2005年09月04日

icon世は巡る


 朝の水遣りをしていると、最近は、バッタを多く見かけますな。一時期は派手な色をした亀虫みたようなものが多くなって、少々、不気味な感じがしたものである。あれは外来のものなのかね。どうも、日本の風景には似合わないような気がするけれど、確かなことは判らない。考えてみれば、鳥居の色なんかに近いところもあるから、あの派手派手亀虫てえやつも、案外、古来から日本に住む伝統的な種類だったりするやもしれない。鳥居亀虫とかね、そんな名前だったりしてね。
 近頃頻繁に顔を合わす、あのバッタは何というのか。幼少の頃には誰かがキチキチバッタと呼んでいたような気がするけれど、本当の名称は判らない。黄緑色で細長い姿は悪くないね。すっとしていてね。水遣りを始めると、あちらこちらでぴょんぴょん跳ねる。突然の雨でびっくりするのだろうか。だとしたら、申し訳ないことだけれど、しかし、植物の為には水が必要な訳だし、植物がなければバッタくん等だとて食に不自由するでありましょうからね。ここは、一つ御寛恕戴きたい。
 今朝もそんな具合で、あっちでぴょん、こっちでぴょんとなっていたところ、足元の草叢でばさっと何かが動いたような気がした。おやおや、と思って、覗いてみると、金蛇殿であります。小振りの、そうさねえ、三糎にも満たないようなキチキチバッタの、胴のど真ん中を銜えて、堂々としている。人間の目には残虐に見える光景ながら、じっとしている姿は何やら思案しているようでもある。一方、被害者のバッタくんも、観念したのか、ぴくりともしない。私も息を凝らして熟視して、じっとしており、三者三様、立場は違えど、ただただじっとしている時間がゆっくりと過ぎる。と、そこへ、静けさを乱すものが現れた。宇宙人面したちび公である。私の後方から、忍び足でやってきたのであろう、首の鈴さえちりとも言わせずに現れて、一気に飛びついた。ちび公くんは金蛇を銜えると、うにゃうにゃうにゃうにゃあ、というような、妙な声を上げた。見よ、我が太刀の冴え渡るを、などと宣うているのだろうか。それとも、やったよ、やったよ、ぼく、やったよ、と燥いでいるのだろうか。孰れにせよ、普段は耳にしたことのないような、独特の鳴き声でありました。そして、獲物を銜えて誇らしげに去っていきました。水、植物、昆虫、猫。自然界の循環というのか、何というのか。ううむ。

 昼前に庭に出てみると、また宇宙人面した猫くんが舞い戻って、木の間から顔を覗かせている。金蛇狩猟に味を占めて、張り番と相成ったのかもしれない。そんなことを思っいながら、じっと見ていたら、鼻の頭をぺろり。

