2005年07月22日

icon湯呑み酒2


 やっとのことでマックで聴ける落語のCDをみつけることができた。そこら辺に新聞や本を放り投げてあったのがいけない。その下に埋もれていた。そうそう『ご存じ古今東西噺家紳士録』というものでしたな。間が空いたのでちょいと気を削がれたような気もするけれど、それでも落語は楽しいですな。
 さて、大師匠が御覧になったという伯楽という人を探してみると、ありましたよ。馬生の弟子なんですな。金原亭の親玉ですか。なるほどねえ。こりゃ不勉強でした。写真を拝見すると、目がぎょろっとして良い感じだね。残念なのは落語が収録されていないことである。「鞍馬」という出囃子だけ聴いてみたけれど、かえって、気分がもやもやしますな。しかし、あれですね、「火焔太鼓」というと、どうしても志ん生のものを思い出しちまうってのも、幸か不幸か。他の人が、しかも、現役で活躍しているような人がどんな風に演じるのか、興味深いですな。このCDには誰の「火焔太鼓」が収められているのだろう、と調べてみると、柳家つば女のものであった。また知らない人かね、と思ったけれど、写真を見てみたら思い出した。見たことのある顔だね。ついでだから……ついでだからってのはないね、ついでだからってのは。折角だから、ぐらいですか。兎にも角にも、先日戴いた末廣の湯呑みに酒を用意して、マックの前に腰を下ろして、柳家つば女の「火焔太鼓」を聴き始める。声も軽く、それなりに軽快である。こんな蒸す時節には、こういうのも悪くないね。嗚呼、益々、生で落語が見たくなる。近々に新宿まで出向くことにしよう。そうなんだけれど、一つだけ問題がある。あすこは酒を呑ませないからね。良い噺を聴きながら、澤乃井をぺろっと舐める幸せ。この楽しみがわからないのだろうか。末廣の亭主も野暮じゃないかね。

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2005年07月20日

icon湯呑み酒


 夕方になって、大師匠が一杯加減で御来訪。末廣の帰りだそうで、お土産として湯呑みを頂戴した。こんな老い耄れを気遣って戴くなんざ、実にありがたい話である。
 大分、酔っていらっしゃるもので、話の後先も内容もあっちこっちに取っ散らかっているけれど、その姿から存分に噺を楽しまれてきたのであろうと、ありありと推測される。羨ましい限りである。文楽を見ようと思っていたのに代演が入っていたとか、金馬が思ったよりしょぼくれていないとか、終いにゃ、のいるこいるという人たちの漫談の真似までして下さった。昼の取りは伯楽という師匠で「火焔太鼓」を掛けたという。私は伯楽という人を見た覚えがないのだけれど、立派な出来だったそうであり、そんなことを言われると、何とも羨ましくなる。上機嫌振りがね、何とも羨ましい。随分御無沙汰しておりますからね。明日にでも新宿まで出向こうじゃないか、という気になる。

 大師匠が帰られた後、マックで聴くことが出来る落語のCDのことを思い出して、伯楽さんを聴いてみようと思い立つ。ところが、あろうことか、件のCDがみつからないのである。何処へ行ってしまったのか。こんな狭い家の中で、しかも、あれこれと持ち歩くような代物じゃないのに、一体どうなっているのだろう。かれこれ半時間ほども頑張って探してみたけれど、到頭みつからない。仕方がないので、本で読みますか。火焔太鼓は志ん生の文庫本だったかね、と思いながら、目星をつけた本棚を覘いてみたのだけれど、あろうことか、志ん生の文庫本のシリーズがみつからない。一冊二冊じゃないのだから、そうそう紛れてしまう筈もないのだけれど、どうしたことだろう。釈然としない気持ちのまま、杯を重ねる。ううむ。

