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2005年09月30日

icon美しい、美しい青空


 朝方、寝惚けながら、ぼんやりと水遣りをする。習慣的な動作なので、何がどうと考えることもなく、だらだらずるずるとした作業である。そういう心の籠らない態度で、草花や木、大地といった、自然の種々に相対するのは申し訳ないという気もするけれど、まあ、実際、寝惚けているのだから仕方がない。私の草臥れ脳みそがしゃきっとするまで待っていたら、朝の水遣りは昼飯時になってしまうであろう。それに、すっかり目が覚めたとしたところで、私の頭ときたら、いつでももわっと靄がかかっているからね。困ったもののような、お蔭で何とか日々を送れるという意味ではありがたいような。私にはもわもわしたぐらいのおつむが丁度宜しい。
 しかし、今朝は、美しい空のお蔭で、すーっと目が覚めた。水遣りをして、一息ついて、空を見上げた時、あの青さ、透き通っているようで深い青さというものは、素晴らしいですな。何と表現するのが適当なのだろう。美しさを言葉に置き換えるのは難しい。尤も、美しさに限らず、どんなものだって、ちゃんと言葉にするのは難しいのであります。そう考えると、小説家の人々なんざ凄いですな。あることないことでっち上げて、私なんざ、ついつい引き込まれて、感動してしまう。でも、よく考えると、あれは、嘘な訳ですからね。そう思うと、不思議な気がしますよ。そんなことを言い始めたら、限りがないけれどね。小説家というものを誉めているつもりなのに、悪口みたくなってきた。そういうつもりではないのだけれど。
 その美しさを何とかせんと、写真に撮って、マックに入れてみたけれど、私が見た青さとはちょいと違う気がする。それで、あれこれとまたフォトショップというもので格闘してみたけれど、何だか、どんどん現実から遠ざかるような気がしてね。難しいものですな。そもそも、私の目がどのぐらい忠実に現実を映しているのかというと、自信がない。白内障の手術をして以来、色々な物が大変鮮やかに見えるようになった気ではいるけれど、眼ん玉に映ったものを受け止める側の脳みそがぽんこつですからねえ。ああ、現実とは何なのか。

 秋空の 深く青きを 惚け見る

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2005年09月29日

icon忘れ物


 歳をとるとめっきり物忘れが激しくなるね、というような話題が偶に出ますな。誰を相手にしている時と決まっている訳ではない世間話の類だし、実際、其れ程、深刻な問題となっているのかと言えば、そうでもない。いや、本当は深刻なのかもしれないけれど、自分ではその深刻さに気づいていないだけなのかもしれない。まあ、自分が気づかないなら、それで結構ではないか。それに、振り返り見れば、私は、若い自分から随分ともの忘れてしていた口。どんなに控え目に言ったところで、決して記憶が良かったことなどなかった。小学生時分から、随分と親や先生には怒られたものだし、社会人になってからもあれこれと忘れ物で失敗を繰り返していたのである。それがより激しくなったというだけのことだから、あまり深刻に思わないのでしょうな。例えば、幼少の砌から天才と持て囃され、中学生時分には、既にして、大人顔負けの博覧強記を誇っていた良男くんのような人物が、記憶にがたが来たりすれば、それは大事件でありましょうとも。尤も、彼てえ人間は、逝っちまう直前の床の上でも、素晴らしい記憶力を披露しておりましたけれどね。天才はどんな時でも天才なのであるなあ、と思ったものである。あれも、もう十年以上も前になりますか。寂しいですなあ。そして、私のような、役立たずがのらくらと生き延びている。

 本日は、散歩の途中、近所の広場でみつけた、置き忘れられた野球のボールについて書こうと思っていたのだけれど、気がついてみると、筆の行方は思いも寄らないところに進んでおりました。

 草叢に忘れられたボール。ああ、夏休みが終わったんだなあ、と、散歩の途中では思ったけれど、よく考えれば、夏休みというものは、一と月近く前に終わっているのである。あの忘れ物は夏休みとは関係ないやね。
 思い返せば、遊び道具を何処かに置き忘れたまま家に帰ってきて叱られたことというのも数知れませんよ。遊び疲れているのに、暗い中、空地のあちらこちらを探し歩く破目になって。白いボールの写真を眺めながら、今、急にそんなことを思い出した。あの白いボールの持ち主も家で叱られたりしてやしないかね。まあ、そんなことも、半世紀も経てば懐かしい思い出になるだろうけれど。

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2005年09月28日

icon写真三昧


 例によって例の如く、ぽんこつじじいがカメラを片手に界隈を徘徊する。まあ、散歩なんですけどね。世間では、私のことを徘徊老人と解していたとしてもおかしくはない。
 デジタルカメラとマックという組み合わせは凄いものである。当初、師匠連中に勧められて使い始めた時には、白状すれば、何だか、面倒くさいし、画面を見ていると目がしょぼしょぼしてくるし、こんなことなら、お金がかかったり、日数がかかったりしても、普通の紙の写真の方が余程良いのに、と思っていたものである。紙の写真を畳の上に転がって眺める方がずっと良い、とね。しかし、それはやはり、喰わず嫌いの類とでも言うのか、慣れてしまった今となっては、最早、これ以外の方法は考えられない。そもそも、今の勢いで写真を撮りまくっていたら、紙の写真だったら、早々に破産してしまうに違いない。散歩に出れば、何十枚も撮ります。時には、百枚以上も撮る日だってあるのである。
 勿論、金銭だけの問題ではない。フォトショップというもので画面をあれこれと弄るのも楽しいしね。この電線さえ写っていなければどんなに良かったことか、と思ったら、マックの中で、そこだけ切ってしまえば良いのである。当初は、このあれこれと写真を弄るのにも大変大変大変苦労したものであるけれど、今では、寧ろ、楽しみ。快楽。御機嫌。私が購入したものはフォトショップの中でもエレメンツという下っ端というか、駆け出し向けのものだそうであるから、本物のフォトショップというものを購入したらどんなに凄いことができるのだろう、と何度か思ったけれど、出来ることが凄ければ値段も凄いてんでね。十万円だか何だかということだそうである。そりゃ、要りません。要らないことに決めました。

 散歩に疲れ 見上ぐれば 赤蜻蛉

 この写真だって、元々は蜻蛉はもう少し真ん中寄りに写っていたのであります。尤も、私があれこれ弄ったものが、元のものより増しになったかどうかとなると、それはどうだか判ったものではないけれど。

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2005年09月27日

iconハバネロ40


 田村師匠が本日も来訪下さった。今日は円嬢も御一緒である。何用かというと、円嬢が手作りのオリーブ・オイルを持ってきて下さったのである。実に有り難いことであります。
 どんな代物かというとですな、オリーブ・オイルの中に、細切りにしたハバネロと大蒜を放り込んだものだという。黄色っぽい油の中に、橙と緑のハバネロ、そして、白い大蒜。縁先で光に翳すと、これが、何とも美しい。早速、蓋を開けて匂いを嗅いでみるけれど、想像に反して、強烈な匂いはしない。それぞれに個性的な匂いの集まりの筈なんだけれどね。兎にも角にも、早速、戴きましょう、と申し上げると、昨日同様、未だ漬かってないから待ちなさい、と窘められる。ははは、七十を疾くに越したじじいが小娘に叱られておる。いや、小娘とは失言である。立派な御令嬢様を捉まへて、小娘だなんぞとは言語道断。失言、失言、撤回します。
 兎にも角にも、掌にぽたりと一滴落として舐めてみる。予想したほど辛くはないし、しかも、匂いも強くはない。これから漬かっていくうちに変わるのだろうけれどね。

