2005年10月08日

iconハバネロ43


 恐るべきはハバネロ醤油。その後も、私の食欲は一向に衰えておりません。もう既に、瓶の、そうですな、ざっと一糎ほども消費してしまった。つまり、その醤油に相応する量の奴が胃の中に入っていった訳ですなあ。けれども、満腹に苦しむことなどない。ハバネロには胃腸を丈夫にして、消化を促進する力でもあるのだろうか。それとも、胃を拡張させる機能でもあるのかしら。まあ、兎にも角にも、豆腐なんざ喰い過ぎたって大丈夫でしょうね。所詮、大豆ですからね。問題は、寧ろ、醤油による塩分の取り過ぎてえことでしょうな。まあ、しかし、美味いのだから仕方がない。暫くは気にせずに、どんどこ喰おうではないか、と。問題が発生しているならば、次の血液検査の時に、若先生が教えてくれるでありましょう。

 昼前に、近所の元乾物屋で味付け海苔を買ってきました。元乾物屋というのも変な言い方だけれど、今は、乾物屋というよりは、ちっちゃなスーパーみたような体ですからね。時代の流れに振り落とされないようにするには、どちらさんも大変なのでありましょう。
 その味付け海苔で何をするかというと、ハバネロ醤油にこれをば浸して、ぺろりと奴の上に貼り付けて食そうと企んだ訳である。先程、早速試してみましたがね、これはこれで美味いですぞ。安物の海苔だから香りなんざ大したことないけれど、香りの部分はハバネロ殿が担当しておるから、それで結構。味付け海苔のあのちょいと鬱陶しいような薄甘い感じも、ハバネロ醤油との組み合わせで活きるのでありますなあ。我ながら、簡単で美味い方法を思いついたものだと自画自賛。はは、莫迦である。

 私にもう少し根気があれば、あれこれとハバネロを使った料理にも挑戦しようという気になるのでしょうけれどね。も少し涼しくならないとそういう料簡にはなれなそうであります。もう一息秋が深まったら、また、チョ先生の韓国料理にでも再挑戦してみますかね。ああ、あの納豆汁はなかなか美味かったものなあ。大蒜が良いんですな。涎が出てきた。

投稿者 nasuhiko : 18:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月05日

iconハバネロ42:食欲無限


 ハバネロ醤油にすっかり取り憑かれた。何でしょうなあ。中毒性があるのではないか。そんな気がしてきた。私は、ぽんこつの枯れ木同然なのであるし、元来が少食である。今更、成長する余地はないし、運動で消費するものも殆どない。だから、多くの食物を必要とはしない。当たり前だ。自分では、澤乃井という液体の米を摂取してさえおれば、日々必要なエネルギーには十分だろうかね、などと思っている。尤も、この話をしたら、若先生には酷く怒られましたけれどね。
 まあ、兎にも角にも、大量に物を食べたという記憶には、何十年か遡らねば出合えない。最近の昼飯なんざ、奴が半丁か多くて一丁。じゃなければ、笊か素麺という程度をさらり、と。そんなところである。ところが、異変が起きた。本日、私は豆腐一丁を食しても未だ足りず、蒲鉾を、そうさね、凡そ半分ほども食べてしまった。そして、ついでに、昨日、円嬢が置いていってくれた菜っ葉もばりばりと戴いた。お若い人々にしてみれば、大した量ではないだろうけれど、私としては、あれあれ、こんなに食べて、大丈夫なのかい、と、自問せずにはいられない。そういう不思議な気がする程の分量なのである。しかも、満腹感があるにも拘わらず、まだまだ食べられそうな気がしている。一体、私はどうなってしまったのか。
 要は、これは、ハバネロ効果なのではないだろうか。ハバネロは辛さとすっぱりした香りだけではなく、胃だか神経だかに対する、何らかの特殊な刺激力を秘めているのではないか。それが、私の日常の感覚を狂わせて、どんどこどんどこ食べ続けさせ、満腹の後も猶も食欲を維持しているのではないかしら。勿論、これは当て推量であって、本当のことは何も判らないけれどね。これでは、明日からは、豆腐や納豆や何や彼やを、多め多めに買っておかなければならない。蒲鉾だって、宇宙人面したちび公の分まで喰っちまった訳だから、もっと多めに在庫しておかねばならん。何とも妙なことになってきた。ううむ。

投稿者 nasuhiko : 18:23 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月04日

iconハバネロ41


 午後から、田村師匠と円嬢が揃って御来訪。先日作ってきて下さった
ハバネロ醤油とハバネロ・オリーブ・オイルの試食会を致そうという酒肴。あれ、違う。趣向。尤も、酒肴ではありますがね。兎にも角にも、有り難い話である。
 振り返る。どこからかハバネロの苗を仕入れてきたのは、大師匠。あれこれの対策を考えてくれたのは師匠連中。連中なんて言っては失礼ですな。そして、収穫して、醤油や油に漬けてくれたのは、本日御来訪のお二方である。私がしたことと言えば、水遣りぐらいのものですからね。しかも、本日は豆腐や麺麭、菜っ葉の類まで御持参戴いている。私はへらへらとワインを見繕うばかり。見繕うったって、色々と在庫豊富に取り揃えている訳ではないし、そもそも、ラベルを見て云々するような知識などない。つまり、見繕うとい言っても、赤が良いだろうか白が良いだろうか、という程度のことでしかない。魚の形をした瓶のワインがあったと思うのだけれど……などと、ぼんやりしている間に、手筈が整ったようである。ワインはどれでも良いから、兎に角、食べ始めましょうよ、と。
 先ずは、小皿に垂らしたハバネロ・オリーブ・オイルにフランス麺麭を浸して齧ってみる。三人ともおっかなびっくりである。何しろ、敵さんは世界で一番辛いというセニョール・ハバネロ様なのである。しかし、意外なことに、然して辛くはない。そして、独特の芳香が漂う。一口ずつ頬張って、三人で顔を見合わせる。たいして辛くないね、と円嬢。師匠はただにんまり。次はたっぷりと浸して食す。結構である。油に浸した麺麭を肴にワインをやるというのは、何だか変な感じがしなくもないのだけれど、これが抜群なのである。このままどんどん続けたい気持ちもあったけれど、各々が麺麭一切れを片付けたところで、次に移る。
 豆腐。ハバネロ醤油をスプーンで掬ってかける。小心者の私は、ほんの、ほんの少しばかりをかけて。ほほぅ。やはり、独特の香りが立っている。そして、中々に辛い。倒れる程ではないけれどね。そんなことを思っている眼前で、師匠が悶絶。円嬢はそれを眺めてけたけた笑う。妙な図である。そう言や、師匠は長葱の刻んだのをかけるときと同様の勢いで、ハバネロの実をたっぷり載せてましたからね。はは、まあ、自業自得。これも素晴らしき体験の一部というものでしょう。
 ああだこうだと盛り上がり、その後も呑み続けてから、日暮れ間近に解散。最後の頃には、師匠は相当に呑み過ごしたのか、何を言っているのだか判らぬ有り様でしたけれど、その笑顔から、楽しく美味しい時間を過ごしたことだけは、はっきりと見て取れましたよ。
 それにしても、オリーブ・オイルと醤油との間で辛さにこんなにも違いがあるというのは、不思議ですなあ。ふふ、何にせよ、美味かったね。あれ、何だか、唇の周りが痛痒くなってきた。大丈夫かね。へへ。

投稿者 nasuhiko : 18:48 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月27日

iconハバネロ40


 田村師匠が本日も来訪下さった。今日は円嬢も御一緒である。何用かというと、円嬢が手作りのオリーブ・オイルを持ってきて下さったのである。実に有り難いことであります。
 どんな代物かというとですな、オリーブ・オイルの中に、細切りにしたハバネロと大蒜を放り込んだものだという。黄色っぽい油の中に、橙と緑のハバネロ、そして、白い大蒜。縁先で光に翳すと、これが、何とも美しい。早速、蓋を開けて匂いを嗅いでみるけれど、想像に反して、強烈な匂いはしない。それぞれに個性的な匂いの集まりの筈なんだけれどね。兎にも角にも、早速、戴きましょう、と申し上げると、昨日同様、未だ漬かってないから待ちなさい、と窘められる。ははは、七十を疾くに越したじじいが小娘に叱られておる。いや、小娘とは失言である。立派な御令嬢様を捉まへて、小娘だなんぞとは言語道断。失言、失言、撤回します。
 兎にも角にも、掌にぽたりと一滴落として舐めてみる。予想したほど辛くはないし、しかも、匂いも強くはない。これから漬かっていくうちに変わるのだろうけれどね。

 円嬢御持参の元ちとせというお嬢さんのCDを聴きながら、三人でのんびりと澤乃井を酌み交わし、ああ、何とも快適な午後ではないか。お二人は、小一時間ほどで帰られたけれど、私は、水色のCD赤いCDを取っ換え引っ換えしながら、猶も、杯を重ねる。

