2005年09月27日

iconハバネロ40


 田村師匠が本日も来訪下さった。今日は円嬢も御一緒である。何用かというと、円嬢が手作りのオリーブ・オイルを持ってきて下さったのである。実に有り難いことであります。
 どんな代物かというとですな、オリーブ・オイルの中に、細切りにしたハバネロと大蒜を放り込んだものだという。黄色っぽい油の中に、橙と緑のハバネロ、そして、白い大蒜。縁先で光に翳すと、これが、何とも美しい。早速、蓋を開けて匂いを嗅いでみるけれど、想像に反して、強烈な匂いはしない。それぞれに個性的な匂いの集まりの筈なんだけれどね。兎にも角にも、早速、戴きましょう、と申し上げると、昨日同様、未だ漬かってないから待ちなさい、と窘められる。ははは、七十を疾くに越したじじいが小娘に叱られておる。いや、小娘とは失言である。立派な御令嬢様を捉まへて、小娘だなんぞとは言語道断。失言、失言、撤回します。
 兎にも角にも、掌にぽたりと一滴落として舐めてみる。予想したほど辛くはないし、しかも、匂いも強くはない。これから漬かっていくうちに変わるのだろうけれどね。

 円嬢御持参の元ちとせというお嬢さんのCDを聴きながら、三人でのんびりと澤乃井を酌み交わし、ああ、何とも快適な午後ではないか。お二人は、小一時間ほどで帰られたけれど、私は、水色のCD赤いCDを取っ換え引っ換えしながら、猶も、杯を重ねる。

 新涼に 杯交わす 友在りて

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2005年09月17日

iconウィンナー珈琲を自作


 昼過ぎに大師匠御来訪。忙しくて忙しくて忙しくて、カレーを作る時間が取れず申し訳ない、というようなことを、例によって、宇宙人ならどうだとかいう妙ちきりんな喩えを織り交ぜながら、玄関先で一騒ぎ。まあ、話は散乱しながらも、要するに、もう少し待ってくれ、とのことでありました。勿論、お待ち致しますよ。というより、それしか法はないのであります。何しろ、私には、あのような本格的なカレーなど作れる筈もなく、また、ハバネロを自力で何とかしてみようなどという勇気もアイディアもないのである。珈琲でも飲みながら、のんびりお待ち下さい、と豆を頂戴した。ラベルを見ると、大師匠のオリジナル・ブレンドとなっている。一体、あの人てえ者は、本当は何をしている人なのでしょうな。もしかして、珈琲豆屋さんもやっていらっしゃるのだろうか。
 折角だから、と近所のスーパーまで買い物に出て、店員のお嬢さんに教えて戴き、フレッシュクリームというものを仕入れてきました。そして、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる掻き混ぜて、生クリームみたようなものを拵えた。どうだね。なかなか、私てえ人間も根気がある。捨てたものでもないね。そして、珈琲を淹れて、砂糖を三杯も溶かし、その上に、先程のクリーム状のものをぼわんと載せる。はは、大したもんだ。自家製ウィンナー珈琲ですよ。ふふふ。あの喫茶店を思い出しますなあ。散歩の途中で、マリと一緒に一休み。ウィンナー珈琲や本日のストレートというものを飲んだものです。小腹が減っている時なんぞには、フレンチ・トーストを頼んだりしてね。大抵は柔らかいジャズがかかっていましたよ。そうそう、髭のマスターに、今かかっているのは何ですか、などと質問して、レコードの名前を教えてもらったりしてね。其の侭、帰り道にレコード屋さんによって購入し、家に帰って、二人して聴いてみるということも幾度かありました。探してみたら、いくつもそんなアルバムが見つかったけれど、今日はアントニオ・カルロス・ジョビンの『』を聴いております。これはジャズとは言わないのだろうけれどね。懐かしいですな。音楽が懐かしいというより、この音楽とウィンナー珈琲から喚起される様々な思い出がね。何とも、ね。

投稿者 nasuhiko : 18:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月14日

iconイメージバトンなるもの

 「ゆきのブログ」さんからイメージバトンとういものを頂戴した。バトンというのは、リレーのあれですな。イメージという方はこの場合、何なのか、判然としない。兎にも角にも、バトンを渡されたら、のろまながらも私とて走ろうではないか、というか、メンバーの一員として頑張ろうではないか、という気になる。問題は、仕組みを理解していない、ということであります。仕組みを理解していないまま、闇雲に行動して、余所様に迷惑をおかけしまいか、ということが心配なのである。さらに問題なのは、私のこのブログを読んで頂いており、なおかつ、ブログを書かれている方に繋げなければならないということですよ。もし、私の理解があっているならば、そういうことである。ううむ。

「マイブーム〜いま自分の中で流行っていることは?」
 戴いたのは、こういう御質問である。じっくり考えてみると、あれですな、私てえ人間は実に飽きっぽいということがよく判ります。ピアノだの、落語だの、将棋だの、詩だの、韓国料理だの、ハバネロだの、デジタルの写真だの、と、あれこれと調子に乗って一頻り騒ぐのだけれど、暫くすると、まあ、何ですよ、一段落する、と言いますかね。尤も、すっかり忘れてしまうということでもなく、また思い出したように盛り上がったりすることもあるけれど、直に他のことに目が移る。いい歳をして落ち着きがないと情けなく思う反面、こんな雑な性格のままどうにか長い年月やってこられたものであるなあ、と自ら感心したりもする。馬鹿である。
 さて、ぼそぼそと愚痴を溢していても限りがないので、今、この瞬間に私の中で流行っていることというのを考えます。ううむ、難しいところだけれど、敢えて挙げるなら、ヒラリー・ハーン嬢ですかね。彼女がどのように天才なのかということは私の如き素人には判る筈もないけれど、兎にも角にも、聴いていて気持ちが良いのである。だんだんCDも揃ってきました。畳の上に寝転がって、遠めの扇風機の風を浴び、ヒラリーちゃんのCDを聴きながら昼寝するのが、今の一番の楽しみであります。尤も、これだって、いつ飽きちまうか、判りませんけれどね。