 円嬢御持参の元ちとせというお嬢さんのCDを聴きながら、三人でのんびりと澤乃井を酌み交わし、ああ、何とも快適な午後ではないか。お二人は、小一時間ほどで帰られたけれど、私は、水色のCD赤いCDを取っ換え引っ換えしながら、猶も、杯を重ねる。

 新涼に 杯交わす 友在りて

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2005年09月26日

iconハバネロ39


 午後になって、田村師匠御来訪。昨日の収穫の成果をお届け戴いた次第。実に有り難いことであります。
 で、それがどんな代物かと申しますと、あれですな、要するに、ハバネロの醤油漬けなのであります。御説明戴いたところによると、ハバネロの実を二つに切って、種を取り除き、千切りみたようにして、醤油に放り込んだだけだということのようです。こう、何というか、難しい作業がないだけに、味がそれとなく想像できるような気がして、説明を聞いているだけで、唾が出てきたりしてね。中を覗いて、匂いを嗅ぐと、やはり、普通の唐辛子とは違う香りですね。尤も、私の使い古した鼻では精密に匂いを嗅ぎ分けるなんざ、無理な話ですから、何となく、そんな気がするだけかもしれない。いや、でも、今、嗅いでみても、やはり独特な香りがします。
 折角だから、ハバネロ醤油を舐めながら、澤乃井でも一杯やりましょうよ、と申し上げたのだけれど、未だ、十分に漬かっていないから、二、三日待ちましょう、とおっしゃられる。実が生ってから何日経っただろうか。兎にも角にも、既に、何日も何日も十二分に待っている訳であるから、更に数日追加したところでどうということはない。とは思うものの、目の前にあると、気になって仕方がない。取り敢えず、ということで、小匙に一杯だけ小皿に掬い出し、人差し指を浸して舐めてみました。思ったほど、辛くないですな。世界で一番辛い唐辛子だなんていうから、びくびくしながら舐めたもので、少々拍子抜け。ついでに、一切れ、橙色の実を食してみました。辛い。確かに、辛い。ひりひりする。けれども、それにしたって、眼ん球が飛び出るてえ程でもないですな。いや、でも、ああ、涙は出てきます。ええ、汗も出てきます。それに、段々、唇が痛くなってきたりもしました。あれこれ言っているけれど、とどのつまりは、普通のものよりはるかに辛いのですな。もう少し漬かっていくと、これがどのように変わっていくのだろう。楽しみである。それにしても、ハバネロ醤油を舐めながらやる澤乃井てえのが素晴らしい。大変結構な組み合わせ。病みつきになりそうであります。

 そうそう、師匠によると、種を取った時に爪の透き間に激烈な痛みを感じて、暫く取れなかったそうであります。矢張り、種が一番辛い、というのは本当なのでしょうな。みなさんもハバネロをどうにかする際には、御注意召されたい。尤も、そんなことする人は多くはいらっしゃらないだろうけれど。

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2005年09月25日

iconハバネロ38


 大師匠は大変御多忙のようであり、未だにハバネロを使ったカレーの会は催されない。目の前にあるのに、ただ水遣りをして、眺めているだけというのは、少々物足りないような気がしてくる。そんな、少々不遜かもしらん思いを抱いております。ぽんこつのくせに生意気千万。全く以てその通り。お若い人が忙しいのは当然であるし、若い方々が忙しいというのは、御本人達にとってばかりでなく日本の為に、否さ、世界の為にだって結構なことなのであるからして、喜んで待つという態度でおるべきなのである。尤も、大師匠てえ人はそうそうお若くもないですけれどね。大分、頭が白くなられていらっしゃる。それでも、私なんぞに比べたら、大変大変お若いことに間違いはない。
 あれこれ書いているけれど、結局のところ、私は自力では、セニョ殿をどうすることもできませんしね。大人しく待つに限るのです。

 午後になって、田村師匠と円嬢が御来訪。待ち切れない思いでいるのは、どうも私だけではなかったようである。お二人も一日三秋の御心持ちでいらっしゃったようである。それで、大師匠に連絡して、初めての収穫を行うことにしたそうなのであります。
 十七号の雨風が去り、雲が切れて、青空が覗いてきて、気持ち良い秋の午後、愈々、セニョール・ハバネロの収穫が始まりました。準備宜しく、二人ともビニールの手袋をしている。そして、もぎ取ったものはスーパーでくれるビニール袋に収めていく。あれ程、じりじりとした気持ちで待っていたものなのに、ほんの一時のことでしたよ。橙のものを七つ、緑のやつを五つ。
 収穫祭とでも申しますか。先ずは、乾杯。空の色も柔らかで、実に気持ちの良い夕刻、元々美味い澤乃井だけれど、こんな日には益々美味い。「それで、その実をどうなさいますか」と尋ねるも、二人とも教えてくれない。「明日にでも、また伺いますから、その時にね」などと言って、にやにやしておる。仕上げを御覧じろ、といったところなのでしょう。さてさて、どんなことになるのだろう。年甲斐もなくわくわくしますよ。

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2005年09月24日

icon再会・再感動・再涙


 以前に書いたように思うけれど、『母のいない大家族』という番組があります。番組と言っても、ドラマとかそんなものではなく、所謂、ドキュメンタリーというもの。お母さんが家出して、離婚してしまった、御家族のあれこれを伝えるものである。私の、こんな省略した説明では何も伝えられる訳ではないのだけれど、かといって、記憶にあらん限りのものをここに記したとしても、私の力量では伝えられるものに限りがあることは歴然。字数を費やし、うねうねした酷い文章で読む人に苦渋を強いるだけで、何の利もないということになりかねない。この御家庭のあれこれに関しては、みなさんでお調べ戴きたい。何とも無責任なことで申し訳ありません

 その御家族が、昨日、テレビに出演しておられたのであります。そして、今までの放送の断片を流したりして。そして、あれこれとインタビューしたりして。チャンネルをがしゃがしゃやっているうちに、その番組に出会したのだけれど、此の度も感動が胸の奥からずうんと盛り上がってきて、恥ずかしながら、涙が零れました。いやいや、誰に見られている訳でもないのだから、涙が零れたって恥ずかしくないのだけれど、どうしても、ただ、すっと、涙が零れた、とは書けないじじいであります。これは、私だけではないと思いますけれどね。私と同年配、あるいは、年上の男子たるもの、皆、そうなのではないかと思う。勿論、これは、私が思い込んでいるだけのことであって、実際には世間一般には通じないことかもしれないけれど。

 あざみちゃんを始め、あの御子たちを眺めていると、人間というものは、時間とともに自ずと成長していくものなのではない、と思い知らされます。そんなことは、当たり前のことでね、じいさんよ、今更何を言っておるのかね、と思われる方も少なくないでしょう。けれども、そういう当たり前のことをついつい忘れがちなのであります、私という人間は。あざみちゃんの目がくるくるっと動く。その一瞬一瞬に、瞳の奥では、脳みそがぐるんぐるん、ぐるりんぐるりん、と大回転しているのだろうなあ、と。そうして、私が漫然と生きてきた七十余年以上に匹敵する、いや、それ以上のものを、学び、想像し、生きているのだろうなあ、と。何だか判らないけれど、また涙が零れてきましたよ。