 探し物みつからぬまま 夏の酔い

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2005年03月25日

iconCD46枚分5


 本日も『ご存じ古今東西噺家紳士録』に嵌まっている老耄である。明治末期の「寿限無」を聞いてみた。考えてみると不思議なことですな。明治時代の「寿限無」ですぞ。今から百年以上前のものなのでありますぞ。文明開化というのは恐ろしいものである。尤も、一番驚いているのは、御当人、三代目蝶花楼馬楽であろう。草葉の陰で目を白黒させているに違いない。
 それにしても、毎日毎日楽しく過ごさせていただき、実に有り難い。ちょいと前までは起きる時には、どっこらしょっと膝や腰の痛みを気にしながらの有り様だったけれど、近頃じゃ、あらよっと、と、まあ、これは言い過ぎだけれども、気分としては、そのように威勢良く起き出すのであります。あまりに嬉しいので、田村師匠にこんなに素晴らしいものがありますぞ、と御報告申し上げた。落語ですか、笑点ぐらいしか知らないんですよ。一度、観に行ってみたいなあ、と仰る。勿論、次回は御一緒致しましょう、と約束した。物の序でに、一枚のCDに46枚分のものが収まる仕組みのことを質問してみたけれど、フォーマットが云々、圧縮率が何とか、音質が悪かったり何だりと……要するに、全く理解できなかった。まあ、そんなことはどうでも良い。それよりも、耳寄りなのは、まだまだこのような代物が世の中にはたくさんあるのだ、ということを教えていただいたことである。
 早速、インターネットを渉猟する。あれこれ興味深いものがあるのだけれど、マックのことが書いてないようなものがあって、不安になる。『江戸明治東京重ね地図』これなんざ面白そうなんだけれどねえ。マックのことが書いてないですからね。果たして見られるのだろうか。ううむ。
 他に候補にしているのは『新世紀ビジュアル大辞典』てえもの。動物の鳴き声が聞け、動く姿も見られるそうな。紙の辞書には出来ない芸当ですなあ。むずむずむずむず興味が湧いてきます。買っちまおうか。ううむ。取り敢えず、澤乃井を引っ掛けて、一休みしてから考え直しますかねえ。

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2005年03月24日

iconCD46枚分4


 未だ未だ『ご存じ古今東西噺家紳士録』に嵌まっている老耄である。朝起きて、あれこれと雑事を片付けて一段落したところで、マックの前に座って、このCDを弄るところからその日が始まる、というような有り様である。今朝は末廣で扇好が演じていた「寄合酒」を五代目の圓生、つまり、私が慣れ親しんだ圓生ではなく、その義理のお父さんに当たる先代の圓生のものを聴いた。軽快な語り口である。デブの圓生と呼ばれていたとあり、実際、写真を眺めるとかなりふくよかな顔をしている。けれども、声は軽やかで正に立板に水という勢い。さーっと流れるように進んで気持ちが良い。昭和初期の録音だと書かれているけれど、そんなものが聴けるなんざ、文明の有り難みにつくづく感じ入りますなあ。しかし、こうなると、生きている方は溜まったもんじゃない。先日の扇好青年(あるいは、中年)の「寄合酒」だって決して悪くなかった。なかなか結構なものでしたとも。寧ろ、大きに誉めたいぐらいである。誉めたいぐらいだったけれども、今、こうして、七、八十年前のものを聴いてみて、どちらが勝っているだろうか、と考えると、ううむ、難しいですな。これからの噺家は大変だ。同時代を生きる、同輩と比較され、先輩や後輩連中と比較され、そればかりでなく、彼ら自身、見たことも聞いたこともない大昔の人々とさえ比較されてしまうのであるから。尤も、お蔭で、勉強の機会が増える、ということも言えますな。ちょいと前なら、師匠に稽古を付けてもらったものを身に付けていくばかりだったろうけれど、今では、一つの話を色々なCDで繰り返し聞き比べたりすることもできるわけで、あれこれ研究して一番自分が良いと思う形を作っていくことが可能になっている、とも言える。尤も、情報が多ければ多いほど良いのか、というと、そうとも限らないでしょうな。余計な雑音に振り回されて、いつになっても何が自分に合っているのか、自分は何を目指しているのか、右往左往するばかりだということだってあるやもしれぬ。難しいですなあ。確かなことは、私のように、楽しむ側にとっては、こんな便利なCDというものがあるのは実に有り難い、ということでござんしょう。いやあ、長生きはしてみるものであります。