 新涼に 杯交わす 友在りて

投稿者 nasuhiko : 18:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月26日

iconハバネロ39


 午後になって、田村師匠御来訪。昨日の収穫の成果をお届け戴いた次第。実に有り難いことであります。
 で、それがどんな代物かと申しますと、あれですな、要するに、ハバネロの醤油漬けなのであります。御説明戴いたところによると、ハバネロの実を二つに切って、種を取り除き、千切りみたようにして、醤油に放り込んだだけだということのようです。こう、何というか、難しい作業がないだけに、味がそれとなく想像できるような気がして、説明を聞いているだけで、唾が出てきたりしてね。中を覗いて、匂いを嗅ぐと、やはり、普通の唐辛子とは違う香りですね。尤も、私の使い古した鼻では精密に匂いを嗅ぎ分けるなんざ、無理な話ですから、何となく、そんな気がするだけかもしれない。いや、でも、今、嗅いでみても、やはり独特な香りがします。
 折角だから、ハバネロ醤油を舐めながら、澤乃井でも一杯やりましょうよ、と申し上げたのだけれど、未だ、十分に漬かっていないから、二、三日待ちましょう、とおっしゃられる。実が生ってから何日経っただろうか。兎にも角にも、既に、何日も何日も十二分に待っている訳であるから、更に数日追加したところでどうということはない。とは思うものの、目の前にあると、気になって仕方がない。取り敢えず、ということで、小匙に一杯だけ小皿に掬い出し、人差し指を浸して舐めてみました。思ったほど、辛くないですな。世界で一番辛い唐辛子だなんていうから、びくびくしながら舐めたもので、少々拍子抜け。ついでに、一切れ、橙色の実を食してみました。辛い。確かに、辛い。ひりひりする。けれども、それにしたって、眼ん球が飛び出るてえ程でもないですな。いや、でも、ああ、涙は出てきます。ええ、汗も出てきます。それに、段々、唇が痛くなってきたりもしました。あれこれ言っているけれど、とどのつまりは、普通のものよりはるかに辛いのですな。もう少し漬かっていくと、これがどのように変わっていくのだろう。楽しみである。それにしても、ハバネロ醤油を舐めながらやる澤乃井てえのが素晴らしい。大変結構な組み合わせ。病みつきになりそうであります。

 そうそう、師匠によると、種を取った時に爪の透き間に激烈な痛みを感じて、暫く取れなかったそうであります。矢張り、種が一番辛い、というのは本当なのでしょうな。みなさんもハバネロをどうにかする際には、御注意召されたい。尤も、そんなことする人は多くはいらっしゃらないだろうけれど。

投稿者 nasuhiko : 18:28 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月17日

iconウィンナー珈琲を自作


 昼過ぎに大師匠御来訪。忙しくて忙しくて忙しくて、カレーを作る時間が取れず申し訳ない、というようなことを、例によって、宇宙人ならどうだとかいう妙ちきりんな喩えを織り交ぜながら、玄関先で一騒ぎ。まあ、話は散乱しながらも、要するに、もう少し待ってくれ、とのことでありました。勿論、お待ち致しますよ。というより、それしか法はないのであります。何しろ、私には、あのような本格的なカレーなど作れる筈もなく、また、ハバネロを自力で何とかしてみようなどという勇気もアイディアもないのである。珈琲でも飲みながら、のんびりお待ち下さい、と豆を頂戴した。ラベルを見ると、大師匠のオリジナル・ブレンドとなっている。一体、あの人てえ者は、本当は何をしている人なのでしょうな。もしかして、珈琲豆屋さんもやっていらっしゃるのだろうか。
 折角だから、と近所のスーパーまで買い物に出て、店員のお嬢さんに教えて戴き、フレッシュクリームというものを仕入れてきました。そして、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる掻き混ぜて、生クリームみたようなものを拵えた。どうだね。なかなか、私てえ人間も根気がある。捨てたものでもないね。そして、珈琲を淹れて、砂糖を三杯も溶かし、その上に、先程のクリーム状のものをぼわんと載せる。はは、大したもんだ。自家製ウィンナー珈琲ですよ。ふふふ。あの喫茶店を思い出しますなあ。散歩の途中で、マリと一緒に一休み。ウィンナー珈琲や本日のストレートというものを飲んだものです。小腹が減っている時なんぞには、フレンチ・トーストを頼んだりしてね。大抵は柔らかいジャズがかかっていましたよ。そうそう、髭のマスターに、今かかっているのは何ですか、などと質問して、レコードの名前を教えてもらったりしてね。其の侭、帰り道にレコード屋さんによって購入し、家に帰って、二人して聴いてみるということも幾度かありました。探してみたら、いくつもそんなアルバムが見つかったけれど、今日はアントニオ・カルロス・ジョビンの『』を聴いております。これはジャズとは言わないのだろうけれどね。懐かしいですな。音楽が懐かしいというより、この音楽とウィンナー珈琲から喚起される様々な思い出がね。何とも、ね。

投稿者 nasuhiko : 18:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月15日

icon


 連想ゲーム。そんな番組が昔ありましたな。
 柿という言葉から、何を連想するかというと、まあ、勿論、第一に、熟した朱色の柿の実であります。あとは、干し柿てえものもありますな。そうそう、柿茶というものが躰に良いてんで、どなたかに勧められたこともあったね。あの、味気ないやつ。あとは、何だろう。ああ、いつぞやは、日比野くんに柿のゼリーみたようなものを頂戴した。銀座のあけぼののだったかね。上品で抑制の効いた結構なお味でしたよ。籠も渋い色合いでね。何というか、柿色の年季が入って枯れたような、きれいな色だね。あの籠は何かに使いたい。そうは言っても、その侭、埃を被って何年も放ったらかしになる、と。
 そうだ。未だありますよ。柿の葉寿司てえものがある。あれも美味いですなあ。隣の駅の地下で売っている。散歩が行き過ぎて、帰りは電車で帰ろうてんで、乗ったりすると遭遇する。すると、ついつい買ってしまいます。柿の葉で包むなんざ気が利いているね。ああいう、押し寿司の類は、何だか独特の雰囲気がありますな。未だに、京都の商店街の中の寿司屋で喰ったのを思い出しますよ。下駄みたいな板の上に乗っかって出てきてね。あれが、お店で食べた押し寿司の最初で最後。東京にもああいうお店はあるのですかね。よく判らない。
 押し寿司もうまいけれど、江戸前の寿司てえものは、これは、もう美味い。ちっちゃい頃から慣れ親しんでおるし、小食ですから、ちょいとつまみながら呑みたいてえ口の私には最適である。もっとも、店によって随分と差があるけれどね。幸い、南にずるずると下った、そう遠くはないところに、大変素晴らしい店がある。あすこは実に美味いね。ああ、最近食べてませんなあ。尤も、もう少し涼しくなってからの方が良いですな。今日辺り、大分涼しくなったけれど、どうだい、鮨でもつまみに行くかい、ってなほどではない。暑いときには寿司というのは変な気がするけれど、考えてみれば、お寿司屋さんは夏でも営業している訳であるからして、暑いからといって遠慮するのは私だけなのだろうか。
 ああ、話が逸れました。柿の話だったんだけれどね。まあ、何を書いたって良いんだけれど、自分でこうと思って書き始めても、どんどんどこどこ脇へ行っちまうっていうのは、あれですか、矢張り、私という人間が行き当たりばったりの、その場その場をうろうろするばかりの、しだらのない者だからだろうかねえ。

 青柿の落ちて潰れて鳥のもの

投稿者 nasuhiko : 19:02 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月30日

icon中華的


 「ネコとハチミツ」さんのところで、中華料理話を読んでから、近頃、ふとした瞬間に中華料理を食べたいなあ、と思うことがある。そうは思うのだけれど、一人で中華料理というのは如何にも味気ない。然りとて、一緒に食事に出かけようなどという知り合いも現れず、思うに留まっている訳である。しかし、本日、良いことを思い出しました。中華的な素麺の食し方というのを習ったのが突然思い出されたのであります。こういう脳の働きというのは不思議ですなあ。ごちゃごちゃにこんがらがっているぽんこつ脳みその片隅に埋もれていた記憶が、何かの拍子に表面にぷかりと浮かび出る。この老い耄れの記憶力てえものも、未だ未だ捨てたものじゃないね、などと、自画自賛。莫迦である。
 さて、それで、思い出した素麺の食し方ですけれどね、然程、手間がかかるものではない。大蒜を下ろし、生姜と長葱を千切りにする。作業はこれだけであります。それでですな、通常の素麺の汁にごま油を一滴二滴足らした上で、先に用意した薬味を適宜加えながら戴くだけであります。これがね、美味いのですなあ。まあ、本当に、中華なのかと言えば、そりゃ違う。これは、飽くまでも、中華っぽい感じの素麺なのである。けれども、この中華的な、という程度の、中華さ加減も結構なものである。何しろ、美味いんだから、細かいことはどうでも宜しい。中華という看板抜きにして、純粋に堪能致しました。これからも偶に思い出すことにしよう。
 この食し方を誰に教わったのかが思い出せないのだけれど、私に教えてくれた人物はお坊さんから教わった、と言っていたということだけは覚えております。本当に頭の中の仕組みというのは不可思議なものですなあ。教えてくれた御当人を思い出せもしないのに、大本がお坊さんだということは覚えているなんて。それにしても、誰に教わったのでしょうなあ。あんまり美味しかったもので、お礼を申し上げたいのだけれどね。