 さて、今度はバトンを渡すということを考えるのだけれど、私のブログをどなたが読んでいらっしゃるかは全く判らないのであります。もしかすると、読んで下さっているかもしれない、という幽かな期待を込めて、「甘くて苦いチョコレートな日々」のMalyrineさん、「ネコとハチミツ」のkeicoさん、如何でございましょう。仕組みも判らないまま、こんなことをお願いしていますけれど。お二方にどうやってお教えすれば良いのだろうか。他の方でも、バトンを受け取って引き継いで下さる方がいらっしゃいましたら、宜しくお願い致します。
 ああ、そうでした。題は「この夏、これはおいしかったなあ」というので如何でしょうか。ちなみに、私は、行者大蒜というのを冷や奴の上にのせたのをつまみながらやる澤乃井がこの夏の一番であります。ああ、よく考えたら、これこそが、今の私の中の流行だったのかもしれない。

 訳も判らずずるずる書いていたら、無駄に長くなってしまいました。

投稿者 nasuhiko : 21:54 | コメント (5) | トラックバック

誠に光栄至極にございます。若輩者ではございますが、
謹んでお受けいたします。
冷奴に行者大蒜を肴に美味しいお酒を召し上がっていただいて、
しばしお待ちを。

投稿者 Malyrine [TypeKey Profile Page] : 2005年08月15日 12:25

 判然としないまま、お願いしてしまいました。何卒、宜しくお願い致します。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月15日 17:36

今日も楽しく読ませていただきました!
ヒラリー・ハーン...
ぜひCDのところに飛ぶようにリンクをはってください!
まってます。

投稿者 yuki : 2005年08月16日 23:18

茄子彦さま

バトンを送っていただき、恐縮でございます。
今月は何かと忙しく、ろくにブログを更新する時間もないのですが、
せっかく茄子彦さまからのバトンなので、近々書こうと思っております。
もう少しお時間下さいませ。ではでは。

投稿者 keico : 2005年08月17日 21:05

 未だイメージ・バトンというのがどういうものなのか、よく判っておりません。それなのに、厚かましくお願い致しまして、恐縮千万。

 御多忙の由、御無理でない折に、宜しくお願い致します。

茄子彦拝

投稿者 茄子彦 : 2005年08月18日 11:12

2005年08月02日

icon師匠、炎夏にも御機嫌


 暑い。暑いですなあ。しかし、これが夏というものなのであるし、この暑さと陽射しが、セニョール・ハバネロをを始めとする植物のあれこれを大きに育ててくれるのである。そして、その植物のお蔭で昆虫や動物が潤う訳であるからして、考えようによっては大変大変有り難いものなのである。然り乍ら、人間てえものは自分勝手な生き物であるからして、感謝よりは不満が先に立つ。暑い。実に暑い。心頭滅却すれば火もまた涼し、なんて言った人がいましたね。誰の言葉だったろうか。坊さんか何かだったろうか。立派な立派な方の有り難い有り難い言葉なのだろうけれど、此方人等、只の偏屈じじいであり、七十余年生きておるけれども、心頭滅却など出来た例がない。従って、火もまた涼しなどという心境には金輪際至れぬ訳であり、従って、暑い、暑い、暑いと愚痴を溢し続けるのである。茄子彦よ、開き直りおったな、この戯け者めが。

 扇風機を浴びながら、畳の上でひたすらごろごろしている。端から見れば弛んでいるようにみえるのだろうなあ、と思う。そして、その通り、実際、弛んでいるのである。そんな風に、半日を呆けて過ごしていたところ、ぷらりと田村師匠がやってきた。「先日、お借りした『ザ・リアル・マッコイ』があまりに御機嫌なので、一杯やろうかと思いまして」と、ははあ、この人も大分砕けて参りましたなあ。結構、結構。お貸ししたことを忘れておったけれど、多分、ソルバイさんをお借りした時のことなのでしょうな。
 早速、澤乃井を傾けながら、マッコイ・タイナーに耳を傾ける。暫く振りに聴いてみると良いですなあ。しかも、日本酒に合うときたもんだ。意外である。杯を重ね、あれこれと、実のある話、実のない話を交わし、音楽と酒に酔い痴れる。嗚呼、余は満足じゃ、であります。

 友来たり 夏日の宴 真マッコイ

 我ながら、何ともでたらめな句である。けれども、何となく、良い響きではありませんか。全く暢気な酔っ払いだよ、私てえ人間は。はは。

投稿者 nasuhiko : 19:14 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月30日

iconあれこれ


 白い花の様子が気になりましてね、と、田村師匠が円嬢を伴って御来訪。お若い二人が並んでハバネロを眺める姿、初々しいですな。半世紀前のマリと私が並ぶ姿も同じように初々しかったのだろうか。初々しい二人に見えた日々だってあったに違いないとは思うけれど、何しろ、大層昔のことなので判然としない。そもそも、自分で自分の後ろ姿は見られない訳だからね。後ろ姿が初々しかったかどうかなどということは判る筈がないではないか、と、捻くれたことを言ってみたくなります。

 セニョ殿の観察を一通り終えたところで、祝杯となる。ハバネロくん育成の初期の頃の不安な気持ちを語り合ったりして。あの頃は、随分うじうじと悩んだけれど、今や互いに暢気なものである。杯を重ねて、どんどん調子が出てきます。花は咲くし、友は訪れるし、酒は美味いし、と、何とも素晴らしい午後である。ところが、がっくりくることが一つ。師匠が「棋聖戦で羽生さんが負けましたね」と仰る。新聞に載っていたそうである。しかも、それは数日前のことだという。ううむ。毎日欠かさず新聞は読んでいるつもりなのだが、一体どうしたことだろう。うっかりしておった。これも、将棋連盟とNHKの宣伝不足がいけないのである、というような、愚痴を零す。愚痴なんぞ零されるとは、お若いお二人、しかも、さして将棋のないお二人には、全く迷惑な話でありますな。

 師匠たちが帰られたあとも、羽生扇子を持ち出してきて、今更ながら棋聖戦を見逃したことを嘆く、そんな具合に杯を重ねていたものだから、幾らなんでも呑み過ぎております。もう止したが善かろう。

 師匠が置いていかれた、ソルバイという人の『ヴァガボンド・スクウォー』というものを聴いている。スウェーデンの音楽だと仰っていたけれど、取り立ててどこがどうスウェーデンなのかというのは私のようなぽんこつには判然としません。そもそも、スウェーデンの音楽などと言われても、頭に何も思い浮びませんからな。聞こえてくるのは、昔の、どこにでもある外国のポップスのようである。まあ、確かに、蒸し暑い夏には、軽やかなポップスが快適なのかもしれませんが、何となくぱっとしない。