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2005年07月06日

icon名前なんぞ2


 雨が降ったり止んだりして、はっきりしない。気温も中途半端なせいか、朝から膝がずんと重い感じがして厭だ。そうして、だんだん気が塞いでくるのである。早く梅雨が終わらないだろうか。うじうじしながらも、ついつい小庭に出て様子を見てみる。天候が良くない良くない、とは思うものの、最近はセニョール・ハバネロの具合は決して悪くはない。尤も、調子が良いという風でもないのだけれど、一時期の不調、苦しみ具合を考えれば、悪くないということは、私にとってもセニョちゃんにとっても、とっても素晴らしいことなのである。
 しかし、昨日の話に戻るけれども、ハバネロ殿のことをあれこれ書けるのも、名前が判っているからだ、ということではありますな。名前がどうだこうだなんてことは、人間の手前勝手な御都合主義の産物で、先方の草や木は、あっしらには関係ないことでござんす、と外方を向いているに違いない。まあ、実際、草や木が名前で呼び合ったりする筈はないし、名前がなくても、彼らは育つし、花を咲かすし、子孫を遺していく訳である。
 そんなことを考えながら、小庭でぼーっとしていると、ほうほう、暫く振りではないか。宇宙人面したちび公がやってきた。こちらの顔を見ると、にこりとする訳でもなく、にゃあと声を出す訳でもなく、何となく近からず遠からぬところで、一休みしている風である。手を舐めたり首をぐいと曲げて背中を舐めたり。合間にこちらの様子を窺ってみたり。「ちび公くんよ、一杯いくかい」と声を掛けるけれど、特段、返事をする気配はない。「ちび公くん」と猶も呼び掛けると、ちらりと見上げた。けれども、考えてみれば、この猫の名前が「ちび公」である筈はないのである。飼い主様が付けた、立派な名前があるに違いない。しかも、その名前にしたって、飼い主殿には意味があるかもしれないけれど、ちび公くん本人にとっては、意味はないのじゃないだろうか。まあ、他人様の家内のことだから、私がとやこう言うつもりはないけれど。
 冷蔵庫から鈴廣を取り出して、ちび公くんと半分こ。ちび公くんには牛乳。私は澤乃井。こうやって、対座して一杯やるのに、確かに名前なんぞ要りませんなあ、と声を掛けるも、あれあれ、先方はじゃかじゃか喰ってじゃかじゃか飲んで、もうどこかへ去っていった後。まあ、元気なことは結構なことである。

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2005年05月19日

icon大人びてきましたな


 セニョールが登場して以来、どうしても、早起き、というか、朝早くから庭に出て様子を見たくなる。ささ、今日はどうだろうか、と窺うと、なるほど、あまり変化はありませんな。被害は進んでいないようである。一枚一枚、葉の裏側まで丁寧に睨め回したけれど、蟻巻連の姿はない。良かった、良かった。続いて、天道虫の幼虫くんの方を見てみると、相変わらずのようであるけれど、蟻巻の数が減ってしまって、早晩、食糧危機に陥るのではないか、と懸念される。尤も、大分太っているから、その前に蛹になってしまうのかもしれないけれど。
 一安心して、水を撒き始めたら、草叢から飛び出してきた。おお、ちび公くんか。大方、また、金蛇でも探してあちこち顔を突っ込んでいたのだろう。こちらを向いてにゃあと鳴く。ふふ、私もにゃあと答えてみましたよ。まあ、猫語なんざ判らんので、何となく「近頃、調子はどうだい」というような心を込めてみたのだけれど、通ずる筈はない。しかし、あれだね、暫く振りにだけれど、相変わらずの宇宙人面だね。はは。けれども、随分、大人びてきましたか。猫の歳てえのは、どうやって数えるんだか判らないし、そもそも、ちび公くんの誕生日を知っている訳ではないので、正確なところは判る筈もない。まあ、蜥蜴や虫を追い掛けて、ぴょんぴょこ兎みたように飛び跳ねているのだから、未だ未だ若いのでしょうな。小学生ぐらいかね。こんなところで、立ち話も何だから、と、奥から、鈴廣の蒲鉾を持ってくる。さあ、お食べよ、と差し出すと、喜んで食しておる。ふふ、愛い奴よのう。向こうにしてみりゃ、相変わらず、手前勝手なことばかり呟く、妙なじじいだぜ、とでも思っているのかもしれないけれどね。意思の疎通がうまくいかないのは仕方がない、などと思う。それにしたって、昆虫や植物に比べれば、理解し合えているような気にはなれますよ。何だい、あのハバネロてえやつは、ぼうと突っ立ているばかりで、私が、水は足りなくないかい、蟻巻に襲われていないかい、なんぞと気を使ったところで、全くの無表情。有難うでもなければ、煩いなあ放っといてくれ、でもない。それに比べたら、ちび公くんなんざ、偉いもんだ。顔を合わせば、にゃあと鳴く。蒲鉾を差し出せば、喜んでごろごろ音を立てる。嬉しいじゃありませんか。そんなことを思っていたのだけれど、蒲鉾を食べ終わった途端、何事もなかったかのように、立ち去ってしまった。冷たいねえ。まあ、それが猫てえものか。全く、これだから猫てえやつは信用がおけないよ。それに比べて、セニョールくんはいつだって、待っていてくれる。雨が降ろうが風が吹こうが、じっとそこに佇んでいる。立派なもんだ。ささ、もう一杯、水を如何ですか、と水遣りを再開する私である。