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2005年09月23日

icon王位防衛


 朝刊を読んでいたら、羽生先生が王位防衛されたと書かれていた。大変結構なことでありますな。しかしながら、私は見逃したのであります。つまり、羽生扇子で神風を起こすという楽しみを奪われた恰好。これというのも、NHKや将棋連盟がきちんきちんと大事な王位戦があるということを喧伝しないからである。毎度のことながら、嘆かわしい。こんなことでは、将棋がどんどん衰退してしまうのではないかと懸念されますな。尤も、私のようなぽんこつに心配されずとも、連盟ともあろうもの、あれこれと考えてはおるのだろうけれど、事実として、私は放送を見逃したのであり、このことに嫌気が差して、ああ、止めた、止めた、将棋ファンなんざ止めてやる、金輪際将棋なんぞ見やしねえぞ、と、なったりすることだってない訳ではない。まあ、実際のところ、放送を見逃したことで其れ程立腹するぐらいの熱狂的ファンであれば、将棋を見限ることなどできないでしょうけれどね。
 しかし、あれですな、今、不図、疑問が湧いたのだけれど、本当に放送はあったのだろうか。もしかして、そもそも放送などされていなかった、などということはないだろうか。まさか、ねえ、日本の誇る伝統文化であるところの将棋の大きなタイトル戦だというのに放送がないなんてことはないだろうね。民放みたいに人気取りする必要はなく、高い受信料をふんだくって、その上、汚職などもしている訳だから、視聴率云々などということは気にせず、我が国の文化を守るという意味でも、放送しているに違いない。ううむ。そうは思うものの、心配である。NHKに電話して、昨日の王位戦の放送はなかなか良かったですな、などと、素知らぬ顔で鎌をかけてみようか、などと思う。変ですか。変ですね。止めておこう。ああ、だが、しかし……。

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2005年09月22日

icon失礼ですが、どちらへ? 2


 昨日の続きですから、昨日の分を読んでいない方は、昨日の分を先に読まれるが宜しかろうと思います。

 若いお巡りさんが、私のメモ書きを毟り取るようにして、走り去って、その場には、私と年輩のお巡りさんが残された形。「悪く思わないで下さい。まだ若いもので、一所懸命なんですよ」などと仰る。つまり、先の若い人の振る舞いは、同業者の目から見ても、些か無礼だということなのだろう。「私らも仕事ですからね。御協力下さい」とね。漸く、一息ついて、こちらも、はあ、だの、そうですか、などと相槌を打つぐらいのことはできるようになった。「何事ですか」と尋ねると、「いや、何、通常の警備なんですけれどね」とお茶を濁すような口振り。そうこうするうちに、若造くんが駆け戻り、「確認取れましたーっ」と怒鳴る。こんな近いところで、そんな大声を出さんでも良かろうに、と思うほどの声であった。先程のメモを返してくれるのは良いけれど、無言でね。しかも、握り締めて走ったからか、よれよれになっている。此方も、少し落ち着いてきたから、これ見よがしに、よれよれのメモを丁寧に伸ばしたりして見せたが、意に介する風ではない。「御協力ありがとうございました」と年輩の方が、形ばかりの、いやに気の抜けた敬礼をしてみせた。少なからず、気分を害しているもので、「もう行っても宜しいのですな」と嫌みったらしく確認すると、年輩殿は首肯くも、若造くんがいけない。「こういうところに下駄履きなんかで来るから、お互いに手間くっちまうんだよ」というようなことを聞こえよがしに呟きおった。かーっと、頭に血が上ったけれど、何しろ、内心では、ぼーっとしていたせいで下駄履きのまま電車に乗ってしまった、という思いがあるもので、何も言葉が出てこない。ぶつけようのない憤りを胸に、エレベーターに向かう以外に、私に何ができただろうか。

 辿り着いた知人宅で入り口での出来事を話すと、先方、「何が疑われたのかねえ」と大笑い。私の顔を見て「悪人面でもないのにね」と重ねて大笑い。大笑が一段落したところで、説明してくれたところによると、何でも、このマンションの中には後藤田官房長官の事務所だか何だかがあるとかで、年中、厳しい警護が敷かれている、とのこと。「しかし、うちに来る人間で警備のお巡りさんに疑われたのは、君が初めてだよ」と猶も大笑い。私はただただ憮然とするばかり。

 後藤田正晴さんと私との、縁とも言えぬ縁というのはこんな次第であります。結局、私は後藤田さんにお会いしたことどころか、間近く見たこともない訳で、先方にとっては、私なんぞ存在しないも同じですな。兎にも角にも、御冥福をお祈り申し上げる。それにしても、あの若造お巡りさんは、今はどうしているのかねえ。

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2005年09月21日

icon失礼ですが、どちらへ?


 後藤田正晴さんが亡くなられたそうである。私よりも、大分、御年配であるから、ここはやはり天寿を全うされた、と表現するのが適切であろう。兎にも角にも、御冥福を祈る。知人である訳ではないし、ここであれこれ語るほどの何かを知っている訳ではないけれど、ふと昔々のちょっとした出来事を思い出したので、書いておこうと思う。全く縁がなかった、ということでもないのですな。尤も、縁があった、ということではないけれど。

 かれこれ二十年以上も前のことだと思うけれど、とある友人宅を訪ねようと、飯田橋にあるマンションに出向いた時のことである。盛夏という程ではなかったけれど、未だ未だ秋の気配は見えてこないというような時節であったと思う。休日のこととて、開襟シャツ一枚。勤め人時代のことだから、地味な濃いグレーのズボンか何かだったであろう。まあ、珍しい服装ではない。しかし、暑さでぼうっとしていたせいか、あるいは、日頃からぼうっとしている頭のせいか、その日は、下駄履きの侭のこのこと遠路をやって来てしまったのである。下駄履きの人なんざざらにいた時代の名残り……というぐらいの時代のことであるから、まあ、下駄履きはそうそう珍しくはなかった、と思う。けれども、以前にも書いたかもしれないけれど、私としては、電車で出掛けるような折には、しかも、それが洋装の折には、靴を着用するように心掛けていたのだから、何故、その日に限って、下駄履きのまま電車に乗り込んでしまったのか、不明である。やはり、ぼうっとしていたのでありましょう。
 それで、地図を片手に、神楽坂からちょいと折れて、目的の大きなマンションの入り口附近に辿り着いて、やれやれ、と一息ついたところ、左右から、警察官がすーっと寄ってきたのである。そして、私の両脇に立ち、年輩の方のお巡りさんが「失礼ですが、どちらへおいでですか」と問い掛ける。悪いことをしている訳ではないし、疚しいことなどなかったのだけれど、如何んせん、警察というものに縁がなかったところの突然の出来事、あわあわあわあわしてしまってですな、あの、だの、その、だの、ともぐもぐ口籠るばかり。すると、その姿を見た未だ二十代ではないかと思われるような若い方のお巡りさんが「身分を証明できるものを持ってないの」と、居丈高に問い質す口振り。私はますます狼狽して、あたふたするばかりで声が出ない。そこで、手に持っていた地図と知人の住所電話をメモした紙を見せたのであります。すると、若いお巡りさんはメモを毟り取るようにして、小走りにその場を離れたのである。