投稿者 nasuhiko : 20:07 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月11日

icon喉元過ぎれば03


 英国でのテロで亡くなられた方の数は益々増えていくようであり、何とも恐ろしいことである。御当人も無念だろう。また、その御家族も遣り場のない悲しみや怒りに震えておられるのだろう。結局、戦争だのテロだのということになると、犠牲になるのは殆どの場合、普通の人なのだというところが、何とも辛い。例えば、ブッシュとビンラディンが一対一で喧嘩をすれば良いのである。そうすれば、痛いのは当人たちであって、一般の大衆の命が軽々しく失われることはないのだ。まあ、こんなことを、この老い耄れじじいがここで幾らほざこうとも世の中には何の影響もないのですけどね。まあ、それでも、ぶつくさと愚痴を溢さずにはおられないのであります。

 もやもやした遣り切れない気持ちを抱えたまま、カメラを持って、例によって散歩に出た。ぼんやりと歩いているうちに、突然、マリが『フォーレのレクイエム』をとても愛聴していたことを思い出しました。脳みその中の記憶の繋がりというのは本当に不可思議なものでありますな。兎にも角にも、駅の方に足を向けて、レコード屋を覘くと、ありましたよ。何だか知らないけれど、「奇跡の名盤」と謳われているのに僅か1000円だという。結構な話である。
 家に帰って、大きな音でかけてみる。今では当たり前だけれど、裏に引っ繰り返さないで済むというのは、こういうものを聴く時には有り難い。家内がよく聴いていたレコードに比べて、のんびりゆったりしていて、何となく牧歌的な印象を受けますなあ。それにしても、実に美しい音楽である。私のような無宗教の者の耳にも美しい。何というのか、鎮魂歌でありながら、鎮魂するばかりでなく、鎮魂する側の私たちの気持ちを慰撫し、少なからず元気にしてくれるような気がする。マリのことも思い出され、正直に申せば、少し涙が零れたけれど、嘆いているばかりなのではない。生きる活力にも繋がる、未来への道筋が見えるような気がするではありませんか。こんな物謂いは少々大仰に過ぎましょうけれど。

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2005年06月20日

iconハーンをもう一枚


 先日購入した『ブラームス/ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲』が大変素晴らしかったので、彼女の作品をもう一枚購入しましたよ。今度は『エルガー:ヴァイオリン協奏曲』であります。例によって、大きな音で繰り返し聴いているのだけれど、これが、良いのですなあ。いやあ、素晴らしい。今まで、エルガーという人の音楽をちゃんと聴いた覚えがなかったし、何とはなしに、在り来たりの、ぱっとしない作品なのではないか、というような、妙な先入観を抱いていたのである。名前や外見で人を判断してはいけない。そんなことは百も承知なのであるけれど、人間てえものはね、口と手が揃わないというか、理屈と行動が釣り合わないということが間々ある訳で……と、これは、みともない言い訳である。止したが良かろう。
 エルガーのヴァインオリン協奏曲は、厭らしくない甘味がある。じゃあ、どんなのが厭らしい甘味なんだい、と問われると、困るのだけれど、そうですな、例えば、私の趣味で言わせて頂くなら、ラフマニノフですか。ああいうのは、好きません。まあ、向こうだって、お前のようなじじいなんぞに好かれたくないよ、と申しておるでしょうけれどね。クラシックの素養があまりないので、上手に説明できないけれど、そんな風に思う。甘味が、こう、何と言うのか、すうっとしていて、平常心なのである。ああ、何が何だか判らなくなってきた。遥か彼方の小さな村に、王女様などではなく、村一番の美女といった感じの女性がおり、その慎ましやかな美に魅了され、そちらに向かって一歩一歩堅実に進んでいくような……って、何を言っているんだろうね。どんどんおかしな説明になっちまう。老人の妄想は止処がなくて嫌だね。

 しかし、まあ、何だって、こんなに若いのに熟成されておるのでしょうなあ。こんなに素晴らしいと、明日を迎えるのが不安になったりしないだろうか、と、又、例によって、余計な心配をば。

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2005年06月08日

iconヒラリー・ハーン


 さらりと笊を啜ってのんびりとしていたら、玄関で呼ばわる声がする。出ていってみると、女性が立っており、届け物だという。御苦労なことである。判子を渡そうとしたら、判子は結構です、とのこと。アマゾンと書かれている。ははぁ、もう届いたのかい。凄い世の中だね。ヒラリー・ハーンの『ブラームス/ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲』である。晩のテレビを見て感激し、翌朝、インターネットで探して注文する。そして、翌々日には手元に届く。何とも便利な世の中ではありませんか。これも、私のようなぽんこつをインターネットの海に乗り出させてくれた、『日和見』の女将や師匠連のお蔭である。感謝の気持ちを新たにしなくてはいけない。
 繰り返し、轟音で聴いている。これが良いのである。何とも結構。表紙の青色の背景に、肌の色も白いというより蒼いという感じで、このアルバムを見事に象徴していると感心する。素人じじいに出しゃばり口を利かせてもらうならば、こう、何というのか、この音楽はかっかっかっかっと燃え上がる炎というよりは、凍った水面が月の明りに照らし出される輝きとでも申すのか、兎に角、冷たく輝いている音楽なのである。……何だい、この気取った物謂いは。全く以て、厭らしいじじいだよ。
 素晴らしいですなあ。殊にストラヴィンスキーの協奏曲が宜しい。こんな温みのある、叙情的な作品もあったのですなあ。無知というのは恐ろしいものである。ストラヴィンスキーというのは、何となく、もっと、どがしゃかと騒々しく、金属バットで鉄の階段を叩くようなものだとばかり思い込んでいた。