投稿者 nasuhiko : 19:07 | コメント (2) | トラックバック

あ、簡単で美味しそうですねぇ。
夏ももう残り僅かですが、そうめんはまだあるので
明日のお昼にでも作ってみようかと思います♪

投稿者 keico : 2005年08月30日 21:46

 大変おいしいですぞ。是非是非、お試し下さい。ごま油を垂らし過ぎないが宜しかろう、と思われます。私なんざ、助言できるような身分ではありませんけれど。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月31日 19:52

2005年08月20日

icon呑み過ぎたけれど2


 何たることか。またもや大幅に大幅に呑み過ぎてしまった昨晩。ううむ。愚かなり。嗚呼、愚かなり。
 昨日は、夕刻から一人で盃を傾けた。日比野さんが見えた時に、氷を脇から入れて冷やす硝子の酒器や、硝子の猪口を出し、つまみも、何の工夫もないけれど、少しは形の良い皿に載せた。まあ、どうということでもないのだけれど、普段に比べると大きな違い。普段は、一升瓶から直に、湯呑みに近いほどの大きなぐい呑みにざぶざぶと注いで呑む、という有り様。つまみにしたって、平生なら、そんなにいくつも用意はしないものだから、手近の皿にざざっと雑に載せるだけである。まあ、何というのか、言ってみれば、味気ない。まあ、この素っ気なさも年寄りの一人暮らしの味だと言えば言えないこともないのだけれど、考えてみれば、それほど大した手間がかかる訳ではないのだから、せめて、この能登のつまみがあるうちぐらいは、きちんと見てくれのことも考えて呑もうではないか、という気になったのであります。
 実際の話、どの皿にどのように盛り付けようとも、中味は同じ訳であるから、味が変わる訳ではない。当たり前である。けれども、気分は変わる。この度、改めて、気分も美味の一つの要素であるなあ、と感じた次第。日頃があまりに雑ですからね。余計にそう感じたということもあるでしょう。ちょいと、小皿に小奇麗に……小奇麗なつもりで……盛り付けるだけで、美味さが違うのなら、その手間を惜しむことはない。尤も、これにも弱点がないこともない。美味しいものでね、ついつい呑み過ぎてしまう、という。はは、馬鹿である。呑み過ごしたのを、肴の所為にしているなんざ、笑止千万。こんな歳になっても、未だ適量が判らぬ上に、肴に濡れ衣を着せるとは、全く以て、情けないことこの上ない。往生際の悪いじじいである。

投稿者 nasuhiko : 17:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月18日

icon呑み過ぎたけれど


 昨日はどろんどろんに泥酔してしまった。不思議なことに、本日は大した宿酔にはなっていないのだけれど、いやあ、呑みましたなあ。途中からさっぱり記憶がないのだけれど、それでも楽しかったという気分だけは残っている。ありがたい。
 未だ私が勤めていた時分の知り合いの方で、年に一度か二年に一度か、兎にも角にも、忘れた頃に、ご訪問下さる。その都度、何かしら、美味しいものをぶら下げてきていただいてね。はは、先方も嫌いじゃないですからね、座るとすぐに、ひとつ、傾け始める。
 暫く振りに呑む上善如水は、正しく清らかな水の如き滑らかさで、すいすいすいすい胃の腑に流れ込んでいった。硝子製の、脇の凹んだ所に氷を入れて、見た目も中味も涼しくなるという、お気に入りの徳利というのか酒器というのか、でね。猪口も青い硝子製ですよ。うちにも気の利いたものがない訳ではないのである。はは、自慢ですか。自慢するほどのものでもないんだけれどね。しかし、この組み合わせは、夏の来客時には大きに重宝するのであります。
 御持たせになるけれど……って、日比野さんが見えるときはたいていそうなんだけれど、昨日のつまみも美味かったですなあ。海胆鮑と蛸の塩辛、それに山葵青海苔と来たもんだ。何でも、能登の珍味だとかいうことである。これがどれも美味いのですよ。驚きました。ちょいと山葵青海苔があまりにも鮮やかな緑色過ぎるのが不思議な感じがしましたけれど、味は素晴らしい。どんな味を想像されますか。私は最初、どちらかというと塩っ気の強い味を想像したのだけれど、これが案に相違して、甘味が強いのであります。しかし、これが、何とも酒に合う。次は、蛸の塩辛ですよ。塩分控えめでね。烏賊好きの人はどうか知らないけれど、蛸の少しだけこりっとした感じが良いですな。そして、海胆鮑ですよ。独特の深みがあってね。また酒が進んでしまう。このつまみを順番にちょびっとずつつまんでいるうちに、気がつけば、上善如水は空いちまっていた。一人頭五合ずつですか。まあ、そのぐらいは呑んだでしょうな。考えてみれば、私は注がれてばかりだったからね、六合、あるいは、七合ぐらい呑んでしまったかもしれない。ああ、よくぞ二日酔いにならなかったものですな。酒が良かったのか、つまみがよかったのか、相手が良かったのか。孰れにしても、楽しくたっぷり呑んで、翌日も元気なんだから、言うことはない。
 上善如水は干したけれど、つまみ類は未だ冷蔵庫に入っております。ふふ、本日は、普段通りの澤乃井できゅきゅっといきますよ。

投稿者 nasuhiko : 16:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月14日

iconイメージバトンなるもの

 「ゆきのブログ」さんからイメージバトンとういものを頂戴した。バトンというのは、リレーのあれですな。イメージという方はこの場合、何なのか、判然としない。兎にも角にも、バトンを渡されたら、のろまながらも私とて走ろうではないか、というか、メンバーの一員として頑張ろうではないか、という気になる。問題は、仕組みを理解していない、ということであります。仕組みを理解していないまま、闇雲に行動して、余所様に迷惑をおかけしまいか、ということが心配なのである。さらに問題なのは、私のこのブログを読んで頂いており、なおかつ、ブログを書かれている方に繋げなければならないということですよ。もし、私の理解があっているならば、そういうことである。ううむ。

「マイブーム〜いま自分の中で流行っていることは?」
 戴いたのは、こういう御質問である。じっくり考えてみると、あれですな、私てえ人間は実に飽きっぽいということがよく判ります。ピアノだの、落語だの、将棋だの、詩だの、韓国料理だの、ハバネロだの、デジタルの写真だの、と、あれこれと調子に乗って一頻り騒ぐのだけれど、暫くすると、まあ、何ですよ、一段落する、と言いますかね。尤も、すっかり忘れてしまうということでもなく、また思い出したように盛り上がったりすることもあるけれど、直に他のことに目が移る。いい歳をして落ち着きがないと情けなく思う反面、こんな雑な性格のままどうにか長い年月やってこられたものであるなあ、と自ら感心したりもする。馬鹿である。
 さて、ぼそぼそと愚痴を溢していても限りがないので、今、この瞬間に私の中で流行っていることというのを考えます。ううむ、難しいところだけれど、敢えて挙げるなら、ヒラリー・ハーン嬢ですかね。彼女がどのように天才なのかということは私の如き素人には判る筈もないけれど、兎にも角にも、聴いていて気持ちが良いのである。だんだんCDも揃ってきました。畳の上に寝転がって、遠めの扇風機の風を浴び、ヒラリーちゃんのCDを聴きながら昼寝するのが、今の一番の楽しみであります。尤も、これだって、いつ飽きちまうか、判りませんけれどね。

 さて、今度はバトンを渡すということを考えるのだけれど、私のブログをどなたが読んでいらっしゃるかは全く判らないのであります。もしかすると、読んで下さっているかもしれない、という幽かな期待を込めて、「甘くて苦いチョコレートな日々」のMalyrineさん、「ネコとハチミツ」のkeicoさん、如何でございましょう。仕組みも判らないまま、こんなことをお願いしていますけれど。お二方にどうやってお教えすれば良いのだろうか。他の方でも、バトンを受け取って引き継いで下さる方がいらっしゃいましたら、宜しくお願い致します。
 ああ、そうでした。題は「この夏、これはおいしかったなあ」というので如何でしょうか。ちなみに、私は、行者大蒜というのを冷や奴の上にのせたのをつまみながらやる澤乃井がこの夏の一番であります。ああ、よく考えたら、これこそが、今の私の中の流行だったのかもしれない。

 訳も判らずずるずる書いていたら、無駄に長くなってしまいました。

投稿者 nasuhiko : 21:54 | コメント (5) | トラックバック

誠に光栄至極にございます。若輩者ではございますが、
謹んでお受けいたします。
冷奴に行者大蒜を肴に美味しいお酒を召し上がっていただいて、
しばしお待ちを。

投稿者 Malyrine [TypeKey Profile Page] : 2005年08月15日 12:25

 判然としないまま、お願いしてしまいました。何卒、宜しくお願い致します。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月15日 17:36

今日も楽しく読ませていただきました!
ヒラリー・ハーン...
ぜひCDのところに飛ぶようにリンクをはってください!
まってます。

投稿者 yuki : 2005年08月16日 23:18

茄子彦さま

バトンを送っていただき、恐縮でございます。
今月は何かと忙しく、ろくにブログを更新する時間もないのですが、
せっかく茄子彦さまからのバトンなので、近々書こうと思っております。
もう少しお時間下さいませ。ではでは。