 ちょいと、長くなったので、続きは明日にでも書くことにします。

投稿者 nasuhiko : 18:36 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月20日

icon厚顔野郎


 自分で自分のことを、無駄だ、無駄だ、無駄、無駄、無駄だよ、なんぞと言いながらも、猶もこうして、この、電気消費日記を書いている老耄を、厚顔野郎と呼ばずして何と呼ぶ。何というのか、狡いことを思いつくもので、人間というのは、斯様に矛盾を抱いたまま生きる存在なのである、などという、利いた風な言い訳を申し立てる。いけずうずうしい老い耄れだ。しかしながら、こんなことを書きながらも、段々と鬱々として参りますな。人の生命とは何なのか、人の価値とは何なのか、などなどと、ぼんやりと思いを巡らす。けれども、ちゃんとした結論にはちっとも辿り着けないのである。考えてみれば、有名な哲学者なんぞが、二千数百年も前からあれこれ案じてきたのに、未だに確固たる答えが出ていないような問いなのであるからして、私のように、漠然と齢を重ねてきただけのとんちんかんには、何も判る筈などないのである。こんなときに、信仰の厚い人であれば、神や仏にお縋りし、助けてもらえるのだろうけれど、生憎、私は無宗教者ですからね。縋り付くべき相手がいない。マリが側にいてくれれば、こんな気分も和らいだ筈だけれど、と思うけれど、それは無い物強請りですからね。栓無きこと。いっそ、厚顔野郎として、他人様に嫌われるほどの厚顔野郎として、図々しく生きてやるわい、となれば、それはそれで味だろうけれど、何を隠そう、私、小心者であるからして、こんなところでは、あれこれ述べ立てることは出来ても、日々の生活の中では何も出来ず、何も言えず、ああ、うじうじいじいじしているのであります。

 灯籠の窓から光り覗き見て

 現在の心境というのは、こんなところであります。世間の光が随分と遠く感じられます。

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2005年09月19日

icon無駄というもの


 昨日は、こんな文で締め括りましたよ。

これからは、私は自然派として生き、マックなんぞも捨ててしまい、カメラなんぞも投げ出して……。

こんなことを書いた私であるけれど、結局、また、本日も、こうして、貴重な電気を消費している。私のこんな落書きみたようなものなんざ、余の役になど立つ筈もなく、資源の無駄遣い以外の何ものでもない。昨日は、真剣にそう思っていたのだし、今だって、そう思っている。昨晩、占然菜をつまみに澤乃井をちまちまと舐めながら、あれこれと考えた。ぽんこつの故障気味の頭を捻って考えて、多少なりとも思うところがありました。
 何が無駄か、と考えると、そうですな、つまみを喰うなんざ無駄である。つまみがなくたって、澤乃井てえものは大変美味しいのですからね。しかし、もう一歩進んで考えると、そもそも酒を呑んでいるということ自体が無駄である。呑まなくたって、何も困る訳ではない。そうやって考えると、あれですな、酒に限らず、食事だって全部無駄ではないか、とね。だって、そうでしょう。私なんざ、もう殆ど用済みの人間でしてね。社会のお役には立っておりませんよ。これは卑下して言っている訳ではなく、本当のことであります。確かに、全くの零だとは申し上げないけれど、限りなく、貢献度は無に近い。そう考えると、物を食べるのも、水を飲むのも無駄だということになる。つまり、生きていること自体が無駄だということになる。じゃあ、とっとと死にやがれ、ということになるのだけれど、そうするとそうしたで、後の始末に手間がかかる訳だし、きっと税金なども使って頂く仕儀にもなりそうであるし、あれこれと余所様のお手を煩わすことにもなるだろう。するってえと、死なない程度に細々と辛うじて生きている、というのが、一番世の為になるのかもしれない、などと思う。ううむ。なかなか難しい結論になりました。まあ、そんな結論になったと言いながら、先ずは貴重な紙資源と植物性のインクを無駄に消費して帳面に日記を書き、続いて電気を無駄に消費しながらマックを使ってここのブログに清書しておる訳である。私、自己矛盾を抱えつつ綴る老耄であります。ああ。

投稿者 nasuhiko : 19:06 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月18日

icon宙を支配するもの


 本日は、また、いやに暑いですな。家の中にいるとそうでもないけれど、とぼとぼうろうろと散歩をしてきたら、暑いの暑くないの。いやあ、参りました。しかし、町の景色というのは変わるものである。生まれた時から、この界隈に住んでおります。疎開した時期は除くとしても、七十年程も住まっておる訳であるからして、変わるのは当たり前である。何も変わらなかったら、この七十年間、人はそこで何をしていたのだろう、ということになる。変わるということは、人というものがそこにいる限り、避けられぬものでありましょう。しかし、こう、あれこれと思い浮かべてみると、変わらない方が良かったのに、と思うことも多々ある。というより、多くの場合、変わらない方が良かったのではないか、と思える。勿論、これには、じじいの懐古趣味的な心情も少なからず働いているだろうけれど、そればかりとも言えない。
 私は、デジタルカメラというものを手に入れて以来、矢鱈に写真を撮っている。撮りまくっている。町を歩いていて、木を見上げるような写真を撮ろうという時、また、青空に浮かぶ雲を撮ろうという時、そんな時に、ああ、残念、と思わざるを得ない瞬間がある。というのも、あれですな、電線の類。電気だか電話だか、あるいは、テレビだとか何だとか、色々な線が空中を支配している。この一本の木を撮ろうとしても、どうしても、電線が割り込んでくる。低くを飛んでいるばたばたいう軽飛行機を撮影しようとしても、ああ、やはり、電線が割り込んでくる。そんなことで、歯痒い思いをすることも屡々。
 しかし、その一方で、ああいうものがなければ、電話も出来ないし、電灯もつかない。名人戦だって見ることが出来ないし、そもそも、この日記だって書けない訳ですよ、電気とか電線とかそういうものがなかったならば。そう思うと、心中、多少なりとも複雑というところ。しかし、冷静に考えれば、景観ばかりでなく、地球上の様々なところで様々に、人間てえものは、自分たちの利便を図るが為に、自然をぶち壊しているのですよ。その象徴が、あの電線群なのではないか、と。そうだ。これからは、私は自然派として生き、マックなんぞも捨ててしまい、カメラなんぞも投げ出して……。

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2005年09月17日

iconウィンナー珈琲を自作


 昼過ぎに大師匠御来訪。忙しくて忙しくて忙しくて、カレーを作る時間が取れず申し訳ない、というようなことを、例によって、宇宙人ならどうだとかいう妙ちきりんな喩えを織り交ぜながら、玄関先で一騒ぎ。まあ、話は散乱しながらも、要するに、もう少し待ってくれ、とのことでありました。勿論、お待ち致しますよ。というより、それしか法はないのであります。何しろ、私には、あのような本格的なカレーなど作れる筈もなく、また、ハバネロを自力で何とかしてみようなどという勇気もアイディアもないのである。珈琲でも飲みながら、のんびりお待ち下さい、と豆を頂戴した。ラベルを見ると、大師匠のオリジナル・ブレンドとなっている。一体、あの人てえ者は、本当は何をしている人なのでしょうな。もしかして、珈琲豆屋さんもやっていらっしゃるのだろうか。
 折角だから、と近所のスーパーまで買い物に出て、店員のお嬢さんに教えて戴き、フレッシュクリームというものを仕入れてきました。そして、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる掻き混ぜて、生クリームみたようなものを拵えた。どうだね。なかなか、私てえ人間も根気がある。捨てたものでもないね。そして、珈琲を淹れて、砂糖を三杯も溶かし、その上に、先程のクリーム状のものをぼわんと載せる。はは、大したもんだ。自家製ウィンナー珈琲ですよ。ふふふ。あの喫茶店を思い出しますなあ。散歩の途中で、マリと一緒に一休み。ウィンナー珈琲や本日のストレートというものを飲んだものです。小腹が減っている時なんぞには、フレンチ・トーストを頼んだりしてね。大抵は柔らかいジャズがかかっていましたよ。そうそう、髭のマスターに、今かかっているのは何ですか、などと質問して、レコードの名前を教えてもらったりしてね。其の侭、帰り道にレコード屋さんによって購入し、家に帰って、二人して聴いてみるということも幾度かありました。探してみたら、いくつもそんなアルバムが見つかったけれど、今日はアントニオ・カルロス・ジョビンの『』を聴いております。これはジャズとは言わないのだろうけれどね。懐かしいですな。音楽が懐かしいというより、この音楽とウィンナー珈琲から喚起される様々な思い出がね。何とも、ね。