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2005年04月25日

icon集中中


 福寿庵で天抜きと清酒。近頃じゃ、跡継ぎ息子も気が利いてきて、酒と言えば、黙って、冷で澤乃井を持ってくる。本日は、坂本くんは不在の様子。息子くんによれば、近頃は音楽熱が盛んだそうである。あれこれとCDを買い込んでは、轟音で聴いている、とのこと。尤も、轟音なのは耳が遠いせいだろうけれども。田村師匠の影響がこんなところにも出ておるのだろうか。師匠もちょくちょくここで笊を啜っておるという。友人と友人が知り合って友人の輪が広がるのは、何とも嬉しく、少々鼻が高い気すらするものである。然り乍ら、その一方で、私の知らないところで、二人の親交が厚くなってゆくのは、何だかちょいと嫉ましいというか何というか。じじいのくせに、しかも、男友達に何を嫉妬しているのやら。全く以て莫迦である。
 散歩がてらに、ぶらぶらと遠回りしながら、歩いていると、広場の草叢で、宇宙人面したちび猫を発見。ぴょこぴょこ兎みたように跳ねたりしている。変わり者だね。おーい、だの、君ぃ、だの、ちび猫くんよ、だのと呼び掛ける。いつもなら、振り返り、機嫌が良ければ、にゃあ、と返事が来るところ。しかしながら、本日は、私の声に何の反応もしてくれない。もう一度、呼んでみる、おーい、ちび公くんよ、と。しかし、この度も全くの無視。無視。無視。まあね、考えてみれば、私が声を掛けたからといって、返事をしなければならない、という義理がある訳ではないのである。何しろ、先様は余所様のお宅に飼われておる猫である。けれども、たまには蒲鉾を分け合う仲であるわけで、振り向くぐらいしてくれても良いのではないか、とも思う。兎にも角にも、一体、何をしているのか、忍び足で近づいてみた。すると、あれですよ、蜥蜴です。尻尾が切れて、尻尾は尻尾でくねくね動いている。これが世に言う蜥蜴の尻尾切りなんでしょうな。尻尾の切れた蜥蜴を見たことはあったけれど、切り立てほやほやでくねくね動いている尻尾を見るのは初めてである。思ったほど、不気味ではなく、寧ろ、不思議な感じか。しかしながら、折角の尻尾切りも、今回は奏功しなかったようである。ちび公くんは、蜥蜴本体に夢中な様子。撫ぜるように柔らかく触っては、自分が飛んで下がったり、何がしたいのか判らない。兎にも角にも、殺したり、食べたり、ということが目的ではないようである。要するに遊びなのか。しかしながら、遊ばれている方は堪ったものではないので必死に逃げようとするのだが、宇宙猫くんは、行き先を塞いでしまう。残虐なようではあるけれど、猫としての本能がさせていることだと思うと、残虐だ何だというのは人間の勝手な思い込みに過ぎぬとも言える。ううむ、難しいところですな。五、六分程、あるいは、もう少し眺めてみたけれど、集中中のちび公くんの集中振りは途切れそうになく、何となくもやもやした気持ちのまま帰途についた老い耄れである。