 梅雨間近
  月夜に蒼き
   ヒラリー・ハーン

 少々湿り気味の夜の空気の中、どこまでも透明に響き渡るヒラちゃんの音。嗚呼、もうこんな時間か。これはいくら何でも近所迷惑ですか。

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2005年06月07日

icon小さい歌


 カバレフスキーの「小さい歌」の練習を漸う始めた。一昨日のヒラリー・ハーン嬢の演奏を観たことに触発されてのことである。あんな素晴らしい演奏には天地がひっくり返ろうとも、到達できる筈もない。けれども、ああ、自分でも何か演奏してみたいなあ、という気にさせるような、演奏だったのである。下手くそだって何だって、同じ阿呆なら踊らにゃ損々、という心境とでも言おうか。勿論、ヒラリー嬢が阿呆だという訳ではないので、念の為。いや、もしかすると、彼女も阿呆かもしれない。普通じゃないからね。何というのだろうか、音楽あるいはヴァイオリンの音というものにではなく、ヴァイオリンを演奏しているという行為にのめり込んでおり、その一方で、冷ややかに演奏全体をコントロールする別のヒラリー嬢がいる、というように、見受けられた。つまり、踊る阿呆と観る阿呆の両方を一人の女性が同時に達成させているわけであって、そんなことが出来るのは、神懸かりか阿呆に決まっている。……などと言うと、また、耄碌じじいが勝手なことを言っているよ、厭だねえ、という声が何処からともなく……。
 莫迦なことを言っていると限りがないので、敬愛するヒラちゃんのことは措いておくとして、「小さい歌」である。この曲は、僅か十七小節、楽譜に付属してきた見本演奏CDでは五十秒程。頑張ればちゃんと演奏できそうな気になっているじじいである。
 本日は右手だけの練習。手本の演奏を繰り返し聴いてから、取り敢えず、先頭から八章節目までをどうにかこうにか弾いてみた。暫く振りにピアノに触れるせいか、然程、難しいとも思われないのに、指が攣りそうになる。何とも情けない話である。三十分ほど悪戦苦闘して、余力を残して、本日の練習は終了。この、余力を残す、なんざ、気が利いてますな。はは、私も伊達に歳を取っていない、存外莫迦じゃない、などと自画自賛。暢気なものであります。
 練習をしたという、ただそれだけで、妙な達成感があり、今日の澤乃井は、また、一段と美味しゅう御座居ますな。ううむ、美味い。これでマリがいてくれさえすればなあ、などと思うけれども、幾ら思ったところで栓無きこと。思うことを止めなければいけません。何だい、楽しく呑み始めたのに、あっという間に湿っぽくなってしった。それでも、今日も酒は美味い。これは大きな大きな救いであります。

投稿者 nasuhiko : 19:03 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月06日

iconペルト、それにハーン


 昨晩は田村師匠は夕方過ぎに帰られたのだけれど、直ぐに電話がかかってきて、ペルトの演奏会をNHKで放送するという。先日お貸し戴いた『アリーナ』のペルトである。
 演じられたのは「フラトレス」とうい曲。拍子木がカンカンと静かに鳴り渡り、その響きに率いられるように音楽が流れ出す。『アリーナ』は雨の滴がゆっくりと心に染み込んでくるような作品だったけれど、こちらも胸に響きました。闇に沈みかけた夕景の中、担がれた棺を先頭に、静やかに葬列が町の中を墓地に向けて進んでゆく。人々は悲しみに包まれているのだけれども、必死に涙を堪え、拍子木のリズムに合わせて歩んでゆくのである。そんな光景が思い浮かんだ。物悲しく切々とした音楽である。美しい。
 演奏が終わると、司会者たちの話が始まるのだけれど、静けさの余韻を台無しにするような、ぎいぎいぎしぎしという椅子の音。音楽番組であるにも拘わらず、何だって、あんな五月蝿い椅子を使っているのだろうか。信じ難い悪行である。何しろ、音楽をしっかり聴こうと思って、普段よりも数段音量を大きくしていたものだから、あの椅子の軋りには閉口した。早急に新しい椅子を買ってきなさい、とNHKの人々に言いたい。途でもないことである。
 次は、プロコフィエフのヴァイオリン・コンチェルトであったのだが、番組の冒頭から、頻りに若き天才ヴァイオリニストと持ち上げられていたヒラリー・ハーンという女性の演奏である。さてさて、どんなものであろうか、と身構えていたのだけれど、驚きました。驚愕。仰天。物凄い人である。解説者があれこれと燥いでいたのも御尤も。プロコフィエフのどたばたと忙しく、かつ、その中に、情感をたっぷりと唄い上げるようなところもある、素人耳にも厄介に聞こえる難曲を、いとも易々と弾き上げる姿は、冷たくさえ見えるほどの余裕振りである。硬い音、柔らかい音。激しい音、優しい音。ああ、ヴァイオリンというものはこんなに豊かな楽器立ったのか、と痺れました。いや、私はハーン嬢につくづく惚れ込みましたよ。天才少女……私から見れば少女だけれど、二十五歳だということだから、天才女性と言うべきなのだろうか。何だか、妙な響きだね。兎にも角にも、素晴らしい。音楽でこんなにぞくぞくしたのはいつ以来だろうか。思い出せない。尤も、私の記憶はもやもやしていて思い出せないことばかりですけれどね。今日の昼は何を喰ったのだったか。笊蕎麦だ。

投稿者 nasuhiko : 17:10 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月24日

iconこどものための小曲集


 田村師匠にお薦め戴いたカバレフスキー。「こどものためのピアノ小曲集」だなんて、「こども」用で、かつ、「小」曲集という、些か態とらしい日本語名がついておるのですよ。何だか、一人前の大人が手を付けるのはちょいと躊躇われるようなタイトルじゃありませんかね。尤も、私は一人前の大人どころか半人前以下の、言ってみれば、精々が四割人前ぐらいの者であるし、人間は歳を取ると、最後には赤ん坊に戻るてえことをよく言いましょう。私なんぞも七十を過ぎて、大分子供に戻っておるのだからして、これ位で十分。いや、十分なんて物謂いでは失礼に当たる。寧ろ、これでも難し過ぎるぐらいなのであります。
 付録のCDを繰り返し聴きながら、楽譜を眺める。どれにしようかねえ。シャープとかフラットがあれこれ付いているのは厭ですな。まあ、暗記しちまえば同じことなのだろうけれど、どうもね、苦手である。それに、老い耄れていますからね、速いのは困る。尤も、CDと同じように速く必要はないのだろうけれど、出来れば、端からのろいものにしておいた方が無難でありましょう。勿論、曲として、気に入るものじゃないといけないしね。選曲作業も意外に難しいものである。
 ああでもない、こうでもない、とCDを何周か聴いてみて、決めましたよ、この「小さい歌」というやつに。「こども」のためのピアノ「小」曲集の中の「小さい」歌、てんだから、この、往って還って、生まれる前の空っぽに戻る直前の、赤ん坊みたようなじじいには丁度良い。シャープも一つしかないし、ゆったりしているし、静かで物悲しい響きが何とも言えず美しい。良い曲ではないか。
 今日は選曲したというところまでで、一区切りとして、一杯いきますか。いきますかって言ったって、相手がいるわけじゃないけれどね。独り言である。厭だね、じじいの独り言なんざ。まあ、しかし、そうやって、あれこれの行動に言葉で弾みを付けながらやっていかないと、一人限りの家の中は静か過ぎて嫌なものなのである。歳を取って、独りぼっちで暮らし始めれば、まあ、誰だってそうなのではないか。それにしても、何だってまた、こんな辛気臭い話になっちまったんだろう。ああ、厭だ、厭だ。厭だねえ。