投稿者 nasuhiko : 18:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月16日

icon長生きできませんよ。


 夢の中に若先生が出てきた。若先生と言っても、いつもお世話になっている若先生ではなく、髭の若先生である。幸い、ここ五年程お世話になる機会がなく、それ故、お会いしていない。
 夢の中では、対座して酒を酌み交わしている。「どうですか。呑み過ぎには注意しないとね」などとおっしゃる合間に、ぐびぐび呑まれる。こちらも負けじとぐびぐび呑み、「先生ももうお若くもないのだから、呑み過ぎには注意が必要ですぞ」というようなことをぶつけると、「医者の不養生って言葉あるぐらいで、医者というのは不養生でいいんですよ」と豪快にお笑いになる。何度かお見掛けした看護婦さんが出てきて、「お二人とも、いい加減になさいまし」なぞと叱られたりしてね。そんな馬鹿な夢を見た。
 目覚めて、ぼんやりした頭で、何故、あんな夢を見たんだろう、と考える。夢に意味があるかないか、ということは、私のような盆暗には判る由もないけれど、印象的な夢を見ると、何となく、何故、こんな夢を見たんだろう、などと思うのであります。髭の若先生が登場したということは、怪我か何かに注意しろ、というお告げかね、などと。ふと、カレンダーに目をやると、十六日に丸が付いている。ああ、そう言えば、今日は、四週間振りに若先生……こちらは、いつもの内科の若先生であります……のところへ出向く日ではないか。しかも、年に一度の健康診断を受ける日である、と思い出す。夢はこのことを教えてくれようとしたのだろうか。
 兎にも角にも、ざざざっと身支度をして、行って参りました。心電図だとかレントゲンだとか、あれこれをこなす。若先生のお見立てでは、今日の時点で判る範囲では問題はないそうな。去年と同じぐらいだそうである。後は、来週、検便と血液検査の結果が揃ってから、検討しましょう、と。そして、例によって、呉々も呑み過ぎないように、と釘を刺される。惚山さんは無茶のみするみたいだからなあ。そんなことでは、長生きできませんよ、と仰る。はあはあ、承知致しました。少々控えめにやることにしますよ、とお答え申し上げたけれど、内心では、私なんざもう十二分に長生きしていますからね、いくら呑んだってかまやしませんよ、などと思っている。嫌な患者だね。然り乍らも、少しだけ反省して、本日ばかりは、澤乃井は控えめにいきますか。

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2005年09月15日

icon


 連想ゲーム。そんな番組が昔ありましたな。
 柿という言葉から、何を連想するかというと、まあ、勿論、第一に、熟した朱色の柿の実であります。あとは、干し柿てえものもありますな。そうそう、柿茶というものが躰に良いてんで、どなたかに勧められたこともあったね。あの、味気ないやつ。あとは、何だろう。ああ、いつぞやは、日比野くんに柿のゼリーみたようなものを頂戴した。銀座のあけぼののだったかね。上品で抑制の効いた結構なお味でしたよ。籠も渋い色合いでね。何というか、柿色の年季が入って枯れたような、きれいな色だね。あの籠は何かに使いたい。そうは言っても、その侭、埃を被って何年も放ったらかしになる、と。
 そうだ。未だありますよ。柿の葉寿司てえものがある。あれも美味いですなあ。隣の駅の地下で売っている。散歩が行き過ぎて、帰りは電車で帰ろうてんで、乗ったりすると遭遇する。すると、ついつい買ってしまいます。柿の葉で包むなんざ気が利いているね。ああいう、押し寿司の類は、何だか独特の雰囲気がありますな。未だに、京都の商店街の中の寿司屋で喰ったのを思い出しますよ。下駄みたいな板の上に乗っかって出てきてね。あれが、お店で食べた押し寿司の最初で最後。東京にもああいうお店はあるのですかね。よく判らない。
 押し寿司もうまいけれど、江戸前の寿司てえものは、これは、もう美味い。ちっちゃい頃から慣れ親しんでおるし、小食ですから、ちょいとつまみながら呑みたいてえ口の私には最適である。もっとも、店によって随分と差があるけれどね。幸い、南にずるずると下った、そう遠くはないところに、大変素晴らしい店がある。あすこは実に美味いね。ああ、最近食べてませんなあ。尤も、もう少し涼しくなってからの方が良いですな。今日辺り、大分涼しくなったけれど、どうだい、鮨でもつまみに行くかい、ってなほどではない。暑いときには寿司というのは変な気がするけれど、考えてみれば、お寿司屋さんは夏でも営業している訳であるからして、暑いからといって遠慮するのは私だけなのだろうか。
 ああ、話が逸れました。柿の話だったんだけれどね。まあ、何を書いたって良いんだけれど、自分でこうと思って書き始めても、どんどんどこどこ脇へ行っちまうっていうのは、あれですか、矢張り、私という人間が行き当たりばったりの、その場その場をうろうろするばかりの、しだらのない者だからだろうかねえ。

 青柿の落ちて潰れて鳥のもの

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2005年09月14日

icon何故だ


 朝起きると、先ずは、外を眺めますな。天気の具合を見る。次に、大抵の場合、水遣りですよ。それから、うちに入って、新聞を読んだりね、テレビを眺めたりする。気分次第では、カメラ片手に散歩に出る、と。昼が近づくと、さて、何にしようか、と思うものの、どうせ、麺類か奴か何かだから、悩むほどのことはない。稀には、外で食べたりすることもあるけれど、そんな場合も、殆どの場合、福寿庵ですからね。
 食事が済んで、昼寝をしますかね。しない日もあるけれど、大抵は、昼寝をする。本当には眠らなくても、ごろごろする。こんな日常ですか。全く、書いていて厭になりますな、あまりに何もない。まあ、何もないということが、万般、恙無く進んでおる、ということだと思えば、それはそれで結構なことですか。
 合間合間に、本を読んだり、帳面に落書きしたり、マックを弄ったりする訳である。本日も、マックをつけてみて、この、自分のところの日記を見て驚いた。昨日の分がないではないか。何たることだ。一体、どこへ行ってしまったのだろう、と頭を捻る。何故だ。何故なんだ。こいつは、近頃頻々としてやってくるスパムという攻撃の為せる業か、と、びくびくしたり。そして、紙の日記帳を眺めてみて、はっとしたのである。はっとしたのですよ。そこには、昨日、私が書きつけた文章が載っている。けれども、思い返せば、私はそれをマックの中に書き写した覚えがない。何ということか。そして、マックの中に書いていないのだから、昨日の分のブログなど、端からなかったのでありますよ。その時の私の絶望的な心持ちは、どなたにも判らんでしょうなあ。いやあ、底なし沼の汚泥に埋まってしまいたい気持ちとでも申しましょうか。ううむ、つくづく、この、自分の老化した脳みそてえものが嫌になりました。昨日なんざ、少しも忙しくない、どうってことのない一日だったのに、どういう訳だか、ブログを書くのを忘れてしまった。まあ、それはそれで良しとしましょう。けれども、本日になって、「書くのを忘れてしまった」ということすら、忘れてしまっている、という、この、何ですか……ああ、何というのか……兎にも角にも、その愚に、呆然としましたよ。忘れたことを忘れてりゃ世話ない。ああ、どうしよう。明日になって、今度は書いたことを忘れてしまって、何だい、あたしはそんなことを書いた覚えはないよ、なんて、ことになったら。何が何だか判らなくなってきた。私は誰、ここは何処、あなたは誰、お父上、只今帰りました、などなどなどと、脈略のない思考が渦巻く人間になる日もそう遠くないのではないか、と。ああ、恐ろしいことですなあ。