春の苑 猫の戯れ 胸痛し
 生まれながらのものと思えど

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2005年04月14日

icon快晴・快哉・再会・幸い


 雲一つない、というほどではないけれど、日光が眩しいほどの晴天である。ぼんやりと雨続きで薄墨色の空に慣らされた目には痛いほどの輝き。春はこうでなくてはいけない。今まで、自分がそれほど天候に左右される人間だと思ったことはなかったが、先日来の鬱した気分とどんよりとした空模様とは関係があるのではないか、という気になってきた。現に、ほれ、本日のように晴れ渡れば、気分はすっきり。というか、ほぼすっきり。まあまあすっきり。ううむ、じっくり考えてしまうと、それほどすっきりしていないような気がしてきてしまう。いやいや、けれども、昨日までよりは、かなり改善されているのは確かである。
 午前中から辺りをうろうろした。あちらこちらで色鮮やかな花が開き、爽らかな萌葱色も目映い。春は気にけり。今更ながらそう思う。そうそうそうそう、そうなのである。ちび猫を発見しました。全く以て、猫なんざ、気紛れなものである。心配するに値せぬ。あれこれと慌てふためいていた己が身が如何にも莫迦みたいではないか。まあ、実際、莫迦なのでありますがね。
 件の、宇宙人面をしたスパイ猫は、白豚の如き、あるいは、白熊の如き、恰幅の良い猫と広場で追い掛けっこをしておりました。宇宙猫が白豚を追い掛け、次は、白豚が宇宙猫を追い掛け、暫く休憩。また、宇宙猫が白豚を追い掛け、続いて、白豚が……と、そんなことを繰り返していて飽きる様子がない。ベンチに座って、一頻り、その姿を眺めたが、馬鹿馬鹿しい猫たちであるなあ、と思うものの、その一方で、何とも言えず、幸せな気分にもなる。不思議なことだ。こちらを振り向いたときに、スパイ猫が一声、にゃんとないたけれど、それは、暫く振りだな、あるいは、じじい、生きていやがったか、という意味だったのか。兎にも角にも、私の顔を覚えているように思われた。それが、嬉しいことなのか。そんなことが嬉しいのだろうか。正直に申せば、かなり嬉しい。全く莫迦なじじいだよ。

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2005年03月26日

icon物騒な御時世なので


 彼此十日ほどになるだろうか、宇宙人の顔をしたちび猫が顔を出さない。やってきたところで、日向でだらだら寝そべっていたり、小鳥を追い回して木に登ったり、人の顔をじろじろ見たりするだけで、特別、愛想が良いわけではなく、辛うじて撫でることはできても抱いたりできるわけでもない。だから、どうってことはない、と思っていたのだが、付き合いが長くなってきて情が移ったのだろうか、暫く顔を見せないと、寂しいような心配なような、妙な心持ちになる。何故、私が余所の家の飼い猫の身を案じなければならぬのか。考えてみると、馬鹿みたいな話だし、そう思うと、少々憎たらしくさえ思えてくる。スパイ猫が末廣の蒲鉾を好むので、それを欠かさぬように気を使って、今では我が家の冷蔵庫の常備品となっている有り様だ。何故、私のような老い耄れが余所様の飼い猫、つまりは、満足な食生活を送っているであろうところの猫の、喰い物の心配をせねばならぬのだろうか。しかも、折角、用意してあっても、敵は気が向いた時にしか来ない。やって来たとしても、満腹なのか、差し出した蒲鉾に見向きもせぬこともあるのである。その時の、拍子抜けした、がっかりした気持ち、どうしてくれよう。独り勝手に盛り上がったり盛り下がったりしているじじいの様は、傍の目には、嘸かし滑稽に映ることでありましょうな。情けない。けれども、この、案ずる心というのは自然に発生するものなのであって、抑えることはできず、やきもきするばかり。まさか今の世に、三味線屋のための猫捕りをしている者もおるまいけれど、車やオートバイが走っている道をうろうろしているのだから、交通事故の心配がある。また、乱暴な小学生が猫めがけて石ころを放る姿を目にしたのは幾度となくある。はたまた、稀にとはいえ、気の触れたものが小動物を虐待して殺したりしている、などという報道があることもある。ちび猫が、どこかで何かの被害に遭っていはしないか、と気にし出せば限りがない。限りがないのだけれども、何となく不安が腹の底できゅうっと塒を巻いているようで、落ち着かない。ちび猫は大丈夫だろうか。心配を紛らそうと、杯を重ねているうちに、不安が増幅されてきて、堪らず、表に出て近所を一周してみたけれど、見当たらない。どうしたらよいのだろう。猫のような気紛れな生き物のことだから、明日になれば、ふらっと現れてくれるに違いない、と思うのだけれど。ああ、ちび猫くんよ、何処に。