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2005年03月21日

iconCD46枚分3


 すっかり『ご存じ古今東西噺家紳士録』に嵌まっている老耄である。いやあ、これは素晴らしい代物だ。昼前から、マックの前に腰を下ろして、澤乃井を茶碗で引っ掛けながら、この中に入っている落語を順繰りに聴いたり、経歴を読んでみたり、師匠や兄弟弟子を眺めたりしていると、あっという間に時が経つ。便利で楽しい道具ですなあ。
 CDというものが普及し始めたことのは二十年程前だろうか。出始めの頃は機械も高いし、CDそのものも高いし、レコードに比べて見てくれが何とも味気ないし、何だか気が乗らないね、などと思ったのだけれど、何だ彼んだ言って、そう遅くならぬ内に購入してしまった口である。実は大きな感興は湧かなかったけれど、静かなクラシックを聴く場合に限ってはノイズが少ないという効果の程は歴然であった。けれども、何だか、全体にしゃりしゃりしていて耳馴染まぬような気がしたのも事実である。それで、暫くはCDは買わずにレコードに舞い戻っていたのだが、世間の流行りに押されて、じわじわと移行が進んだとでも言うべきか、ここ十数年は当たり前のようにCDを買い、当たり前のように聴いている。実を申すと、心の何処か奥底に、今でも何となくデジタル嫌いが残っている。要するに、音楽を滑らかな坂道ではなく、階段みたように処理されているとは、何とも理不尽な気がするのである。段と段との間にあったものは何処へ行ってしまうのか、と。まあ、この老い耄れた耳でそのような微細な差異を聞き分けられる筈もないのですがね。考えてみれば、田村師匠など、端からマックで音楽を作っている訳だから、全てがデジタルなのですな。元から階段であるのなら、それはそれで構わないのか。ううむ、何だか訳が判らなくなってきた。無理して無い智慧を絞るからこんなことになるのである。デジタルの問題は放っておこう。

 さて、コンピューターのCDですが、凄いですな。理屈はわからないけれども、兎にも角にも、これだけの膨大な情報がこの一枚のぴかぴかした板切れに収まっているかと思うと、正に隔世の感。SFの世界の話のようである。猫に化けた火星人の一団が、密かにペンタゴンやクレムリンに侵入して、機密情報をCD一枚に収めて持ち帰ろうとする。しかし、彼奴等の宇宙船が地球から脱出しようとするところ、ああ、間一髪、この時ばかりは東西の壁を越えて地球を守る為に手を取り合った地球連合軍が追い縋る。頑張れ、地球連合軍。手を取り合って。猫に化けた火星スパイの軍団を逃してはなりませぬぞ。いざ、いざ、いざ。