投稿者 keico : 2005年08月17日 21:05

 未だイメージ・バトンというのがどういうものなのか、よく判っておりません。それなのに、厚かましくお願い致しまして、恐縮千万。

 御多忙の由、御無理でない折に、宜しくお願い致します。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月18日 11:12

icon米を呑む


 ここのところずっと米を喰っていない。もともと、あまり米は炊かない私である。元来、痩せ形で、当然、食も決して太い方ではなかったけれど、近頃じゃ、それに拍車がかかっている。まあ、今更、成長する訳じゃなし、近所を一回りするぐらいが関の山で、運動らしい運動をする訳ではないのであるからして、そんなに栄養を摂取する必要などないしね。兎にも角にも、ご飯を炊くということは滅多にない。夏めいてきてからは、一度も炊いていませんな。遡って考えると、梅雨の頃にも炊いた記憶はない。最後に米を炊いたのはいつだったろうか。米炊き日記でも付けておけば、面白いかもしれない。今日は、二百二十五日振りにご飯を炊いた、なんぞとね。米が嫌いな訳ではないけれど、一人だとどうも炊く気がしないのは私ばかりではないと思うのだけれど、世間の一人暮らしのみなさんはどうしておられるのだろう。不思議である。私の場合は、白い米は食べていないけれど、透明な澤乃井という米を殆ど毎日摂取しておりますからね。存外、米の消費量としては少なくないのではないか、という気もする。また、こんな馬鹿なことを言っている。
 米を喰わずして何を食すのかというと、そりゃ、麺類か豆腐である。素麺や蕎麦の買い置きは欠かさない。蕎麦つゆだって、出来合いのものを常備している。尤も、気が向けば、蕎麦つゆを作るのですよ、私も。しかし、これがね、なかなか難しい。結構、美味いね、というものができることも偶にあるけれどね。上手くいったときでも、出来合いのものとおっつかっつというところ。到底、福寿庵には敵わない。先方は専門家だから当たり前のことだけれどね。
 蕎麦と素麺と豆腐、偶に饂飩、などという食生活で、よく飽きませんね、と言われることがあるけれど、あなた、そんなことを言ったら、私は澤乃井にはもっと飽きたことがないですよ。そして、今後も飽きそうにありません。日本のあちらこちらに酒造があり、いろいろなお酒があるのだから、中には澤乃井よりも旨いというものだって、ないとは限らないけれど、何というのか、長年の付き合いなもので、すっかり口に馴染んでいるから、結局、いつも澤乃井に帰ってきてしまう。そんなものですよ。

 夏の宵 米を呑み干すほどに酔い

投稿者 nasuhiko : 19:01 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月10日

icon男はつらいよ03


 昨晩は『男はつらいよ』の第二作がちゃんと放送されました。NHKてえところも、少しは気が利くようである。第二作の放送予定日に小泉の傲慢騒ぎで中止になってしまった。さて、では、全四十八作を見ようかという気になっている私は、第二作目を諦めて、第三作目を見なければならんのか、と気に病んでいたのだけれど、きちんと第二作が放送されました。はは、結構、結構。折角なら、順番通りに見たいもの。
 早い時間から呑むと、肝心の結末の辺りで、眠くなったり、酔っ払って訳が判らなくなってしまいかねないてんで、寅さんのある日は、放送が近づくまで呑み始めないことに決めました。そんなに酒を呑む時間を調整してまで、見たいのかね、と問われたならば、まあ、そんなこともないんだけどね、と答えるであろう。実際、まあ、そんなに熱心に執心している訳ではない。飽きっぽい私のことですから、最初のうちだけのことでありましょう。

 そう言えば、先日、占然菜なるものを知人から頂戴したのだけれど、これが恐ろしく美味いのである。何でも、行者大蒜というものを刻んで漬け込んだもののようなんだけれど、辛過ぎることもなく、くどくもなく、かといって、あっさりしすぎりということもなく、しっかり味はついている。そうだ。胡瓜があるから、もろきゅうみたようにしてつまみにする、と。そいでもって、澤乃井をきゅうっとやりながら、寅さんといきますか。ふふ。腰を据えて呑んで眺めるためには、今のうちにちゃちゃんと準備をしとかないといけませんな。

投稿者 nasuhiko : 21:39 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月04日

icon朋来たる


 数日前、良次郎君からお中元が届いた。五色そばという奈良の蕎麦で、少々澄ましたような風の代物である。彼のことだから、美味い物をみつけてきてくれたのだろう、と思っていたのだけれど、ここのところ、酷い宿酔が続いていたもので、未だ食すには至っていなかった。今日辺り、やっつけますか、と思ってたところ、昼前に、御本人御来訪。
 腰を下ろした途端に「さて、喰いますか」と宣う。お中元を贈っておいて、届いた頃合いに現れて、さて、喰いますか、てんだから、気が利いている。憎めないねえ。こういうことは、やる人によっちゃあ、何だい、野郎は全くずうずうしいね、なんて、顰蹙を買うことだって少なくないだろうけれど、本日の場合、寧ろ、何だか楽しいような気さえしてくるから、不思議である。これもある種の人徳かしら。
 先ずは梅蕎麦というのを茹でてみる。これが良いのですよ。何というのか、品があるというのか、奥床しいというのか、喉の奥に仄かに香りが花開くような具合。これ見よがしに、さあさあ梅の香りだぞ、と、主張の激しいものとは異なり、飽くまでも、蕎麦が主役であって、梅は優雅な彩りを担当するというような風ですか。付いてきた蕎麦つゆも、甘過ぎず、宜しい。大師匠に頂いた醤油屋の蕎麦つゆと似ている。いいね、いいねえ、と言い交わしながら、すぐに平らげてしまったので、続いて、山芋蕎麦といきました。これはこれで、良いですなあ。こちらもくどくないね、というより、かなりあっさりしている。少々茹でが足りなかったね。固いや。まあ、しかし、これもこれで美味い。ふうむ、それにしても、奈良の蕎麦とは意外である。何となく、蕎麦というの、信州とかね、そんなところが思い浮ぶものだけれど、奈良とはね。しかも、美味いんだから、びっくりした。
 見た目以上に量が多くて、山芋蕎麦は食べ切れなかった。二人とも腹がくちくて、澤乃井を一口二口舐めるのが精一杯。そうだ。そう言えば、水の検査の件はどうだったのだろう。本当に蒲田の水は不味いのだろうか。尋ねたところ、そのまま忘れている、という。悪びれずにこう言うんだからとぼけた人だね、どうも。検査セットには賞味期限のようなものがあったような気がするけれど、どうだったかねえ。

 良次郎君は、食後程なく帰っていったけれど、相変わらず、忙しく飛び回っているようである。彼だとて、若い若いと言っても、そろそろ七十を超えたのではなかろうか。近頃のじじいは元気ですなあ。私も少し見習わなくてはいけませんな。いや、見習わなくてもいいかね。

投稿者 nasuhiko : 17:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月14日

icon素麺


 蒸しますな。まあ、それが日本という国の六月なのであって、今に始まったことではない。こんなことを何十年と繰り返しているのである。恐らく、私の生まれる前だって似たようなものであった筈だから、何百年、あるいは、何千年、と、この蒸す季節がやってきているのでありましょう。
 こう蒸してくると、そろそろ素麺の季節かね、と思いますな。素麺にも色々あれど、揖保乃糸が好きな私である。というより、揖保乃糸以外には満足できる素麺に出合ったことがない。尤も、素麺食べ歩き日本縦断などということを試みた経験がある訳ではないし、第一、店屋に入ると蕎麦を頼みますからね。考えてみると、私の素麺経験なんざ高が知れている。不思議なことに、お中元にいただくのも揖保乃糸ばかりだからね。自ずと、揖保乃糸ばかりを何十年も喰い続けている。偶に、他の気取った素麺が届くようなこともありますな。そういうことが近年増えている。各地の名産の類が、日本中を飛び交っているのでありましょう。これもインターネットのお蔭だろうか。そうかもしれない。まあ、インターネットはどうでも良いのだけれど、そういう、格別の素麺といものをお贈りいただけば、揖保乃糸一筋の私とて食べてみますよ。そりゃそうだ。そして、実際、往々にして美味いのでありますな。みんな、美味い。大変美味い。けれども、麺のしこしこつるりとした感触がないのであります。その点、揖保乃糸が優れている。これは比較にならない程であります。もし、あれ以上のものがあれば、是非、お教え戴きたい。
 ところで、素麺といのは何故品書きに載らないことが多いのだろうか。夏になれば、冷や麦だの、冷やし狸だのを追加する蕎麦屋は多いし、中には、蕎麦屋の癖して冷やし中華を出すような不可思議な店さえある。けれども、素麺を出すところは存外少ないのではないか。その所為ですかね、素麺は家庭で食べるもの、という印象が強い。それに、素麺は何故か晩飯に食す気にはなれませんな。おかしな話だ。蕎麦なら良い。けれども、どうも、素麺だと宜しくない。そうそう、素麺だと酒を呑みたくならないのも不思議でありますなあ。蕎麦なら、澤乃井をきゅうっといきますか、と、極々自然の流れであるのにね。こう考えてみると、素麺てえものは、意外に頑な食べ物なのかもしれませんなあ。