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2005年09月12日

icon偏り


 昨日は、衆議院選挙であった。開票が始まって大体の流れが見えたところで書くことにしよう、などと思いましてね。まあ、夕方から澤乃井をぺろりぺろりとやりながら、テレビを眺めたり、新聞を眺めたり、庭を眺めたり、空を眺めたり、通りすがった宇宙人面した猫を眺めたりして、時間を潰す。そうしたところ、早い時間から少々呑み過ぎました。莫迦てえものは、なかなか治らない。開票が始まった八時にはかなりの酩酊。予想もしなかった結果に眼ん球が飛び出るほどに仰天していたのも束の間。いつの間にか、眠ってしまっていた。
 この日記なんざ、大勢の人が読んでいる訳ではないし、そもそも内容だって手前勝手な戯言ばかりですからね、休んだって、この世から消えてなくなったところで、誰も困る訳ではない。然り乍ら、此方人等、老い耄れておりますからね、休んだりすると、おや、じいさま、とうとう死んじまったか、と慌てて葬儀の手配などなさる方もあるやもしれぬのでね。毎日書くと決めたからには、毎日書かなければいけない。まあ、そうは言っても、いい加減な私のことですから、今までにも休んだし、今後だって休んでしまうことも、間々ありましょうけれど。

 あれほど世間を騒がせている風であったし、みなさん、今度ばかりは選挙に行くものだと思っていたけれど、蓋を開けてみれば、それほどでもないね。七〇パーセントにも満たないてんだからね。大したこたない。事前の報道なんぞの加熱振りから、八〇パーセントを越えたりしてね、などと、思ったりもしたのだけれど、結局、メディアの空騒ぎであったのか。
 それにしても、恐ろしい結果ですなあ。まあ、私のような老い先の短いものにとっては、選挙の結果がどう転ぼうと、まあ、せいぜいが十年も我慢すれば良いことだけれど、お若い人は、この後、半世紀以上も生きる訳であるからして、重要な筈である。筈なんであるけれどね。若人はどう感じているのだろうか。
 私なんぞは、あまりに極端に一方が勝つと恐ろしいですよ。小泉という人をヒットラー以上だなどと、誰か言ってましたな。一方的な勝利となるとね、またそんなことが脳裏を掠める。民主党が一方的に勝ったとしても、同じように感じたでしょうけれどね。そもそも、小泉自民党を絶賛したり、強く推したりしている人など、お見掛けしない。ということは、まあ、他よりはましだから、という理由でこんな結果になってしまったのでしょうかねえ。結局、選挙の結果を本当に喜んでいるのは、小泉くん、一人なのではないかしら。偏向日本よ、何処へ行く、とそんなことを言ってみたくなる。

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2005年09月10日

iconトラックバックが大量にやってきた


 ここ数日、トラックバックとコメントが大量にやってくるようになった。しかも、あれですよ、また、例の、スパムというやつである。外国からのね。一時期、あの、Biancaさんのところで学んだ方法でやっつけることができて、大きに感謝していた次第。しかしですな、賞味期限が切れたのだろうか。近頃、毎日ですよ。毎日、ぽろぽろとやってくる。全部英語ばかりでね。こちらの内容なんざ関係ないよう、なんて駄洒落を言っている場合ではないよう。兎に角、online casinoだとかviagraだとかdiamondだとか、ああ、忘れましたが、そんなようなところからどんどん送られてくる。不愉快千万だし、気持ちが悪いし、全く何だって、こんなことをする人が世の中にいるのだろう。もう、マックをつけるのも嫌になる。けれども、ここでこんなものに屈してはいけない、とも思う。そして、また対策を学ぼうと思って、インターネットを検索するのであるけれど、難しいのである。困ります。あれこれと色々な人の対策を読んではみるものの、さて、実際の方法となると、以前と同じように、また文字文字文字の海をさ迷って、書き換えたり、文を足したりしなければならないのでありますよ。そう思うだけで、頭が痛くなり出して、痛み止めだということで、昼間っから呑んでいますよ。スパム・トラックバックというやつのせいで、此方人等、昼間っから呑んだくれでしまっている。こんなことでは躰が持ちやしない。尤も、昼間から呑むのは私の自制心の無さの為せる業ですからね、一概に、スパムを送る人ばかりを責める訳にもいかないかもしれない。いやいや、けれども、連中が気味の悪い攻撃をしてこなければ、昼間から泥酔に及んだりする筈はない訳で、やはり、悪いのはスパムの人たちなのである。どうにかしなければいけないなあ、と思うものの、この酔っ払い具合じゃ、今日はもう無理ですなあ。悪いのは連中だが、私が愚かでだというのも、やはり、紛れもない真実。スパムの気持ち悪さだけでなく、段々、呑み過ぎの気持ち悪さも重なってきましたよ。つくづく、莫迦な老い耄れですなあ。

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2005年09月09日

iconハバネロ37


 ハバネロの橙色に色付いた姿を発見してから、何日だろう。何だい、数えてみたら、未だ二日程ですか。はは、それしか経っていないのか。この老耄の日記を読んでおられる数少ない人々の中には、じいさんがハバネロ喰って大丈夫なのかね、血管が切れちゃったりしないだろうか、などと、期待したり心配したりていらっしゃる方もいるかもしれない。何を隠そう、未だ食しておりません。なかなかに皆さんお忙しくて、大師匠のカレー作りの予定が立たないようなのであります。また、タムゾー先生は、例の、ギグですか、プレス工場とかいうやつですな。あれが近いということでばたばたしていらっしゃる。まあ、世の中で暇なのは私のようなぽんこつじじいばかりなのである。世間の為には結構な話ですな。皆さん、お忙しい。お楽しみはじっくり待つということで。
 本日、仔細に眺めていたら、緑から変色しかけの、頭の方だけが黄色いやつがありました。やはり、小まめに観察すれば、いきなり橙色に出会すというようなことにはならないのである。雨続きで、私の観察態度が雑だったから、突然の橙色に魂消る破目になった訳ですな。こうやって、見てみると、全体がじわじわと変化していくのではなく、頭の方から変色が始まって、次第に全体の色が変わるという仕組みのようですな。私が想像していたのとは、ちょいと違う。こんな細やかな発見も嬉しいものです。今は、そんな発見をここに書きますね。それも嬉しいことなのであります。まあ、元来、そうそう外向的な方ではないから、人とあれこれ喋ったりするのは億劫だ、などと、思ったりもしていたものだけれど、家内を失い、退職し、家でぶらぶらするだけの毎日だとね、買い物にでも出ない限り、誰とも口を聞かないなんてことはざらなのであります。買い物に出たとて、「しめて七百九十八円になります」などと会計ののお嬢さんに言われるのは、会話には数えられない。そんな日が続くと、何となくちょっと喋りたいな、などという気になったりしてね。はは、情けないことを書いてしまいました。まあ、しかし、私なんぞは恵まれておりますよ。恵まれておりますとも。