投稿者 nasuhiko : 18:05 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月23日

iconカバレフスキーって


 田村師匠来訪。セニョール・ハバネロ登場以来、ちょくちょく顔を出して頂いている。蟻巻の一件があるものだから、心配でもありましょうし、勿論、それだけではなく、成長が楽しみでもあるのでしょうな。私だとて同じこと。水遣りをしながら、葉っぱの裏まで一枚一枚眺める早朝。少しずつ成長しているのだろうけれど、毎日見ているとなかなか判りませんな。ちび公くんみたいに、暫く振りだと、ああ、大きくなったねえ、などと目に見える成長があるのだろうけれどね。
 早速一献、と思ったのだけれど、これから出かける用事があるということで、本日は酒を控えられる師匠である。お茶を飲みながら、正に、茶飲み話。

「カバレフスキーはご存知ですか」と問われる。
「如何にもロシア人みたような名前ですな。何となく聞いたことがあるような気はするのですけどね。画家ですか。それとも、音楽家ですかね」
「作曲家なんですけれど、入門用の面白いものを書いているんですよ。バッハをやめちゃったみたいなので、これはどうかなと思って持ってきてみたんです」と、鞄から楽譜を取り出す。ぱらぱらと、その薄っぺらい楽譜を捲ると、驚いたことに裏表紙のところにCDが付いている。つまり、楽譜だけじゃよく判らない、という、私のようなもののために、参考となる演奏が用意されているということになりましょうかね。いやあ、便利な世の中ですなあ。独学でピアノを嗜もうというような場合に、大きに役立つことは必定であるから、今後、こういう付録付きの楽譜が流行るのではあるまいか。何はともあれ、早速、かけてみる。
「初級者向けとはいえ、現代曲ですから、妙な響きもあちらこちらに出てきますけど、おかしいなと思ったら、CDと比べてみればいいわけですよ」
 成程、確かに、バッハ何ぞの王道とは違って、簡単そうなところでも、不思議な感じのするところがありますな。そんなところが却って興味を引く。二人して楽譜を眺め、CDを聴きながら、あれこれと話し込んでいる内に、カバレフスキーに挑戦してみようではないか、という気になってきましたよ。やりかけのインベンションは放り出すのではなく、脇に置いておくのである。いずれ、又、気が向いた時にね。
「ところで、田村師匠はどのように学ばれたのですか」
「ぼくはピアノをちゃんと習ったことはないんです。独学といいますかね。バンド仲間に教わったり、あれこれ楽譜や本を買い込んでつまみ食いしたり」ふむふむ、そんなことで、あのようにギグを演じられる程の腕前になったというのだから、何とも羨ましい話である。尤も、才能も経験も桁が違うのであるから、羨んでいても栓無きこと。しかも、私に残された時間は、そう多くはない訳であるからして、せっせと練習に励もうではないか。でも、ですね、本日は、既に、些か度を越して聞こし召しておるので、明日からに致しますかね……って、こんな考えだから、何事も埒が明かないのであるけれど、まあ、こういう性分に生まれついてしまったのだから、仕方がないのでありますよ。はは、莫迦なじじいだねえ、とお笑い下さい。御機嫌よう。

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2005年04月19日

icon交換音楽08


 田村師匠来訪。インフルエンザで寝込んでいる折に大変お世話になったことを、今頃になって、しかも、先方からお越し頂いたところで、御礼を申し上げる。全く筋の通らぬ話でお恥ずかしい限り。
「最近、ぱっとしないようですね」老耄日記を懲りずに読んで下さっておるのである。忝ない。「何だか、くさくさしましてねえ。陽気が陽気になってきたって言うのに、気が晴れませんな。どうも躰の方が本調子じゃないもので、気分も、何とはなしに沈みがちなんですよ。まあ、寧ろ、このぐらいの方が老人らしくて丁度良いぐらいかもしれませんがね」「無理してはしゃぐこともないじゃないですか。自然にしているのが一番ですよ」優しいお言葉である。不覚にも涙が出そうになった。
 考えてみれば、気が晴れないということを気にする余り、ますます気が滅入るという悪循環に落ち込んでいたことは確かである。それより何より、話し相手がいるということが、何とも有り難い。独りでいる時だって、独り言は滝のように零れ落ちるし、宇宙猫や木々や草花、鳥なんぞに向かって話し掛けたりしてはいるわけで、全く口を開かないというわけではないけれど、生身の話し相手がいるのとは大きに異なるのである。しかも、師匠は聞き上手というのか話し上手というのか、口重の老い耄れから言葉を引き出すのが大変巧い。あれこれと由無き事を遣り取りするうちに、すうっと心が晴れていくのが感じられる。感謝至極。勿論、早い時間から傾けた澤乃井が舌と心を滑らかにしてくれたことも忘れてはならない。暫く振りに、気持ち良く、心底美味しくいただけましたとも。
 師匠が本日貸して下さったのは、『アリーナ』という、水色に薄い緑を混ぜたような何とも上品な色合いの美しい紙のケースに入ったアルバムである。「心が落ち着きますよ。いい感じにリラックスできます」と仰る師匠の言葉に偽りがある筈などない。アルヴォ・ペルトという、名前すら耳にしたことのない、現代の作曲家の作品であるけれど、妙な不協和音や仕掛けなどない、淡々と静けさの中に進む音楽である。現代音楽ということで聞く前に身構えてしまった己が莫迦みたいである。いやあ、素晴らしい音楽ではないか。空気が透明になっていき、もわもわと淀んでいた気持ちなどどうでもよく思えてくる。狭量な自分がどこかに飛んでいってしまった。
 私の方からも、今回はクラシックだけれど、少しは現代的なような、同じく透明で静かな、高橋悠治のバッハをお貸しした。タムゾー先生の耳に合いますかどうか。