投稿者 nasuhiko : 18:12 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月12日

iconパン焼き器2


 昨晩は調子に乗って、三枚も焼いた。せっせとパンを入れていったとこころ、件の道具の収容枚数は三枚だったという訳である。けれども、私の胃袋の収容枚数は然程大きくない訳で、迚もじゃないが、そんなにパンばかり喰えたものではない。一枚を食べ終わり、二枚目を齧り始めたところでうんざりして、殆ど丸々二枚を残してしまった。こんな歳になっても、自分の腹の容量さえ正しく見積もれないなんざ、何ともみともない話である。それに、食べ物を残すのは気分が良くない。気分が良くないけれども、満腹以上に喰う苦しみを味わいたくもない。結局、今朝になって、庭に放り投げることになる。そうすると、どこからともなく、鳩がやって来るのですよ。椋鳥もやって来る。雀だってやって来る。連中は、パンを好きですな。バターやジャムが塗ってあってもお構いなしである。もしかしたら、その方が好きである可能性だってある。何はともあれ、無駄にならずに良かった。急いで喰い給えよ。のろくさしていると、ちび猫がやって来て、君らの安全を脅かすことになるぞよ、と、御忠告申し上げるが、まあ、ねえ、相手は鳥ですから、此方人等の気持ちなんざ、通じる風ではない。
 しかし、あれだね。暫く振りに食べるパンは意外に美味いね。バターの塩っ気と苺ジャムの甘味の組み合わせというのは良くできている。塩梅が大事だけれどね。ああ、そうだ。珈琲も買ってくれば良かった。抜かりました。それとも、紅茶かね。いや、珈琲だね。マリは珈琲を好きでしたねえ。バターを付けたパンも、お構いなしに、珈琲の中にどぼりと浸して食しておりました。最初は妙に思えたものだが、今となっては懐かしいこと限りなし。嗚呼、珈琲を買ってこよう。

投稿者 nasuhiko : 17:49 | コメント (2) | トラックバック

先日はコメントにお返事をいただきまして,恐れ入ります。
ときに,お写真もご自身でとられているのですか?
昨日のお写真,パン焼き器(きっとオーブントースターのことでしょうね)なんて見慣れているはずなのに,
こんなにおもしろいものだったかしら,と驚いてしまいました。
アングルがいいのでしょうね,とても印象深いものが多くあります。
それにしても,イマドキの“枯れ木”は,ブログを操作できたり,デジカメも駆使したりできるのですね。
感心しきりです(こういうのは年齢ではないのかもしれませんね)。
お天気よくなりますように(当地は雨が降っております)。

投稿者 むじな : 2005年06月12日 19:04

 写真も自分で撮っております。毎日毎日たくさんたくさん撮っております。

 私がこんなことをあれこれとできているのは、一にも二にも若き師匠の御指導と御助力の賜物であります。有り難い話であります。
 それから、他に理由を求めるならば、三年前の白内障の手術のお蔭でもあります。レンズを新品に交換したようなものですから、よく見える。色がきれいに見える。これは素晴らしいことです。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年06月13日 18:19

2005年05月22日

iconハバネロ12


 ハバネロの収穫はいつなんでしょうな。収穫があれば、是田大師匠がカレーをお作りになるのでありましょうな。カレーだけでなく、ハバネロを使った唐辛子料理を次々と作られるであろうことは必定ですか。そうなると、この老い耄れも御相伴に与る可能性も大きにある訳で、ううむ、そう考えると、今から、唐辛子に慣れていかないといけません。そんなことを思って、獅子唐を買ってきましたよ。獅子唐だとて、唐辛子の仲間でござんしょう。偶に、途轍もなく辛い奴が混じっていたりしてね。まあ、そういうのに当たるのも悪くない。ひいひいひいひい、嗚呼、辛い、死んじまうよ……何てえ獅子唐だ、堪ったもんじゃない……なんぞと、悪口雑言を放り出して、涙を流したりしながらも、それでも、まだ食べ止めようとは思わない。次のは、大丈夫かね、なんて、どきどきしたりしてね。齧ってみて、辛くなかったら、ほっとするような、ちょっと残念なような……って、全く以て、莫迦なじじいである。
 兎にも角にも、買ってきた獅子唐を、網の上で炙ってですな、醤油にちょいとつけて抓むわけですよ。大師匠からいただいた醤油はこういう時には、絶大な効果がありますな。あの人は、妙な道楽者ですからね。旨いものを知っていらっしゃる。近藤醸造元だって、教えていただくまで知りませんでしたよ。すっとして、きっぱりとして、良い醤油だね。大したものだ。秋川だとかね、三多摩の奥の方の水は良いんでしょうな。そう言えば、澤乃井だってそうですよ。東京にだって、こんなに美味い酒、美味い醤油があるなんて、世間じゃ知らないかもしれませんな。獅子唐を炙りいの、醤油をつけえの、齧りいの、澤乃井をごくりいの、はは、どうにも御機嫌だね。

投稿者 nasuhiko : 18:41 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月21日

iconハバネロ11:育成法みつからず


 セニョールのお蔭で、また新しい知識を手に入れた。肝心要の正しい育成方法はみつけられないままだけれどね。それにしても、インターネットの世界にはいろいろなことが書いてありますな。あんまり、書いてあり過ぎて、何が何だか判らないことも屡々ある。あれですよ、本日の探索で発見したのは、唐辛子の摂取量の何とも驚くべき実態である。
 唐辛子を大量に摂取する国と言えば、当然のことながら、韓国を思い浮かべる老い耄れである。然り乍ら、日本にも七味だの一味だのてえものがある訳で、何だ彼んだ言っても、結構な量を摂取しているんじゃないかね、などと思っていた次第。実際、この枯木じじいにしたって、蕎麦や饂飩に唐辛子をばさばさ入れるし、キムチや明太子も結構な頻度で食している。焼き鳥にだって七味を掛けますよ。もっとも、塩の時には芥子ですけどね。大蒜味噌も良いね。嗚呼、焼き鳥が食べたくなってきました。焼き鳥で一杯きゅうっとね。涎が出てきた。だが、しかし、今はそんな話ではないのであります。
 どんな話かというと、日本人何ぞ、話にならん、ということですよ。いやあ、魂消ました。タイが世界一の摂取量を誇っているそうですが、なんと、日本の1500倍ですよ。韓国とインドがざっと日本の1000倍ほどである、と。何とも、まあ、恐ろしい話ではありませんか。私が死ぬ気で、普段の四倍の量の唐辛子を摂取するとして、それを毎日毎日、それこそ血反吐を吐きながら、胃に穴を開けながら、一年間続けたとして、漸く、タイの人の一日分の分量にしかならないのですぞ。余りにも差が大き過ぎて、実感がちいとも湧いてこない。正に想像を絶する状態である。タイの人たちというのは凄い人たちなのですね。全く以て恐れ入りました。
 私も唐辛子の摂取量を少しずつ増やしてみますかね。何がいいかね。ああ、そうだ。作り置きのコチュジャンで奴といきますか。あのコチュジャンは美味いからね。チョ先生に感謝せねばならん。そろそろ、こう暑くなってきたところで、あの本から、何か新しいものに挑戦しますかね。

投稿者 nasuhiko : 18:31 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月08日

icon男の料理14


 ここのところ、晴れる日が続き、日中はぽかぽかと暖かい陽気だったのに、昨日の夜半辺りから急激に寒くなった。忍び込む隙間風が矢鱈に冷たい。しかも、我が家の場合、相当に年季の入ったポンコツ家屋ゆえ、隙間風と呼ぶには、些か大胆に過ぎる勢いで風が吹き込んでくる。びゅーとかびゃーとか、そんな具合。糅てて加えて、本日は雨模様。冬の雨は冷たい。窓から眺める濡れそぼつ景色は、風情を一切感じさせず、脅迫的な寒さの気配に満ち満ちている。こうなると、少しぐらいの暖房では太刀打ちできるわけもなく、仕方なく、内側から暖めるしかないという仕儀。内からの暖房に必要な燃料は、電気でもガスでもなく、勿論、アルコールである。
 さて、本日は、何を呑もう、つまみはどうしようか、という段になり、ふと、最近、御無沙汰していた「納豆と豆腐のチゲ」のことを思い出す。冷蔵庫を漁ってみると、納豆もある、豆腐もある。大蒜もそこらに転がっている。久々にいってみますか。
 毎日のように頻々と作っていた頃にはすっかり暗記していたものだが、ちょいと間が開くとすっかり忘れてしまう。『作ってみたい・韓国料理の本』を引っ張り出してきて、はじまり、はじまり。
 いざ、始めてみると、ああ、そうだそうだ、てな具合で、流れが滞ることもなく、すすいのすい、てなものである。相変わらず、ズッキーニはないので、若布を入れよう。青唐辛子もないから、干涸びた赤唐辛子でかまやしない。寒さを吹き飛ばそうと、大蒜一カケのところ、二カケを奢ってみる。おまけに、日本酒もどぼどぼと追加してみた。なかなかの手際ではございませんか。自己流の工夫を入れてみたりして、ええっ、大した腕前じゃないか、と自画自賛。はは、暢気、暢気。暢気が一番。