静夜風 寝冷えとはそろそろお別れ

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2005年09月08日

icon金蛇近影に物思う


 水遣りをしていたら、またもや遭遇しましたよ、金蛇に。地べたではなく葉っぱの上にいる。さっさかさっさか動きが速い生き物だとばかり思ってきたけれど、意外にのんびりしている。そう言えば、先日のバッタをぱくりとやったやつも、銜えてからはのんびりしておりましたな。のんびりというか、微動だにせず、というような。本日の金蛇くんも御同様。カメラを向けてもぴくりともしない。それで、次第に近づいていって、到頭、随分近くから撮影が出来ました。マックに写真を入れてみて、眺めて見ていると、これが、あれですなあ、意外に愛らしいというか、何というか、兎に角、憎めないような顔付き、相貌、面体。眼ん球なんざ、くりくりっとしているじゃありませんか。まあ、しかし、そうは言っても、虫にとっては恐ろしい怪獣なのでありますよ。そういう心持ちで眺めると、今度は、恐竜みたように見えてくるから不思議である。それにしても、一体、この金蛇てえ生き物はいつから地球上に居るのだろう。相当昔でしょうな。人間なんかよりも昔から居る筈ですよ。爬虫類なんだからね。それとも、爬虫類なら人間よりも古いなんてのは素人考えなんだろうか。悲しい哉、知識も知恵も持ち合わせない老い耄れには、これ以上一歩も思考が進められない。少しは本でも読んで勉強すれば良いのだけれど、勉強のためだと思うと本を読むのが億劫になる。だらだらと気の向く侭に読むのは良いのだけれどね。何かこう、目的意識なんぞを持つと、急に気が余所を向くというのか、興が冷めるというのか。天の邪鬼的な心が発動するのであります。こんな性根ですからね、四分の三世紀程も生きてきたってえのに、しだらのない生活を送る、しだらのない人間に成り果てたのみ。情けないことである。
 金蛇を近影したお蔭で、我が人生を省みる破目になるとは思わなかった。

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2005年09月07日

iconハバネロ36


 待てば甘露の日和あり。ふふふ。昔の人は良いことを言いますなあ。尤も、私だって、お若い皆さんから見れば、相当に昔の人なんだろうけれどね。
 いやあ、やりました。待った甲斐がありました。お〜い。橙色の〜。ふふ。橙色の実が〜。ふふふふ。橙色の実が生りましたよ〜、と。ふふふふん。いやあ、待った甲斐があります。こうしてみると、先日の会議で結論を急がずに呑んだくれて有耶無耶になったのが良かったということになる。世の中、何がどうしてどう転ぶのか判らんものですなあ。兎にも角にも、目出度い限り。いやあ、良かった。ここを御覧になって、師匠連中が駆けつけてくるでしょう。そして、先ずは、大師匠作のカレーてえことになるのでしょうな。世界で一番辛い唐辛子の入ったカレーなんて、常人が食べられるようなものになりますかね。只でさえ、あのお人はインド式ですからね。何だかよく判らないスパイスをあれこれ炒めたりして、私にしてみれば、途轍もない辛さの、そして、複雑な香りの代物なのでありますよ。一体、どういうことになってしまうのだろう。考えるだに、恐ろしい。いや、失言であります。考えるだに、楽しみだ。考えるだけで、冷や汗が出てくる。いや、これも失言ですな。考えるだけで、涎が出てくる。

 それにしても、雨に気を取られて、観察が足りなかったのですかね。いきなり橙色になっていましたよ。途中経過なし。しかも、また、低くて奥まったところのやつです。セニョール・ハバネロという人も妙ですな。陽当たりの良いところから育つのではなく、随分と気紛れな。
 何にしたって、万万歳であります。セニョ殿、ありがとう。よくぞ育ってくれました。

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2005年09月06日

icon水浸しの真相


 私が訳の判らない作文をここに書いたのをお読みになられた大師匠がおいでになられて、あれこれと説明して下さった。あの方は、何でも、あの晩、あっちこっちを駆けずり回ってあれこれの事情を実地に検分し、写真などもたくさん撮ったそうであります。
 私は川が氾濫したと書きましたけれど、あれは、どうも違うようですな。私のこのぽんこつな頭ですから、例によって、理解が滅茶苦茶ですから、どう説明すれば良いのか判らないのですけれど、要は、川が溢れたてえよりも、下水道が溢れたということのようなのであります。実際、下水道がごぼごぼ溢れているという写真を見せて戴きましたしね。大昔はいざ知らず、護岸工事をしてからこちら、そうそう水害なんて話はなかったのに、ここに来て、急に連発したのは、都市計画だとかそんなものの不備の所為だそうで、何でも、行政がいけないのだ、と仰る。典型的な都市型災害であって、実にけしからん、と御立腹。成程ねえ、などと拝聴していたのだけれど、どうも、私のこのおつむにはなかなか理屈てえものが入っていかないもので、説明して下さっている大師匠も些か御不満気味の様子でありました。まあ、その内に、お互いに酔っ払ってきて、どんどん訳が判らなくなってしまったのですけれどね。今日だって、あちこちで被害が出ているというのに、不謹慎ですかね。そうなんでしょうね。

 ちなみに、本日の写真は私が撮ったものではなく、大師匠から頂戴したものであります。深夜も深夜、かなり深い時刻、溢れた水が引き、人が引き、警察や消防も引いた後の、人っ子一人いない、水害直後の町の図だそうな。

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2005年09月05日

icon水浸し


 今日もまた雨が降っている。颱風十四号の影響なのか否か、私に判る訳もないけれど、アメリカのハリケーン「カトリーナ」に負けず劣らぬ、大きなものだそうで、大事件にならぬように祈るばかり。ニューオリンズでの悲惨な状況をニュースで見聞きして、胸が痛くなる。颱風だというと少々燥ぎ気味になる、自分の根性がつくづく不謹慎で嘆かわしいものであると痛感。恐ろしいものですなあ。
 規模こそ違えど、この辺りでも、昨晩の雨は大変なものでした。叩き付ける雨粒の勢いで、屋根が割れるような音がした。近所の川も氾濫したそうで、川に程近くて低いところでは、道路が水に埋まり、その深さたるや、腰よりも低いものの膝よりは上だというのだから、大変なものである。警察や消防が出動し、通行止めにしたり、交通整理をしたり、と慌ただしく対応していたそうである。朝のゴミ出しで顔を合わせた御夫人の話では、中学校の近くのちょいと道の下った辺りでは非難警告なども出ていたそうだし、事実、床上にまで浸水した御家庭もあるとの由。大変なことである。
 以前に、そうですなあ、恐らく、四十年程も前だったと思うけれど、大変な大水で、我が家のすぐ前のところまで水浸しになったことがありましたな。家内と二人してびっくりどきどき大慌てしたのを思い出す。結局、ぎりぎりのところで、浸水はせず、私のところは被害を受けずに済んだのでありました。そんなことがあったせいで、行政も川の護岸工事をしたのですよ。それで、それから後は、かなりの雨でも溢れることなどなく、大過なく過ごしてきた訳です。ところが、今年になって、もう二度目ですからね。どうなっているのか。最近の雨が今まで以上に強いなんてことがあるのかどうか。それとも、どこか他に事情があるのかね。環六の下だか何だかに大きな地下の池だか何だかを作って、もうこれで水害はありません、などと、都だか区だか吹聴していた筈だけれど、結局、あのせいで、うちの近所辺りに皺寄せが来ているなんてことがあるのだろうか。ううむ。無い知恵、無い情報を巡らせても、当然、何も生まれない。兎にも角にも、罹災した皆さんには御同情申し上げるとともに、こんな時にこそ、行政には活躍してほしい、と思う。取り留めのない、随分と長い独り言になってしまった。笑えもしなけりゃ、泣けもしない。実になることなど何もない。ここまで読んでしまったあなた様、お付き合い戴き、有り難う御座居ます、というより、御迷惑をお掛けしました。いやはや、いやはや。