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2005年03月20日

iconCD46枚分2


 落語熱が沸きかけている折、丁度良いところに、先日注文した『ご存じ古今東西噺家紳士録』が届いた。早速、開けてみると、都家歌六という人の「思い出の楽我記手帳」という大判の本と古今東西の噺家を載せた大きな系図が入っている。勿論、肝心要のCDが入っているのは言うまでもない。本をぱらりぱらりと繰ってみて、系図をさらりと眺めてから、早速、CDに挑戦する。これはCDと言ってもオーディオのCDとは違うものなのでマックに入れて使うものなのである。何しろ、CD46枚分のものが1枚のCDに入っているという自己矛盾を含んだ存在なのである。コンピューターの世界はまだまだ謎だらけですな。
 兎にも角にも、マックにCDを入れてみると、うぃんうぃんとモーター音の如きものが暫く流れたが、何も起きない。ちょいと待ってみても、やはり何も起きない……と思ったのは、私の間違いでありました。マックの中にちゃんと『ご存じ古今東西噺家紳士録』というものが登場しておりました。それを開いてみて、いくつかある中の「ご存じ噺家紳士録OSX」てえものが私が開くべきものだと見当を付けた。前頭葉の硬化甚だしい老耄の私であるが、私のeマックがOSXというものだということは理解しているのである。師匠や大師匠の指導も無駄にはなっていないわけですな。大師匠には御無沙汰していますけれどね。どうしてますかね。
 さあ、始まりましたよ。突然、画面が真っ黒になって囃子が鳴り出した。おっかなびっくり使い始めたけれど、ははあ、成程、こりゃさして難しくはない。あっちこっちをどんどん押していけば良いだけである。早速、圓生を見てみると「寄席育ち」と「皿屋敷」が聞けるようになっている。どちらも聞いたことがないものである。マックで圓生に耳を傾けるなんざ妙ですな。妙だけれども、これはこれでありがたい。さて、昨日の面々を調べてみよう。扇橋、圓菊のお二人は私よりもちょいと年上になりますか。まあ、そうは言ってもほぼ同年配。ああやって寄席を務めているなんざ立派なものです。扇遊、扇好の両君は四十代。油が乗ってくる良い頃合いだ。なるほどねえ。これは便利な代物だ。文明の利器でも世の中を吹き飛ばしてしまうような恐ろしい兵器の類もあれば、こういう細かいものだとはいえ文化を支えていくものもあるわけですなあ。長生きはしてみるものだ、なんて感想は安易に過ぎましょうけれど、そう言いたい気になる。
 CD46枚分の仕組みはとんとわからないものの、収録されている演目を順番に聴いていくだけでも、当分は楽しめそうである。訳も判らぬうちにコンピューターの荒波に乗り出して良かった。実に良かった。ねえ。

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2005年03月19日

icon末廣亭に行ってきた2


 「百川」の、慈姑の金団を丸飲みにして目を白黒させるところを一所懸命演じている。私としては、もうそりゃ頑張っているんだけれども、お客さんを笑わせるどころではなく、酷いもんだね、何だいあれは、というような白い視線が方々から押し寄せてくる。笑わせているのではなく、笑われている次第。しかも、ばかだね、あいつは、ははは、というような、からっとした笑いではなく、あまりの不出来に失笑を買っているてぇやつだ。正直な話、私は自身の落語人生を放棄してもいいから、ご免なさいって謝って、板を下りちまおうかと思ったほど。あわあわあわあわ口から泡が出てくるだけで、もう次の台詞なんざ出てきませんよ。冷や汗がだらだらだらだら零れ落ち、慈姑の金団を丸飲みしたかのように目を白黒させている有り様……ってところで目が覚めた。
 それにしても、私てえ人間もほとほと単純に出来ている。昨日、寄席で楽しく過ごしたら、その晩には自分が噺家になっているんだからね。呆れるね。それにしても、夢の中で思い出しても圓生の「百川」は良かったねえ。慈姑の場面も良かったし、あの、ひゃあ、だか、ひょぇ、だか、百兵衛が素っ頓狂な声音で返事をするところなんざ、ただ単に莫迦が莫迦に見えるてえ丈でなく、戸惑いや素朴な人柄や何や彼やを内包しているような……って、まあ、落語見ながらそんなことを考える必要はないのだが、夢の中とはいえ、自分で演じてみると、圓生の深さが良くわかるてえもの。あんな人はもう出ないのかね。
 扇好だか扇遊だかが言っていたけれど、近頃では弟子入りしてくる年齢がどんどん高くなっているそうな。大卒なんてものではなく、三十代、中には四十代の人もいるという。本当だろうか。もし、本当だとして、そこに七十代の老人を受け入れる余地はあるだろうか。ないですかね。ないね。何しろ、此方人等、電車に乗れば女子供にも席を譲られる身ですからね。それでも、扇橋の門を叩いてみたらどうなるだろう。扇茄子なんてどうですか。入船亭の扇に茄子をくっつけて扇茄子。扇茄子と書いてセンナシと読む。正に、栓無し。どうしようもない野郎だてぇ意味でね。それにしても、扇橋師匠も弟子が同年配じゃやりにくかろう。兄弟子連中にしたって、七十過ぎたじじいを捉まえて呼び捨てにゃしにくいし、荷物だって持たせられない。一緒に電車に乗って、席が一つしか空いてなかったら年寄りを座らせるしかないわけで。まあ、入船亭一門の平和の為に、入門は諦めますか。