 さて、味はどうかというと、これがまた美味い。流石に些か大蒜の匂いがが強過ぎ、納豆が一パックというんは少な過ぎた。とはいうものの抜群である。また、若布が合いますなあ。チョ先生、再販の際には、ズッキーニの代わりに若布を入れたレシピを載せるのも宜しいやもしれませぬぞ。皆さんも、是非、試されるべきです。この手軽さでこの味、正に驚異。
 それにしても、田苑が進みますなあ。大分、調子が出てきた。これだけ、中から暖めりゃ、ちっとやそっとの寒さなんざ、吹き飛ばせましょうとも。ほっほっほ、予は満足じゃ。

投稿者 nasuhiko : 17:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月22日

icon男の料理13


 昨日のは何がいけなかったのかがわかりましたぞ。胡瓜です。いや、そんなことは食してすぐにわかった。そういうことではない。胡瓜が瓜科の植物であるのに対して、意外や意外、ズッキーニてえやつは南瓜の一種だってえじゃありませんか。いやいや、人は見掛けに因らぬもの。お見逸れいたした。金輪際、「納豆と豆腐のチゲ」には胡瓜は入れませんよ。入れませんとも。
 復讐戦ということでもないが……そもそも、誰に復讐すればよいというのか……本日もまた挑戦する。昨日の過ちを糧にして、ズッキーニを買いに行った……りはしないのである。今回の工夫は若布である。これなら失敗のしようがあるまい。もっとも、昨日だって作り始めるときには同じことを呟いていたような気がするが……。
 チョ先生の本を見ずとも手順はすっかり頭の中にある。躰が覚えている、と言いたいところだが、正直なところ、まだそれほどではない。さて、出来栄えだが、どうだい、実に素晴らしい。今までのもの以上に美味いかもしれない。おまけに海藻の類は大変躰に良いとされている。もっとも、今更、健康に多少の気遣いをしたところでどうにかなるような状況ではない。此方人等、あっちゃこっちゃにがたが来ている、薬漬けのこんこんちきの老体で御座い。豊多摩郡に生まれ、もう直に豊多摩郡に死んでゆく身の上。好きなものを好きなだけ喰って、呑んで呑んで、呑んで呑んで、呑んで呑んで、楽しくいきましょうや。はは、暢気だね。さあ、今日も田苑をいただこうじゃありませんか。

風吹けど 寒さ知らざり 炬燵酒

投稿者 nasuhiko : 17:12 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月21日

icon男の料理12


 居住者同様に老化が激しい荒家ゆえ、あちらこちらから隙間風が入り込み、それを気にし始めると留処ない。肩口からすうすうと全身に寒気が走るようだ。こんな夜は、暖かいものを食べて、アルコールでエネルギーを補給して、とっとと寝てしまうに限る。
 あれこれ考えた末に、今日もまたチョ・カムヨン先生の「納豆と豆腐のチゲ」と参ります。毎日毎日喰っても飽きることのないほどのお気に入りとなっているけれど、そこに更に一工夫しようではないか、という豪儀。まあ、大した思いつきではないんですがね。ズッキーニの代わりに胡瓜を入れてみようという趣向。恐らく、ズッキーニてえものは西洋胡瓜みたようなものだろうから、うまくいかないわけがない。今や、手足れと言っても、強ち嘘とも言い切れない、という程度の腕前であると自負する奴吾。淀みなく作業は進み、あっという間に完成してしまった。ふふん。
 田苑をコップに注ぎ、コチュジャンを脇に用意して、早速、食しましたとも。これが、何というのか、ううむ、少々期待外れと言うべきなのか、あああ、言うべきなのであります。何だろうね。どうも薄ら水っぽいとでもいうのか、いや、参ったね。食感も落ち着かない。こんなことなら、却って胡瓜なんざ入れない方が良かった。決してまずいということではなく、寧ろ、美味い喰い物ではあるのだけれど、今まで食べていた胡瓜抜きのものの方がはるかに美味い。
 幸いにして、手元に昨日作ったコチュジャンがあるではないか。そうなのだ。コチュジャンがあるのである。早速、かなり多めに、そうさね、小匙山盛り一杯分ほども入れてみた。いやあ、美味い。急激に深みが出た。唸らざるを得ず。素晴らしい。飲み込んだ後に、口の中がひりひりするけれども、つらい辛さではなく、寧ろ、もう一口、もう一口、と病みつきなる類の辛さである。どっと汗が流れてきた。血行が良くなっている験だ。口の中が麻痺してきた感じがする。おお、それでも、箸は止められない。これが韓国料理の醍醐味ではないか。ううむ、嫌だね、とうとう目が回ってきたよ。
 それでは、みなさん、今宵は、こんなところでご機嫌よう、さようなら。

投稿者 nasuhiko : 21:34 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月20日

icon男の料理11


 田村師匠からいただいた、韓国の唐辛子ときび砂糖を使って、コチュジャンを作る。既に一度やったことがあるので、を眺めながらとはいえ、お茶の子さいさい、お手並みを御覧じろ、てなものである。主要な材料を放り込んでから、鍋を煮立て、掻き回し続けるのだが、驚いたことに、その際の香りが、前回とは全く異なるのである。ちゃんとした材料を用いればそれだけの効果があることは歴然。師匠への感謝の念を新たにする。それにしても、このきび砂糖というのは、黒砂糖とは違うのですかね。かなり似ているように思える。ぺろりと舐めてみても、黒砂糖とそっくりだ。黒砂糖をざっと精製したものなのかね。よくわからない。韓国唐辛子も舐めてみたが、こちらは辛さが少なく、前にみかけた甘口というやつなのかしらん。煮立て、掻き混ぜれば掻き混ぜるほどに、前にも増して、香ばしい、これだけで丼飯が喰えてしまいそうな、食欲を直截に刺激する匂い。
 出来上がったものは、以前とは比較にならない。やはり、きび砂糖というものを使用したのが大きいのだろう。大幅に甘味が増したし、何よりも、深みがある。辛さは控えめなので、微細な味わいがわかるようになったということもあるだろう。ぺろり、ぺろりと……これだけで立派なつまみになる。そうは言っても、それではあんまり。胡瓜をぶつ切りにして、出来立てほやほやのコチュジャンを塗って食す。美味いのお。ついでに、奴にもつけてみよう。こちらも美味い。素晴らしい。
 さて、腰を落ち着けますか。今宵は暫く振りに田苑といきましょう。ふふ、たまらんね。もう一杯、もう一杯と、重ねる杯。ああ、これは間違いなく一つの幸福の形である。

冬木に風 杯の月揺れる

投稿者 nasuhiko : 19:18 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月17日

icon男の料理09

 我ながら大満足していた、以前の作にコチュジャンがある。最近も、酒のつまみや何やかやと活躍していたのだが、何たることか、黴が生えてしまった。ううむ。参考にしておる書籍には夏場以外は常温保存でかまわん、というようなことが書かれていたのだけれど、それでも傷んでしまったのである。我が貧乏屋敷の室温は、どうも真夏並みに高かったということなのだろう。少々がっかりしたものの、さして難しいものではない、再度挑戦すれば良い。次回は韓国の甘口の唐辛子を使えば、以前よりも良いものが作れることだろう、と前向きに考える。今年は何だかあれもこれも前向きに考えられるなあ。もっとも、躁が高みに昇れば昇るほど鬱の沈みも激しくなるわけで、楽観してばかりもおられんのだが。
 黴のおかげというのも変な話だが、御無沙汰になりかけている韓国料理を再開しようという気になった。例によって、『韓国料理の本』をぱらぱらと捲る。家にあるものだけで事足りるものはないか、と眺めているが、都合が良く、かつ、本日の食欲に副うものが、なかなかみつからない。ズッキーニとは何ぞや。写真を見て思い出す。胡瓜と瓜の合の子みたようなやつだね。こんなものがなくてもかまやせんとて、五十五頁の「納豆と豆腐のチゲ」に挑戦する。ズッキーニ以外は全て揃っておるので、買い物に出る必要もない。
 いざ、調理に取り掛かると、これが頗る簡単なのである。呑み始めていたせいもあり、匙加減の如き些事は気にせず、ざっとざっとと、目分量で進める。ほんの二十分ほどの内に完成してしまった。寧ろ、呆気ない、というか、物足りないという気さえするほどでありました。しかしながら、掛かった時間の多寡が問題なのではない。問題なのは味なのである。して、その出来栄えだが、これが美味い。いや、驚きました。美味い。大変美味い。韓国料理なのだろうけれども、日本人の味覚にぴったりの味。こいつがおふくろの味てえものよ、と言ってしまっては、流石に大仰に過ぎる、というより、単なる嘘になってしまうけれど、日本的な美味さでありますぞ。いやあ、これだけ手軽でこれだけの美味。毎日食しても飽きそうにないし、文句の付けようがない。是非、是非、お試しあれ。いや、貴君も虜になりましょうぞ。身も心も温まること、請け合い申し上げる。