投稿者 nasuhiko : 21:34 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月04日

icon世は巡る


 朝の水遣りをしていると、最近は、バッタを多く見かけますな。一時期は派手な色をした亀虫みたようなものが多くなって、少々、不気味な感じがしたものである。あれは外来のものなのかね。どうも、日本の風景には似合わないような気がするけれど、確かなことは判らない。考えてみれば、鳥居の色なんかに近いところもあるから、あの派手派手亀虫てえやつも、案外、古来から日本に住む伝統的な種類だったりするやもしれない。鳥居亀虫とかね、そんな名前だったりしてね。
 近頃頻繁に顔を合わす、あのバッタは何というのか。幼少の頃には誰かがキチキチバッタと呼んでいたような気がするけれど、本当の名称は判らない。黄緑色で細長い姿は悪くないね。すっとしていてね。水遣りを始めると、あちらこちらでぴょんぴょん跳ねる。突然の雨でびっくりするのだろうか。だとしたら、申し訳ないことだけれど、しかし、植物の為には水が必要な訳だし、植物がなければバッタくん等だとて食に不自由するでありましょうからね。ここは、一つ御寛恕戴きたい。
 今朝もそんな具合で、あっちでぴょん、こっちでぴょんとなっていたところ、足元の草叢でばさっと何かが動いたような気がした。おやおや、と思って、覗いてみると、金蛇殿であります。小振りの、そうさねえ、三糎にも満たないようなキチキチバッタの、胴のど真ん中を銜えて、堂々としている。人間の目には残虐に見える光景ながら、じっとしている姿は何やら思案しているようでもある。一方、被害者のバッタくんも、観念したのか、ぴくりともしない。私も息を凝らして熟視して、じっとしており、三者三様、立場は違えど、ただただじっとしている時間がゆっくりと過ぎる。と、そこへ、静けさを乱すものが現れた。宇宙人面したちび公である。私の後方から、忍び足でやってきたのであろう、首の鈴さえちりとも言わせずに現れて、一気に飛びついた。ちび公くんは金蛇を銜えると、うにゃうにゃうにゃうにゃあ、というような、妙な声を上げた。見よ、我が太刀の冴え渡るを、などと宣うているのだろうか。それとも、やったよ、やったよ、ぼく、やったよ、と燥いでいるのだろうか。孰れにせよ、普段は耳にしたことのないような、独特の鳴き声でありました。そして、獲物を銜えて誇らしげに去っていきました。水、植物、昆虫、猫。自然界の循環というのか、何というのか。ううむ。

 昼前に庭に出てみると、また宇宙人面した猫くんが舞い戻って、木の間から顔を覗かせている。金蛇狩猟に味を占めて、張り番と相成ったのかもしれない。そんなことを思っいながら、じっと見ていたら、鼻の頭をぺろり。

投稿者 nasuhiko : 18:45 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月03日

icon夏の抜け殻

自転車に蝉の抜け殻 夏形見

水遣りの溜まりに休む夏の蝶

夕暮れの百日紅 陽も落つるなり

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2005年09月02日

iconこんな日も


 もう夏も終わってしまうのだなあ、などと、ちょいと沁み沁みとしたような心持ちになって、はや数日。けれども、暑い。非常に暑い。とてもじゃないが、沁み沁みとなぞしてられやしない。朝の水遣りを終えてからは、昼まで、ひたすらごろごろと転がって、扇風機を浴びるばかり。昼になって、何か食べようかと思って、冷蔵庫を覘いてみたが、殆ど何もない。一瞬だけ、買い物に出ようか、という気になったものの、本日の暑さでは買い物も散歩も、外出というものは何も彼も中止にする。素麺だけを食しましたよ。薬味は何もなし。出来合いの蕎麦つゆ。それでも、さらっと美味しく戴けてしまうのは、揖保乃糸が如何に素晴らしいかという証と言って良いのでしょうな。
 午後も、猶もだらだらと転がっていた。ちょいと庭に出て写真をぱちりぱちりとやってみたけれど、気力が全く充実せぬので、すぐに部屋に引っ込み、また、でれんでれんと畳の上をのたくる。扇風機のモーターのぶううん、かたかた、という音が、じりじりと暑い部屋に充満し、いやに大きく聞こえますな。はは。本を読む気もせず、音楽を聴く気もせず、テレビを眺める気さえ起きない。まあ、こんな日もありまさあね、などと、独り言ちてみたりして、全く以て、弛んだじじいであります。
 こんな具合に、てれてれと莫迦げた態度でいても、時間というのは経過するもので、いつの間にか、暗くなっている。それにしても、近頃は暗くなるのが随分と早い。こんなことも夏が終わりつつある証左であることは間違いない。けれども、未だ未だ、大きに暑いという現実があり、私は無気力に転がり続けるのであります。ごろんごろん、とね。どうせ冷蔵庫には陸なものが入っていないことは判っておりますから、本日は、晩飯を割愛し、つまみもなしに一杯始めますよ。まあ、こんな日もありまさあね、と懲りずに呟く。何だか良い響きだね。まあ、こんな日もありまさあね。口癖になりそうですな。

投稿者 nasuhiko : 19:21 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月01日

iconハバネロ35


 昼過ぎに、田村師匠と円嬢が来訪。ちょいとしてから、大師匠も御見えになった。何を隠そう、本日は大ハバネロ会議なのである。尤も、誰もそんなことを隠しやしないし、余所の人だって、そんな会議には興味がないでしょうしね。世間では、郵政民営化だ、いやいや、それより年金だ、少子化問題もどうしてくれる、自衛隊の海外派遣だなんて、あんた、ありゃ、違憲じゃろうよ、と囂しいのであって、我が小庭のセニョール・ハバネロの身を案じている暇人は、恐らく、十指に余る。いやいや、実のところ、五指にも余る……というより、本日、ここに集まった四名で全員なのではないかしら。
 議題はというと、いつ、ハバネロの実を収穫するべきか、ということなのである。嘗ては、如何にしてセニョ殿を無事に育て上げるか、ということが中心だったことを考えると、状況は大きく前進していることは間違いない。その証拠に、誰一人として陰気な風を吹かしている人などいない。寧ろ、揃いも揃って、えへらえへらと薄ら笑いを浮かべている程である。師匠は、兎にも角にも、一つ二つ獲って食してみよう、と。後のことは、食してみてからで良いのではないか、と。それに対して、大師匠は、ここまで辛抱したのだから、せめて、幾つかが赤く色付くまでもう一息待ってみようではないか、と。どちらも御尤も。円嬢と私は、そうですねえ、だの、ははあ、なるほど、だのと、相槌を打つばかり。
 時間の経過と共に議論が白熱するかと言えば否である。次第に、酔いが回ってきて、まあ、今日のところは結論は持ち越しということで、などと、曖昧な侭、世間話へと流れていく。これで良いのでしょうなか。良いのでしょうな。
 しかし、これからは段々と涼しくなっていく訳で、それ故、この侭、赤くならずに終わってしまうことがないかどうかが心配ではあります。けれども、そんなことは、また明日か明後日か明明後日に。師匠と大師匠にお任せするとして。

投稿者 nasuhiko : 19:36 | コメント (0) | トラックバック