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2005年03月10日

icon交換音楽07


 朝から繰り返し聴いているこの『フラワーズ・オブ・ロマンス』も久下ちゃんのアルバムも、どんどんどこどこ、どこどこどんどん、と、どちらも力強い太鼓が推進力になっているのは同じである。けれども、届いてくるものは大きく異なるのですな。どちらが良い悪いというようなことではなく、端的に、異なる。別物。別世界。
 久下ちゃんの方は、大きに肉感的なものですな。場を同じくしているわけではなく、ただ音響機器を通じて耳にしているだけの私も、思わず参加したい、と、そう思わずにはいられぬような代物。事実、箸で皿を叩いて騒ぐことも屡々。尤も、それは多分に酔いのせいでもありましょうが。
 それに対して、この『ロマンスの花々』の方は、騒がしいのは精神だけ、とでも言うのが良いのだろうか。肉体で接しようと、試しに、珍妙な歌声に合わせて、ああああ、あうあう、などと唸ってみたが、どうもしっくり来ない。唸るより、目を閉じて、心を解き放ち、音と唄声に従って、宇宙をあちらこちらへとさ迷うのが宜しかろう。空想の世界でなら、いくら徘徊したところで誰に迷惑かけるでなし。

 ううむ、それにしても、熟、音楽の世界を言葉で説明するのは難しい。尤も、私の如き素人が……しかも、時代とは遠く隔たった世界の片隅に存する老い耄れた素人が……ああだこうだと語ろうとしていること自体に無理がある。笑止千万。笑止億兆。余計な小理屈を、ずるずるだらだら、ああでもないこうでもない、と書き連ねるより、がんがんずんずん呑んで呑んで呑んだくれて、酔いと音に身を任せるべきなのである。

 堂々巡りの無駄な思索と杯を重ねていたら、良い具合に酔ってきた。おお、そこを行くのはちび公殿ではありませんか。今、蒲鉾を差し上げますぞ。君ら、猫族にとっては、音楽てえものはどうなんだろうね。こういう太鼓のどんどこはどうだい。え、悪くないだろうよ。何々、鈴廣の蒲鉾にはかなわないと申されますか。御尤も、そりゃそうだ。どれどれ、もう一切れお食べなさい。太鼓も良いけれど、鈴廣も良いですな。肴が良いと、澄み切った酒が益々美味い。いや、結構、結構、余は満足じゃ、ふはふは。

パブリック・イメージ・リミテッドの『The Flowers of Romance』 久下惠生の『A Very-Disco Golden Greats of Kuge Yoshio