投稿者 nasuhiko : 19:56 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月17日

icon男の料理08

 コチュジャンに大満足、わかめスープにほぼ満足している私である。本日は、冬におすすめですと書かれている、大根の炒めナムルなるものに挑戦した。毎度お馴染み『作ってみたい・韓国料理の本』の十六頁。買ってくる必要があるのは大根だけで、残りのものは全て間に合っている。と思ったのだが、料理し始めてから、我が家には薄口醤油がないことに気づいた。まあ、色が濃くなったとしても美味ければそれで良い。濃口醤油のまま続行である。
 どの工程も特に難しいということはないのだけれど、最初の、大根を斜め薄切りにして千切りにする、というところに引っかかる。最終的に千切りにするのであれば、その家庭で斜め薄切りであろうが、通常の輪切りの薄切りであろうと、変わりがないように思うのだが、それは素人考えというものなのか。特別な解説がなされていないということは、もしかすると、これは料理界では常識の部類なのだろうか、と訝しむ。そうは言っても、ここで立ち止まっていては埒が明かない。この疑問は、誰か詳しい人に預けるとして、料理を続けた。わずか二十分ほどで完成したのだが、これがなかなかに美味い。私としては、少しく甘味と辛味が加わるとより一層美味くなるのではないかとも思うけれど、このくど過ぎない味は、酒を美味く呑ませるための秘訣かもしれないと思い至る。それにしても、大蒜とごまとごま油の香りが絶妙で、食欲を誘いますなあ。香りこそが韓国料理の神髄なのやもしれませぬ。
 なかなかのできに満足して、折角だから、と、田村師匠に電話してお誘い申し上げたが、本日はライヴハウスにて何かの活動がある、とのことで辞退されてしまった。誰かに食べさせたい、と思うあまり、『日和見』に持参する。

「どうです、私が作ったのですよ」
「あら、おいしいわね」にこりと即答する女将。それには営業用の微笑みが含まれていたのか否か。それは私には判らないし、一流の客というのはそういうことを判ろうとしてはいけないものである。素直に喜ぼうではないか。

投稿者 nasuhiko : 09:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月15日

icon男の料理07

 自家製コチュジャンに取り憑かれたかのような状態の私である。冷ややっこにつけてみたり、餃子につけてみたり、出来合いのサラダにつけてみたり、面倒くさくなれば、そのまま箸につけてぺろりとやって、田苑をぐびと呷る。ううむ、うまい。そして、辛い。実のところ、その辛さは少々度を越していて、少々過ごすと翌朝は厠で悶絶すること必至。『日和見』でそんな話を田村師匠としていたところ、おかみから助言があった。「甘口の唐辛子ってものがあるのよ」「甘口の唐辛子なんて、そんなばかな」「信じなくてもよくってよ」と畳み掛けられる。
 家に帰ると酔った頭ですぐさま検索である。今日もまたグーグル様々だ。「料理用唐辛子」なる代物がみつかった。そこには、確かに「甘口」と記載されている。ううむ、世の中にはまだまだ思いもよらないものがあるものである。次回はここで注文しようと、目印代わりにアフィリエイト。ふふふ、じじいも賢くなったものよ。

 さて、コチュジャンばかりでは料理の世界へ進出したとは言えるはずもないのは自明のこと。そこで、本日は「わかめのスープ」に挑戦した。例の『作ってみたい・韓国料理の本』の七十頁に載っている。こいつがまた頗る簡単なのである。材料もあっという間に揃う。いや、わかめを買ってきただけで、残りのものは元から我が家にあるものばかり。ここにあるぐらいだから、一般のどんな家庭にだってあるに違いない。しかも、実際の調理も気楽にこなせる、ほんの十分強か十五分か、孰れにしても、その程度である。コチュジャンに麻痺した舌には辛さと塩分が些か不足しているようにも感じられるが、味そのものはなかなかの出来である。酔い醒ましに最適に思える一杯となった。
 簡単でうまいものを次々に覚えられるなんざ、幸せな話である。チョ・カムヨンさん、どうもありがとう。今日も楽しく食させていただいておりますぞ。

投稿者 nasuhiko : 09:45 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月11日

icon男の料理06

 自家製コチュジャンは美味かった。田苑もまた美味かった。しかし、どうも、辛さが私の許容量をはるかに凌駕していたようで、朝から激しい下痢に苦しんでいる。上も辛けりゃ下も辛い。排便毎に地獄の苦しみである。調子に乗った私が悪いのだが、反省したところで、この苦しみが減じるわけではない。従って、反省するだけ無駄というもの。
 それにしても、韓国の人々は辛さに余程強いのだなあ、と感心頻り。ふと学生時分に覚えた枕詞の一つに「からくにの」というものがあったことを思い出す。広辞苑をぱらぱら捲ってみると、ありました。ありましたとも。「唐国の」あるいは「韓国の」と表記する枕詞で「辛く」にかかるとあります。古から「韓国」と「辛く」を掛けていたなんざ、面白い話ではありますまいか。勉強になります。

 夕刻、田村師匠が新しいデジタル・カメラを持って来訪下さった。早速、自家製コチュジャンと田苑で歓待する。
「やや、これを御自分で作られたのですか。いい香りですねえ。いただきます」暫しの沈黙ののち、「辛い。何とも辛い。けれども、うまいですねえ。良い味だ。癖になりそうです」早くも額から汗が流れ落ちる。私だけではなかったのである。早速、『作ってみたい・韓国料理の本』のコチュジャンの頁を見せて説明する。唐辛子が少なかったのでざっと四分の一の目算で作ったこと、きび砂糖がなかったのでただの上白糖を使用したこと、酔っぱらって後半は分量が適当になってしまったこと、などなど。「きび砂糖というものにすれば少しく香りやまろやかさが異なるのかもしれませんが、ないものはしかたがない」「そうですね。それにしても、辛い。そして、うまい」
 たわいもないやり取りをしているうちに、またもや泥酔してしまった。そして、また朝には厠で苦しむことであろう。全くもって愚かなる哉。

味わいて 留処なきかな 韓国の 辛くに浮かれ 泣く朝ぼらけ

投稿者 nasuhiko : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月10日

icon男の料理05:船出

 買い物疲れ(正確には買えない物疲れと言うべきか)で、結局、昨日は何もせずに寝てしまった。思い出すと気が重く、今日は買い出しに赴く気力がない。
 ぼんやりと『作ってみたい・韓国料理の本』を眺めていると、酒が呑みたくなった。田苑を持ち出して、昼間から写真をつまみに一杯二杯。頁を繰るうちに、我が家にある材料だけで作れそうなものを発見した。五十九頁のコチュジャンである。韓国風の辛味噌である。味噌・きび砂糖・粉唐辛子・塩・酢・酒があれば良い。きび砂糖はないけれど、普通の砂糖だってかまわぬだろう、ということで、早速、着手してみる。韓国料理の大海への船出である。
 秤を探し出して、材料を並べてみると、唐辛子が八十五グラム必要なところ、二十グラムほどしかない。大量に作る必要もなかろうから、取り敢えず、ざっと四分の一の検討で作ることにする。少々酔っぱらっているので、雑な性格に拍車がかかり、細かい分量はあやふやになってしまったが、大して時間もかからずに、完成できた。私もなかなか大したものではないか。
 少しく冷ましてから試食いたす。試食といっても、辛味噌なので、ばくばく食べるわけにはいかない。箸の先に少しつけて、舐めてみる。うむ。辛い。辛い。爆発的に辛い。こんなに辛くては頭がパーになってしまうというほどに辛い。頭皮からも顔からも汗が噴き出す。脇の下もびっしょりである。参った。何なのだ、この辛さは。
 一段落して、今度はほんの少しだけ箸に乗せ、びくびくしながら、舐めてみる。辛い。やはり辛い。しかし、辛さに慣れたのか、量を減らしたからか、この度は辛さだけでなく、甘味や香りも感じられた。ほほう、これはなかなかいけるではないか。なかなかのものだ。全身汗塗れになり、舌がやや麻痺しかけているものの、これは後を引くつまみだ。コチュジャンを一舐めしては、田苑を一口煽る。そんなことの繰り返し。
 自家製コチュジャン、取り敢えずは、成功だと言って良いのだろうか。コチュジャンの正しい味がわからないので、何とも言えないじじいである。誰かに試食してもらい、意見をうかがうとしよう。孰れにせよ、まずまずの船出だと言って良かろう。泥酔しながら、自画自賛。御苦労なことである。

