酷い宿酔が続いていたもので、未だ食すには至っていなかった。今日辺り、やっつけますか、と思ってたところ、昼前に、御本人御来訪。
 腰を下ろした途端に「さて、喰いますか」と宣う。お中元を贈っておいて、届いた頃合いに現れて、さて、喰いますか、てんだから、気が利いている。憎めないねえ。こういうことは、やる人によっちゃあ、何だい、野郎は全くずうずうしいね、なんて、顰蹙を買うことだって少なくないだろうけれど、本日の場合、寧ろ、何だか楽しいような気さえしてくるから、不思議である。これもある種の人徳かしら。
 先ずは梅蕎麦というのを茹でてみる。これが良いのですよ。何というのか、品があるというのか、奥床しいというのか、喉の奥に仄かに香りが花開くような具合。これ見よがしに、さあさあ梅の香りだぞ、と、主張の激しいものとは異なり、飽くまでも、蕎麦が主役であって、梅は優雅な彩りを担当するというような風ですか。付いてきた蕎麦つゆも、甘過ぎず、宜しい。大師匠に頂いた醤油屋の蕎麦つゆと似ている。いいね、いいねえ、と言い交わしながら、すぐに平らげてしまったので、続いて、山芋蕎麦といきました。これはこれで、良いですなあ。こちらもくどくないね、というより、かなりあっさりしている。少々茹でが足りなかったね。固いや。まあ、しかし、これもこれで美味い。ふうむ、それにしても、奈良の蕎麦とは意外である。何となく、蕎麦というの、信州とかね、そんなところが思い浮ぶものだけれど、奈良とはね。しかも、美味いんだから、びっくりした。
 見た目以上に量が多くて、山芋蕎麦は食べ切れなかった。二人とも腹がくちくて、澤乃井を一口二口舐めるのが精一杯。そうだ。そう言えば、水の検査の件はどうだったのだろう。本当に蒲田の水は不味いのだろうか。尋ねたところ、そのまま忘れている、という。悪びれずにこう言うんだからとぼけた人だね、どうも。検査セットには賞味期限のようなものがあったような気がするけれど、どうだったかねえ。

 良次郎君は、食後程なく帰っていったけれど、相変わらず、忙しく飛び回っているようである。彼だとて、若い若いと言っても、そろそろ七十を超えたのではなかろうか。近頃のじじいは元気ですなあ。私も少し見習わなくてはいけませんな。いや、見習わなくてもいいかね。

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2005年08月03日

icon不覚続き


 何とも間抜けな話であるけれど、またしても、酷い宿酔で苦しんでおる次第。愚かである。熟、愚かなじじいであります。この世にだらだらと七十余年、酒を覚えて半世紀以上にもなるてえのに、まだ適量というものがわからないんだから、我ながら厭んなる。
 何か食べなければ直りが遅いとは判っているものの、食欲が全く湧かず、昼過ぎに、インスタントの味噌汁を飲んだだけで、既に夕刻。皆さんは飲まれたことがおありかどうか判らんけれど、このインスタントの味噌汁というのも馬鹿にはできませんぞ。なかなかのものである。これに、とろろ昆布を一抓み落としてみたりすると、一段と宜しい。私は普段はともかくも、二日酔いの朝には、この出来合いの味噌汁には随分世話になっております。蕎麦の乾麺同様、買い置きが欠かせない。
 二日酔いには味噌汁というのは、私にとっては定まり事みたようになっているし、同じように言う同輩も少なくない。少なくない、と断言するほど、たくさんの例を知っている訳ではないけれど、私の知人にはそのように思っている人間が多いように思える。しかし、考えてみると、お若い人はもしかしたら違うのやもしれませんな。そもそも、若い人はあまり味噌汁というものを飲まないのじゃないかね。考え過ぎだろうか。味噌汁とご飯とお新香というような食事をするのだろうかね、今時の若い人たちは。 しかし、顧みれば、我が家でもマリがいた頃には、バタ付き麺麭と珈琲の朝食というのが多かったのである。うん、そうだ。濃い珈琲てえものも宿酔の朝には悪くなかったような気がしてくるけれど、記憶があやふやである。私が苦しんでいると、マリが珈琲だけでも飲みなさい、と淹れてくれたようでもあり、味噌汁ですよ、と湯気の出たお椀を差し出してくれたようでもあり、嗚呼、何十年も連れ添った、大事な大事な家内との記憶もこんな風にもやもやしてしまうなんて、情けない。兎にも角にも、本日は、酒は控えようと思っておる次第。馬鹿につける薬というのはない、というのは本当ですなあ。