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2005年01月13日

icon小さな来訪者04


 一つのことが気になると、うじうじぐずぐずとそのことばかり考え続けてしまうのは、何だろう、粘着質とでもいうのか。元からそういう傾向が他人様より強かったように思う。嫌なことに関しては殊更で、堂々巡りを繰り返し、心の中はぐしゃぐしゃがっちゃんびっちょんちょんになってしまう。そんなことがあると、酒に逃れ、おかげでますます事態は悪化し、あれこれとしくじったものである。老いとともに、様々な能力が低下するばかりなのに、想像力、いやさ、妄想力だけはどんどんどんどん成長し続けている。あることないこと、ないことないこと、何でもかんでも妄想し続け、妄想は拡がり、妄想は妄想を呼び、妄想による妄想のための妄想の永久機関となる。あな恐ろしや。
 引鉄になるのは、どんなことでも良いのである。先日の空飛ぶ謎の物体だったり、恵子くんの幽霊だったり、と。ボクボク詐欺の電話だって、もしかすると、全て私の妄想の産出したものなのではないか、と、いやいや、あのあと、木澤くんからオレオレ詐欺の件で電話があったから、あれは違うのだが。ううむ、昼間から呑み過ぎたもので、頭の中が神楽囃子でぴーひゃらひゃらひゃら。何が何だかわからない。わからないけれども、今日もまた澤乃井は美味い。
 この酒てえものがまた曲者で、このおかげで人生のあちらこちらに汚点を残し、酷い目に合っている。にもかかわらず、また、今日も呑んでしまっているこの老耄の奴彼。まあ、残り少ない人生を独りで生きて独りで死んでいくだけさ。かまうこたあない。
 おうおう、来たな、間者の猫くんよ、猫の間者くんよ。見慣れてくると愛い奴よのお。貴公のために、鈴廣の蒲鉾を多めに買ってありますぞよ。さあ、食べたまえ。それにしても、君てえものの顔は、あれだね、中々に可愛いね。可愛いんだけれども、ちょっとこの世離れしておるね。この世を離れて、西空の彼方からやってきた宇宙人のようでありますなあ。ああ、ああ、そうであったのか。貴君のことを隣近所の誰かに放たれたスパイか何かと思い込んでおりましたが、実は、宇宙人だったのございますか。先日の銀色に輝く物体だって、あなた様が運転していたのではございませんか。おいおい、何だい、猫殿、蒲鉾にばかり気を取られてないで、人の話も少しは聞き給えよ。返事の一つもしてくれりゃあ、なお結構なんだけれども、まあ、宇宙人の考えることはあっしらには分かりようもねえこってがすな。はは、もう一杯呑んじまえ。あははは、何だか楽しいねえ。

 こんな愚か者の上にも、日は沈み日は昇る。ありがたい話ではございませんか。

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2005年01月08日

icon小さな来訪者03


 年を越してから、はじめて、例の猫がやってきた。「おめでとうございます」と声を掛けてみたが、間の抜けた面でこちらを見上げるばかりで、にゃあとも寸とも言わない。ことによると、寧ろ、先方こそ、間の抜けた面で見下ろすばかりの耄碌じじいだなあ、と思っているのかもしれない。兎にも角にも、正月である。いや、世間では正月気分は終わっているのかもしれないけれど、私にとっとてはまだまだ正月なのである。何しろ、陽の高いうちから酒を呑む毎日。「おい、猫くんよ、乾杯とはいかないだろうから、これでもつまみたまえ」と蒲鉾を千切って放り投げる。鈴廣の蒲鉾だぞよ。猫の味覚は正直だろうから、その美味さがよくわかるのだろう。がつがつがつがつ、あっという間に食べ終えてしまった。喰い終わってしまうと、先程と同じような、呆けた顔つきでこちらを見上げる。物乞いする風情ではなく、ただただぼうっと見上げている。その表情が、何とも憎からず、また一切れ、放り投げる。がつがつ。また一切れ。がつがつ。そんなことを繰り返しているうちに、蒲鉾はすっかり彼奴の腹の中に収まってしまった。まあ、良かろう。先方は、摂取した栄養分を成長に利用する。同じ呆けもの同士とはいえ、こちとら老い先短い老耄の身、滋養はぽんこつ脳みそとぽんこつ肉体を少しく維持する役にしか立たぬ。それに加えて、私には澤乃井がある。あはあはあは。
 蒲鉾がなくなってしまったので、今度は、ヤマサの竹輪である。これがまた何とも美味く、最適の肴である。「ほれほれ、猫くんよ、もう少しやってみるかい」と放り投げる。やはり、がつがつと一気に飲み込むように食す。もう一切れ、もう一切れ、と同じことの繰り返し。これで、私らは竹馬の友ならぬ竹輪の友だね、などと、苔生した駄洒落が出るようでは、そろそろお開きにするが良かろう。