春の月 音降り注ぎ 心澄む

アルヴォ・ペルト: アリーナ』 高橋悠治『プレイズ・バッハ

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2005年03月10日

icon交換音楽07


 朝から繰り返し聴いているこの『フラワーズ・オブ・ロマンス』も久下ちゃんのアルバムも、どんどんどこどこ、どこどこどんどん、と、どちらも力強い太鼓が推進力になっているのは同じである。けれども、届いてくるものは大きく異なるのですな。どちらが良い悪いというようなことではなく、端的に、異なる。別物。別世界。
 久下ちゃんの方は、大きに肉感的なものですな。場を同じくしているわけではなく、ただ音響機器を通じて耳にしているだけの私も、思わず参加したい、と、そう思わずにはいられぬような代物。事実、箸で皿を叩いて騒ぐことも屡々。尤も、それは多分に酔いのせいでもありましょうが。
 それに対して、この『ロマンスの花々』の方は、騒がしいのは精神だけ、とでも言うのが良いのだろうか。肉体で接しようと、試しに、珍妙な歌声に合わせて、ああああ、あうあう、などと唸ってみたが、どうもしっくり来ない。唸るより、目を閉じて、心を解き放ち、音と唄声に従って、宇宙をあちらこちらへとさ迷うのが宜しかろう。空想の世界でなら、いくら徘徊したところで誰に迷惑かけるでなし。

 ううむ、それにしても、熟、音楽の世界を言葉で説明するのは難しい。尤も、私の如き素人が……しかも、時代とは遠く隔たった世界の片隅に存する老い耄れた素人が……ああだこうだと語ろうとしていること自体に無理がある。笑止千万。笑止億兆。余計な小理屈を、ずるずるだらだら、ああでもないこうでもない、と書き連ねるより、がんがんずんずん呑んで呑んで呑んだくれて、酔いと音に身を任せるべきなのである。

 堂々巡りの無駄な思索と杯を重ねていたら、良い具合に酔ってきた。おお、そこを行くのはちび公殿ではありませんか。今、蒲鉾を差し上げますぞ。君ら、猫族にとっては、音楽てえものはどうなんだろうね。こういう太鼓のどんどこはどうだい。え、悪くないだろうよ。何々、鈴廣の蒲鉾にはかなわないと申されますか。御尤も、そりゃそうだ。どれどれ、もう一切れお食べなさい。太鼓も良いけれど、鈴廣も良いですな。肴が良いと、澄み切った酒が益々美味い。いや、結構、結構、余は満足じゃ、ふはふは。

パブリック・イメージ・リミテッドの『The Flowers of Romance』 久下惠生の『A Very-Disco Golden Greats of Kuge Yoshio

投稿者 nasuhiko : 19:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月09日

icon交換音楽06


 師匠から貸していただいたパブリック・イメージ・リミテッドというバンドの『フラワーズ・オブ・ロマンス』を午前中から繰り返し聴いている。前回の交換音楽で嵌まりに嵌まった久下ちゃんの音楽の原点だみたようなことをおっしゃっていたが、ううむ、判るような判らないような。ううむ。
 バンドの名前も、アルバムの名前も、どちらも非常に思わせ振りであり、あれこれと想像してみたくなる。表紙の薔薇を銜えた黒髪の女性は、例えば、スペイン人のようでもあり、アジア人のようでもあり、これまた、あれこれと想像を馳せるには持って来いである。
 繰り返し聴いているせいか、呪術的な何かに捉えられたような気がしてきた。呪術と言っても、アフリカのそれではなく、中近東辺りの匂いがしますな。トルコですか。踊る宗教ですか。いやはや、澤乃井がかなり回ってきたもので、空想に歯止めが効かなくなってきた。御機嫌だ。
 ああ、最初に聴いたときに、身構えていて、損をしましたな。そもそも音楽というのは身構えるべきようなものではない。それに、この音楽は精神の旅路の音楽なのであります。身構えずに、さあ、乗船、乗船。さあ、搭乗、搭乗。少々甲高い声の、そして少々珍妙な節回しの、呪術師の振りをした歌手に引き連れられるまま、私は、こう、何というのか、妄想の世界を飛び回るのであります。ぐるぐるぐるぐる宙を飛び、ぐるぐるぐるぐる目が回る。あははは。老い耄れの、しかも、泥酔者の戯言と、君、笑い給う事勿れ。まずは一献。さあ、あなたも赤い薔薇を銜えなさい。そして、音楽に身を任せ、怪しげな祈祷師に従って旅しようではありませんか。

久下惠生の『A Very-Disco Golden Greats of Kuge Yoshio』 パブリック・イメージ・リミテッドの『The Flowers of Romance