投稿者 nasuhiko : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月09日

icon男の料理04

 兎にも角にも材料を揃えなければ何も始まらない。普段はコンビニエンス・ストア、あるいは、昔ながらのスーパー(それも殊更小さいところ)に出向くだけの私だが、勢いのあるうちに、ということで、数階建ての大型店舗に乗り込んだ。これがいけなかった。いけなかったのである。こういうところは初めてだが、要するに、デパートから高級感を取り払い整然かつゆったりとした気取り気味の様子を放棄した感じとでも言えばいいのか、窮屈でごたごたしていて、右往左往している人々も決して洒落込んだりはしていない。全くの普段着である。店員も男性は作業着様の、機能的なようなただ見苦しいような、そんな服装を、女性はテレビCMで見る金貸しの女性の制服のようなものを着用していて、お世辞にも見栄えが良いとは言い難い。もっとも、このような店が見栄えの良さで勝負しているわけではなかろうけれども。
 再開発が進む以前の駅前の路地めいた市場の、やや閉塞感を伴う雑踏と似ていなくもない。批判をしているわけではない。有り様をそのままに伝えようと思っているだけである。私は、元来、このような混沌とした人が人らしく活動する様は嫌いではない。けれども、このような場は、想像以上に活力を要するのである。私のようなじじいともなると、最早、この人混みの中にいるというただそのことだけで、いつ倒れてもおかしくないほどの疲弊感に襲われる。集団の混雑の圧迫感というのは事程左様に凄いものである。
 急いで必要なものを手に入れ、とっとと家に帰ろうと思えども、混み合った大型スーパーの中にあっては、何がどこにあるかを把握するのは大変困難である。目を細めてあちらを眺め、こちらを眺め、それでも埒が明かず、若い女性店員に声をかけたところ、「おじいちゃん、そこは人が多くて危ないわよ」と手を取られ、脇に連れてゆかれ、「何がほしいのかなあ〜?」と幼児を扱うかの如き態度に我慢がならず、拙者は確かに一介のぼけ老人に過ぎぬが、斯様な体で貴女の手を煩わせるつもりはござらん。失礼。
 到頭何も買わずに出てきてしまった。馬鹿である。
 今になって思えば、優しい少女の思いやりを無にする、礼を失した行為であったと反省すること至極。申し訳御座居ませんでした。私の不徳の致すところでありました。

投稿者 nasuhiko : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月08日

icon男の料理03

 あろうことか、注文しておいた本がもう届いた。何とも便利な世の中になったものだ。
 あれこれと悩んだ末に、私が選択したのは『作ってみたい・韓国料理の本』である。どんなものが良かろうかと思案したのだったが、カレーは是田大師匠が既におやりになられている。和食に関しては、『日和見』のおかみが素晴らしい腕前を持っており、それをもう何年も食べ続けているわけで、マリには相済まぬことだが、私にとっては次第に家庭の味の如き存在になってきている。
 振り返ってみれば、マリの作るものの大半は絵に描いたような洋食だったわけで、彼女と過ごした四十年近い年月は、フランス料理が私の家庭の味であったわけだ。お母さんにしっかりと叩き込まれたというだけあって、彼女の腕前はかなりのものであった。当時、帝国ホテルで何番目かに偉い料理人だった友人を我が家に招待したときにもひどく喜ばれたことを思い出す。レストランの料理とは違う家庭の味付けなのだが、想像以上に複雑だとか深みがあるだとか言って、レシピを帳面に丁寧に記して帰ったほどである。もっとも、それがその後の彼の料理人人生に実際に少しでも役立ったのかどうかは不明ではあるけれど。
 著しく話が逸れてしまった。兎にも角にも、マリの料理と並ぶような代物が作れるとは思えないので、フランス料理も却下するしかない。ヨーロッパの国々の中で、私がイメージできる美味い料理と言えば、あとはイタリア料理ぐらいのものだが、スパゲッティやピザの印象が強く、料理という枠組みで考えると気が乗らない。かといって、他の地域に目を向けても、中近東やアフリカ、あるいは、南米なんぞの料理は、そもそもまるで見当がつかない。アジア圏であっても近くないところのものも、料理想像脳の発達していない私には無理がある。結果的に残るのは中華か韓国かというところになるわけだが、中華料理はごうごうと唸りをあげるほどの強烈な火力が必要なのだと齧り聞いたし、油が多くて、じじいの弱った胃袋には厳しそうである。そんなわけで、韓国料理を選ぶに相成った。

 届いた本は、写真がふんだんに使われているし、近所の国だけあって、食材は手軽に揃いそうなものが多い。はらりはらりと頁を繰りながら、夕刻から澤乃井を傾け始めた。ところが、我が友澤乃井くんと韓国料理の写真とはしっくり噛み合わないようである。何が良かろうかと案ずるものの、相応しいものを思いつかない。結局、田苑をロックでやることにした。
 料理本をつまみに呑むのも、これはこれ、なかなか悪くないものであるという新発見。

投稿者 nasuhiko : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月06日

icon男の料理02

 読書は嫌いではない。それどころか、私の貴重な趣味の一つである。従って、本屋も嫌いではない。寧ろ、本屋は好きな場所の一つである。ただ、昔から本屋とレコード屋に行くと急にお腹がごろごろしてきて長居ができない、という弱点がある。私以外にも同様の症状を示す友人が多々あるのだが、一体全体、どういう神経の働きでそうなるのだろう。まことに不思議である。
 七十年も使い込んでいると目の玉も相当におんぼろになってくるものである。色も悪い、ピントも合わない、という有り様になってきて、次第に本や新聞、雑誌を読むのがかなりの労力を要する仕事になってきた。それで思い切って、一昨年、左目、右目と順に白内障の手術をしてもらった。その効果たるや絶大で、世界が極めて明るく見えるようになった。ピントも以前よりはしっかりと合いやすくなってきたように感じる。もちろん、若い頃ほど快適にというわけにはいかないが、読書の楽しみが我が手に戻ってきた。脳みその働きも若い頃のようにてきぱきぱきぱきしているわけではないので、のんびりと丁寧に読むようになった。おかげで、若い頃には気づかなかったようなことに気づけるようになった気がするが、もしかしたら、それは昔のことを忘れてしまっているだけかもしれない。

 さて、田村師匠に御来訪いただき、本日は、インターネット書店で買い物をすることになったのだが、これがなかなかに面白い。最近は、目をしょぼしょぼさせながらあっちの棚こっちの棚と眺めたり、それでも埒が明かない場合は無愛想な店員に声を掛け、あの本はないかこの本はないかと質問し、全くうるさいじじいだ、というような嫌な目付きでぞんざいな扱いを受けること屡々だったものである。しかし、見よ、インターネットの本屋では検索すればじゃんじゃんじゃかじゃかみつかるではないか。用心しないとみつかり過ぎるぐらいである。あまりの便利さに興奮したせいか、よくわからない本まであれこれと注文してしまった。うーむ、これは暫くはやめられなくなりそうだ。楽しい。率直に言って、楽しい。
 インターネット本屋の問題点は、本がみつかりすぎて、財布がパンクしてしまいかねないこと。それから、絶版になっている本の多さに気づかされること。これは悲しい。町の本屋の棚を眺めているときには不在のものには気づきにくいものだが、インターネットで検索してみると何とも多くの本が絶版や品切れ扱いになっているのが顕著にわかり、少なからぬショックを受ける。例えば、石川淳大先生の『至福千年』の如き名作の中の名作が品切れのままである。岩波書店よ、一体、どうなっておるのだ。恥を知れ。日本の文化を担っているという心意気はどこへ行ってしまったのか。嘆かわしいことである。実に嘆かわしいことである。
 そんなわけで、田村師匠に本日の御礼として『至福千年』をプレゼントすることは叶わなかった。残念無念また明日。

投稿者 nasuhiko : 00:00 | コメント (0) | トラックバック

2004年12月05日

icon男の料理01

 家内を失くして五年。だんだんに日常のあれこれを自力で処理する能力ができてきてはいる。母親以外は男ばかりの家庭に育ち、がさつな性格に生まれついているゆえ、掃除や洗濯は今でも申し訳程度。今年になって庭いじりに少し力を注ぐようになりはしたが、草花の名まえも種類も把握できていないゆえ、相当の混乱が続いている。料理をする行為そのものは嫌いではないのだが、洗い物などの後片付けと買い物が苦手なので、億劫に感じて腰が重い。従って、食事は近所の呑み屋や定食屋で済ませることがどうしても多くなる。
 『日和見』で一杯やっているときに、男の料理だの何だのという話になった。田村師匠の師匠にあたる、是田大師匠がカレー作りに凝りに凝っているという。「インターネットのおかげですね。スパイスや何やかや、今ではかなりのものが気軽に手に入るようになりました。インド料理の本にしたって海外からも簡単に取り寄せられます。執念深い性格だもので、あれこれあれこれ資料を揃え、材料を揃え、悪戦苦闘するうちに、たいていのインド料理屋よりはうまいカレーが作れるようになりましたよ。おまけに、日本の家庭の味、欧風レストランのようなもの、蕎麦屋のカレー丼まで研究しましたから、およそカレーと名の付くものは一通りは作れます。もっとも、カレーパンは別です。あれはどうも美味いのが作れませんね」
 そんな大師匠の話を聞いて、おかみと田村師匠、それに私の三人を是田さんの御宅に招待いただくことになった。いやあ、驚きました。実を申すと、私は本格的なインド料理屋なんぞには行ったことがないわけで、果たして眼前のものが、私の舌の上、胃の中にあるものが本格的なものなのかどうかはわからない。けれども、次々と出されるどの料理も実に美味であったことだけは確かであります。七十年以上も生きてきて、今までに一度も食したことのない味の連続に、このじじいは小さからぬカルチャー・ショックを受けたのであります。まだまだ、世界には私の知らぬ美味しいものがあるのであるなあ、と。
 「明日は、インターネットの本屋で料理本でも探すとしますか」と田村師匠。拙者、喜んで受けて立ちますぞ。

投稿者 nasuhiko : 00:00 | コメント (0) | トラックバック