喰い積みの蒲鉾分け合う 竹輪の友

投稿者 nasuhiko : 17:10 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月03日

icon雪の色眼鏡


あらゆる汚れを覆い隠し
雑音を吸い込み
目眩く光を照り返す

この美しさ 目映さ 静けさ

白にだって陰影があるのだけれど
反射光は目を欺き
世界をやたらに明るく見せる

この美しさ 目映さ 静けさ

この美しさの下に 目映さの下に 静けさの下に
目隠しされた現実がある

朝になって溶けはじめた白き原の上を
土色のものがこちらへむくむくと動いてきた
猫だ
ああ あの猫か

投稿者 nasuhiko : 17:33 | コメント (0) | トラックバック

2004年11月30日

icon小さな来訪者02


 昨日は昼日中から相当に呑み過ごしたようである。あんな小猫が間者であるわけがない。私の脳の弛みは相当進行しているようである。日記を読み返して赤面している次第。
 悲しい気持ちになるできごとがあったせいで、近頃はついつい昼間から飲んでしまう日が続いている。これはまた愚痴か言い訳か……。昼間から酒を飲むのが悪いということはない。悲しいから、という理由で酒を飲むのが良くないのである。しかし、ぼうっとしていると、そこはかとないやり切れなさが何となく頭の天辺にのしかかってくるような気がして、気がつくと、盃を傾けている老いぼれがいる。正直に言えば、今日も既に飲み始めている。

 枯れ梅の枝の上で、雀を威嚇するように鳴いていた鵯がの声がぱたりと止んだ。どうしたことかと見回してみると、例の通りの小さな闖入者である。あんなに小さな猫であっても、小鳥たちにとっては脅威となるのだろうか。兎にも角にも、雀が去り、鵯が去り、庭の真ん中でのんびりと毛繕いをする小猫が一匹残るのみ。
 スパイだ何だと、妙な妄想に駆られた昨日だが、寛ぐその姿はなかなかに可愛らしいものである。小さな躰だが動作はすっかり一人前で、丁寧に丁寧に我が身を舐めこみ舐めこみ、お洒落に余念がない様子。身繕いが一段落したのか、柿ノ木にのぼると、手頃な枝の分かれ目にすっかり身を横たえて欠伸をする。欠伸をする。もう一度欠伸をする。どうやら眠ってしまうようである。なかなかに愛いやつよのう、とそのうつらうつらした姿を眺めながら、もう一杯。時々、薄目を開けてこちらを伺っているようだが、鳴くでもなく、動くでもなく、特に警戒しているようでもなく。
 たとえ、相手が眠りこけた小猫であろうとも、独りで飲むよりは幾許かはましではないか。

葉も落ちて 猫寝呆けおる 柿日暮れ

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2004年11月28日

icon小さな来訪者01

 ここ数日、小さな猫が庭を訪れる。何をするでもなくぶらついているかと思うと、突然、梅の木を駆け上がってみたり、地べたにぺたりと伏せてみたり、何を考え、何をしているのやら。首輪をしているし、大方、近所で飼われているのだろう、とは思う。
 こちらをじっと見ているので、何か言いたいことでもあるのだろうか、と思い、「おい、猫くん」などと声をかけてみても、にゃあと返事をするわけでもなく、きょとんとした瞳のまま、ただただ眺めるばかり。鳴くわけでもなく、何かを要求するのでもなく、私を観察しているのだろうか。もしかすると、これはスパイ猫なのではないか、という気がしてきた。生き物にしては無表情に過ぎるのではないか。猫型ロボットのの目に高性能のカメラか何かが仕掛けてあって、近隣の何者かが、耄碌じじいの動向を窺っているのではないか。そう思い始めると、先程までは円らで曇りのない瞳に思えていたものが、狡猾なカメラのレンズのように見えてきて、見透かされるような不安を感じる。首輪にマイクか何かが仕掛けてありはしまいか。どこか怪しいところはないかと、こちらも目を凝らしてじっと観察するが、如何んせん、視力に難ありで、細部は判然としない。こちらがじろじろじろじろ睨め回すような視線を這わせたところ、ついと立ち上がって、垣根の下の隙間から去っていってしまった。いよいよもって怪しい。
 一体、誰が私を監視しようとしているのだろうか、とあれこれ思い巡らせるが、誰一人としてそのようなことを望む者が思い浮かばない。ううむ、不可思議。

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