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2005年08月02日

icon師匠、炎夏にも御機嫌


 暑い。暑いですなあ。しかし、これが夏というものなのであるし、この暑さと陽射しが、セニョール・ハバネロをを始めとする植物のあれこれを大きに育ててくれるのである。そして、その植物のお蔭で昆虫や動物が潤う訳であるからして、考えようによっては大変大変有り難いものなのである。然り乍ら、人間てえものは自分勝手な生き物であるからして、感謝よりは不満が先に立つ。暑い。実に暑い。心頭滅却すれば火もまた涼し、なんて言った人がいましたね。誰の言葉だったろうか。坊さんか何かだったろうか。立派な立派な方の有り難い有り難い言葉なのだろうけれど、此方人等、只の偏屈じじいであり、七十余年生きておるけれども、心頭滅却など出来た例がない。従って、火もまた涼しなどという心境には金輪際至れぬ訳であり、従って、暑い、暑い、暑いと愚痴を溢し続けるのである。茄子彦よ、開き直りおったな、この戯け者めが。

 扇風機を浴びながら、畳の上でひたすらごろごろしている。端から見れば弛んでいるようにみえるのだろうなあ、と思う。そして、その通り、実際、弛んでいるのである。そんな風に、半日を呆けて過ごしていたところ、ぷらりと田村師匠がやってきた。「先日、お借りした『ザ・リアル・マッコイ』があまりに御機嫌なので、一杯やろうかと思いまして」と、ははあ、この人も大分砕けて参りましたなあ。結構、結構。お貸ししたことを忘れておったけれど、多分、ソルバイさんをお借りした時のことなのでしょうな。
 早速、澤乃井を傾けながら、マッコイ・タイナーに耳を傾ける。暫く振りに聴いてみると良いですなあ。しかも、日本酒に合うときたもんだ。意外である。杯を重ね、あれこれと、実のある話、実のない話を交わし、音楽と酒に酔い痴れる。嗚呼、余は満足じゃ、であります。

 友来たり 夏日の宴 真マッコイ

 我ながら、何ともでたらめな句である。けれども、何となく、良い響きではありませんか。全く暢気な酔っ払いだよ、私てえ人間は。はは。

投稿者 nasuhiko : 19:14 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月01日

icon缶入りの蚊遣り


 いやあ、暑いですなあ。蒸し蒸し蒸し、と、実に蒸す。いくら扇風機を浴びても埒が明かなくなってきた。夏バテの様相を呈している枯れ枝じじいであります。何をする気も起きないのだけれど、水遣りだけはさぼる訳には行かない。重い腰を上げて、撒きますともさ。大量に買っておいた蚊遣りも残りが僅かになってきた。しかし、あれですな。蚊取り線香というものも不思議な商品であります。私の場合、近所の安売り薬店で購入するのであるけれど、毎日毎日使うものだから、まとめ買いといきますな。ところが、ですよ、同じ三十本を買おうとすると、箱に入っているものよりも、缶に入っているもの、つまり、蚊取り線香を燃やす容れ物付きものの方が安いのである。理不尽な話である。納得がいかない。私は中身だけが必要なのだけれど、結局、毎回、でかいかんからに入ったものを買うことになる。そりゃ安い方を買いますよ。その結果、我が家には、蚊取り線香の大きな缶だらけなのである。ぱっと見回してみただけで、五つもある。大いなる資源の無駄である。それにしても、缶が五つということは蚊取り線香百五十本ということになる。そんなに蚊遣りを焚いたかと思うと恐ろしいですな。勿論、虫にだけ効果があって、人間様には影響がないように作っているのだろうけれど、虫が苦しむものが人間の躰には悪くないという法もないだろうから、少しは人体に悪影響を及ぼすのではなかろうか、と心配になりますな。まあ、今更、この老い耄れた躰に多少のけむをぶほぶほと振りかけたところで、大事件にはならないだろうけれどね。実際のところ、蚊に刺されるのと蚊遣りのけむに燻されるのだったら、どちらを取るか、と言われれば、そりゃ、蚊遣りの方を選びますとも。だったら、ぐずぐずお言いじゃないよ、男のくせに、と、お銀さんやお竜さんのような女親分ならお言いでしょうな。いや、実に仰る通り。

 蚊遣らんと 煙に巻かれて 愚痴零す

 随分と情けない句が飛び出しました。

投稿者 nasuhiko : 17:11 | コメント (0) | トラックバック