投稿者 nasuhiko : 18:45 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月08日

icon交換音楽05


 昨日、福寿庵が昼休みに入るというので追い出されたのが午後二時頃か。言い心持ちで酔っ払っている客、しかも、その中の一人は先代というか実の父親であろうとも、容赦はない。坂本くんちの息子も冷たいものである。まあ、それが現代的てえものなんだろう。飲み足りないのは歴然なので、荒屋に引き上げて、なおも盃を重ねる。師匠のみならず、坂本くんまで一緒にやってきて呑んでいるのだから、何だかおかしいですな。
 田村師匠は相変わらずヘレン・ウォードに御執心のようである。他に何かないか、と言われても、彼女のアルバムはそんなにないのである。さてさて、何をお貸ししようかと、あれこれ、ひっくり返して、女性ヴォーカルものをみつけ出す。ヘレン・メリルとジョー・スタッフォードとリー・ワイリーの三枚を手にして、渡そうとすると「いや、一枚にしてください。三枚も借りちゃ味が悪いですよ。一枚だけを貸しっこしてじっくり聴き込みましょうよ」とのこと。なるほど、そういう考え方もある。最終的に『ナイト・イン・マンハッタン』をお貸しすることにした。「ヘレン・ウォードを近所のこざっぱりとしたお姉さんとすると、リー・ワイリーは同じ近所のお姉さんでももっと色気がありますよ」そんな酔っ払いの説明にしきりに首肯いてくれる師匠が貸してくれたのは、パブリック・イメージ・リミテッドというバンドのものである。「久下のアルバムをいたく気に入られたのですよね。ぼくは、久下の源流は八〇年代頃のこの手の音楽にあると思うんですよ」と酔った勢いで饒舌になっている。ロックを解体したんだ、だの、商業主義がどうのこうの、などなどと小難しい解説していただいたが、酔いも進んでいたので、申し訳ないが、細かいことはすっかり忘れてしまった。
 私たちの会話に、坂本くんがあれこれと横槍を入れてくる。交換日記みたいな具合に交換音楽ってことをしているんだよ、と教えると、ふうん、そりゃ面白そうだな、俺もまぜてもらおうかな、などと言っている。師匠の顔色を窺うと、古びた情報源が増えることは大歓迎のようである。今度、一緒にギグを見に来て下さいよ、などと言っておる。何だか、楽しくなってきたような、面倒臭くなってきたような。自分の特別な仲間を他の人に取られるような、嫉妬に似た感情が少しく身内に湧いたような気のする老い耄れである。はは、莫迦ですな。いや、実際のところは、仲間が増えるのは嬉しいことであります。

The Complete Helen Ward on Columbia』 久下惠生の『A Very-Disco Golden Greats of Kuge Yoshio』 リー・ワイリーの『ナイト・イン・マンハッタン』 ジョー・スタッフォードの『ジョー+ジャズ』 『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』 パブリック・イメージ・リミテッドの『The Flowers of Romance

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2005年02月16日

icon交換音楽04


 例によって、呑み過ぎて、気持ち悪いことこの上ない。どうして、学習しないのだろうか、この老いぼれは。半世紀にも渡ってこんな思いを繰り返し、我が事ながら厭んなる。程好いところで止めるってことができないんだから、呑み助てえのは、質が悪い。その場の楽しさに飲まれて、未来を予見できないてんじゃ、猫にも劣る。尤も、猫が未来を予見しているのかどうか、わかったもんじゃないけれど。そう言えば、近頃、スパイ面した宇宙猫、ちび助くんが偵察に来ないね。
 どうにもこうにも気力が出ないので。奴だけをどうにか食す。本当だったら、お馴染みの「納豆と豆腐のチゲ」と行きたいところだが、気力が足りず、せめて湯豆腐にでも、と思いながらも気力が足りず、結局、冷えたまま。胃に優しくない。

 先日は、二人してヘレン・ウォードに終始してしまい、すっかり忘れた恰好になってしまったが、本日は、師匠が持参してくれていたCDを聴いてみている。久下惠生という人の作品。指名手配で張り出されるポスターのような、人相のあまり宜しくない髭面の顔写真がジャケットになっている。裏を見ても、やはり髭面の、戦の最中の武将たるや斯くあろうか、というような風貌である。
 さて、その中身だが、ヒョワヒョワヒョワヒョワというような電気的な音も偶に聞こえるものの、ほぼ全面的にドラムと声ばかり。一聴したときには、いやに騒々しかったり、友達がみな帰ってしまって独りぼっちになった子供の戯れのようであったり、何だかむず痒いような心持ちがするばかりだった。けれども、田苑を呑み始め、音量を上げて二周目に挑んだところ、次第に気分が高揚し始めたのであります。意外な気持ち良さ。先程、子供云々とと書いたけれど、当たらずとも遠からず。夕方の空き地で、小学生が無心に跳ね回るような、そんな盛り上がり方である。思わず、箸でぐい飲みを叩いてみたり。曲に合わせて、ドンツドン、ドンツドン、タンタタタン、と口遊んでみたり。良いねえ。こりゃ、耳で聴くものではないのだな。身体の音楽とでも言えば良いのか。酔いが進んで、思考が少しくゆらゆらしてくるときに……ドンタドドンドタドドンタ、なんて叫んでみる。久下くんよ、ご機嫌だね。タラタカタラタッタッタタ。一緒に一杯やりたいね。タンタンットン。これは今まで私の知らなかった快楽である。ドーンバッドーンドッ、ドーンバッドーンバッ。ああ、酒が美味い。久下くんよ、私はもう一杯いかしてもらいますよ。

轟音の桴が撥ぬれば脳も揺れ
 意識波打ち幽体離脱

The Complete Helen Ward on Columbia』 ヘレン・ウォードの『グディ・グディ』 久下惠生の『A Very-Disco Golden Greats of Kuge Yoshio

投稿者 nasuhiko : 18:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月14日

icon交換音楽03


 暫く振りに田村師匠、御来訪。ピアノの練習を始めたことを知らせると、喫驚して仰け反られていらっしゃる。今後はあれこれブログやコンピューターのことだけでなく、ピアノのことも相談させてもらいますよ、とお願いする。
「それかはかまいませんし、私でできることならどんなことでもお手伝いしますけれど、近頃、ピアノはあんまり弾いてないからなあ」「そうはおっしゃいますが、ど素人に教える程度は何てことはないじゃありませんか」そんなやり取り。腕前の程はわからないけれど、ライヴハウスで演奏会を開くほどなのだから、音楽の素養が全くないはずはない。師匠作の伴奏の中にはピアノだってあったじゃありませんか。ところが、先日のギグのコンピューターの伴奏の中にもピアノは存在していたけれど、あれは全部サンプラーというものでやっているのであって、本物のピアノではないのだそうである。何だかよくわからない。

 借りっ放しのになっていた『ザ・ドロッパー』をお返しする。結局、その後も、ぴんと来ないままだった、というより、それほど繰り返して聴いたというほどでもないので、ぴんと来るはずはなかったのである。時期が悪かったのかもしれない。また、別の機会があればその時に。
 一方、田村師匠はヘレン・ウォードにぞっこんのようである。『グッディ・グッディ』を御自分で購入されたとか。うちにもLPがあるので、かけながら、まずは一献。「くりかえし聴いてますからね、すっかり覚えちゃいましたよ。声もいいし、曲もいい。ふと気づくと口ずさんでいたりします」と杯を傾けながら「本当じゃ良すぎる」を鼻歌交じりに唄う始末。いつになく陽気である。
 まだ私がぼんやりと勤めていた頃、たまに飲み歩いたりした取引先のボブというアメリカ人が、一度だけヘレン・ウォードの実物を見たことがある、と言っていたのを思い出す。声も笑顔もベリー・ベリー・キュートだった、と興奮気味に教えてくれたのであった。美女というよりは町で一番可愛い女の娘という感じだった、と。ジャズ・シンガーというよりは今で言うアイドル歌手のような存在だったのかもしれませんな。確かに、巧い、というより、愛くるしい、というのが相応しい。
 日が暮れてもなお二人で『グッディ・グッディ』を繰り返し聴きながら、呑み続け、どろんどろんのでろんでろんに酔った。大幅に限度を超えて呑んでしまったけれど、それでも、気持ちの良い酔いである。良いではないか。いいじゃぁ、ないのぉ、幸せならばぁ……って、また、今日も佐良直美を口遊む、呑んだくれの老いぼれ昆布であります。


メデスキ、マーチン&ウッド『ザ・ドロッパー
The Complete Helen Ward on Columbia
ヘレン・ウォード『グディ・グディ

投稿者 nasuhiko : 19:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月15日

icon交換音楽02


「いやあ、グッドマン、良かったですよ。実にいい。親分がホワイトだからですかねえ、やたらにポップに響きました、ぼくの胸には。ジャズとか、そういうくくりではなく、純粋にポップな音楽の快楽というのかな。う〜ん、言葉っていうのは難しいですね」と腰を下ろした途端に、あたふたと語り始めた師匠である。「まあまあまあ、まずは一杯」と差し出した杯をぐいと干す。いつになく気持ちの良い飲みっぷりである。
 それにしても、あれですな、自分の好きなものを他人様に、それも、好感を持っている友人に認めてもらえるというのは嬉しいものです。幾久しく忘れていたけれど、学生の自分に級友とレコードの貸し借りをした時にも同じような感慨を得ていたのでしょうな。家内に気に入ってもらえたときもほんわかとした良い気分でしたな。もっとも、先方は早いとこあっちの国へ行っちまったので、それも遠い昔のよう。
「では、今度はヘレン・ウォードを聴いてご覧なさい。若い頃には彼女の歌声に随分胸をときめかせたものです。繰り返し繰り返し聴きましてねえ。ジャズ・シンガーとしてどうなのかってことになると、どうなのか。まあ、そんなことは評論家に任せましょうや。とにかく聴いてみて下さい。
 それから、この間お借りした『ザ・ドロッパー』なんですが、もう少し借りていてかまいませんか。一回目に聴いたときには何だかわからなくて、放り出しておいたんですけれど、昨日、泥酔しながら大音量で聴いていたら、急に、ぴかっと閃いたような気がするのです。もっとも、酔いが激しかったので、細かいことなんざ思い出せないんだけれど、何だかね、ああ、すごいなあ、なんて思ったもので、もうちょっと腰を据えて聴いてみたい」
「どうぞ、どうぞ。一聴してピンと来なくても聴き込んでいるうちにどっかーんとくるものもありますからね」
 その後、グッドマンとコチュジャンを肴に随分と盛り上がりましたとも。仕舞いには、「シング・シング・シング」に合わせて、箸で皿を叩き出す始末。ああ、この歳になって、新しい友と音楽談義に花を咲かせることができるとは思いもよらなかった。

太箸で皿叩き 唄えや唄え

グッドマンの『ライヴ・アット・カーネギーホール1938』 ヘレン・ウォードの『グディ・グディ』 メデスキ、マーチン&ウッドの『ザ・ドロッパー

投稿者 nasuhiko : 18:40 | コメント (0) | トラックバック

2005年01月09日

icon交換音楽01


 昼過ぎに田村師匠御来訪。早速、呑む。
「毎日毎日、天気が良くて結構なことですね」「そうですな。まあ、同じような晴れが続くと風景が変わらないような、つまり、時間が止まっているような気分になるのが難点ではありますがね」「でも、そんな日々の繰り返しの中で、ほんの少しの違いでもみつけるとうれしいじゃないですか」そんなとことんどうでもいい世間話を肴に杯を重ねる。隠居的生活の醍醐味ではある。もっとも、先様は隠居どころか、二十代半ば、これから大いに活躍しようという世代に属している。
「先日、約束したCDや本の貸し借りのことですが、ちょっと探せてもらっていいですか」と仰ると、レコードやCDがどかすか放り込んである棚のところでがさごそ始めた師匠である。私も嘗ては、相当に音楽に入れ込んでいた時期があるものの、所詮、我が家にあるものなんぞ、古ぼけたものが大半である。若い人たちの気に染むものなどあるのかしらん。そんなことを思いながら、暫く待つ。彼が手にしているのはグッドマンの『ライヴ・アット・カーネギーホール1938』である。ははあ、なるほど、こういうものをお好みか。
「今日はこれを借りてまいります。こういうのは、気になっていても、なかなか買う機会がありませんからね」「良いものを選ばれましたな。それはもう名演の中の名演ですよ。グッドマンも元気いっぱい、共演者連中もいい調子ですぞ。思い浮かべるだけで鼻歌の一つも出ようてぇ勢いです」
「私の方はこれを置いていきます。メデスキ、マーチン&ウッドっていうトリオの『ザ・ドロッパー』というアルバム。これもジャズなんですけどね。どうでしょう。まあ、あれこれ能書きをうんぬんしてもしょうがないですから、とにかく聴いてみてください。茄子彦さんが気に入るかどうかはわかりませんけれど、今時はこんなジャズもあるのかな、と」「聴かせてもらいますとも、聴かせてもらいますとも」
 未知の音楽に対する期待が、田村師匠の嗜好性に対する興味が、酔いによる過剰な血行が、少なからず、我が肋骨を押し広げ、胸を膨らませる。若き頃の、友との文通のような、そんな気分に近いだろうか。

冬晴れに響きけり ジャズの交換

グッドマンの『ライヴ・アット・カーネギーホール1938』 メデスキ、マーチン&ウッドの『ザ・ドロッパー

投稿者 nasuhiko : 18:47 | コメント (0) | トラックバック