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2005年03月18日

icon末廣亭に行ってきた


 ぽかぽかと良い陽気で、近所では梅が満開。すっかり春めいた気分である。心も軽くなり、お蔭で遠出してみる気になった。遠出と言っても、本当に遠くに行くほどの気力体力が備わっているわけではない。そうだ、末廣に行ってみよう、と思い立つ。電車に乗っちまえば、十分二十分程の距離。老い耄れにはこの程度が丁度好かろう。
 何年振りだかまるで思い出せないのは、脳の老化が著しいというだけではない。実際、恐らく、十年ではきかない筈だ。とぼとぼよぼよぼ歩いて、どうにかこうにか、昼の仲入りに間に合った。久方ぶりであるにもかかわらず、何だか懐かしい感じがしない。妙に小奇麗になっているような気もする。記憶の中ではもう少しおんぼろな印象だったが、おんぼろなのは此方人等の脳みそであって、末廣亭は寧ろ若々しい。不思議だなあ。
 取りは扇橋。流石に萎れた感じがするけれど、考えてみれば、同年配であるからして、向こうから見りゃ、こちらも同じように萎れて見える筈である。ああ、ああ、貧乏たらしい萎れたじじいが見に来てやがらぁ、などと思われていてもおかしくはない。萎れているといえば、圓菊。全体にゆらゆらしているだけでなく、言い損じたり、もごもごと口籠ったり、堂々たる老化振りである。けれども、それが良い味になっているのだから、世の中何が幸いするかわからない。昔は、圓菊なんざどうとも思わなかったのだけれどね。いやいや、なかなか良い噺家じゃありませんか。
 扇好、扇遊という、扇橋門下の二人だが、これがなかなかどうしてしっかりしている。少々軽い感じもするものの、悪くない。扇橋さんも良いお弟子さんを持ったものだ。いや、良い師匠に付いたからこそ、彼らの今日がある、というべきか。

 暫く振りに覗く寄席の雰囲気は結構なものですな。お客さんも通振ったような、ある種意地悪な連中は見当たらず、のんびりと付き合う風でね。良かった。それにしても、中で呑ませてくれないのは困ったものですな。これで、酒さえ呑ましてくれるのなら、毎日でも通いますけどね。
 ああ、何だ彼んだですっかり疲れた。澤乃井を軽く引っ掛けて、今日はとっとと寝ることにしますよ。楽しい夢が見られそうだ。

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2005年03月11日

iconCD46枚分の


 新聞をつらつらと眺めていたら、何とも面白そうなものを発見した。『ご存じ古今東西噺家紳士録』という、膨大な落語のデータベースのような代物である。あれこれの記録もさることながら、何よりも魅力的なのは、256席、CD46枚分の演目が収められているというところ。CD一枚にCD46枚分のものが収まるだろうか。全く以て理不尽な話だが、例によって、コンピューターの世界は謎に満ち満ちているわけで、案ずるよりも買うが易し、ということになりそうである。
 圓生が亡くなってから、何となく落語から遠ざかっていたけれど、急にまたちょいと熱が出てきましたよ。新宿に出て、一杯二杯引っ掛けてから、末廣でも冷やかしてみようか。そんな気になったりしてね。昨日の夜にはそう思っていたんだけれど、今日の雨は随分冷たそうだ、なんてんで、ぐずぐずうじうじしているうちに、すっかり日が暮れてしまった。しょうがないから、本日は寄席は諦めて、濡れそぼつ荒れ庭を肴に澤乃井をやる。どこかに圓生や志ん生のレコードがあったと思うんだけれど、どこへ行ってしまったかね。
 志ん生、文楽、圓生、みんな亡くなってしまいましたねえ。そう言や、志ん朝さんももういない。今は、どんな噺家がいるんだろうね。こぶ平が正蔵を襲名するなんてどこかに書いてあったけれど、あの子の落語なんざ見たことがない。そんな大きな看板を戴いて大丈夫なのかね。余計なお世話ですか。確かに、余計なお世話でござんしょう。気になるんなら、寄席にお運び頂いて、御自分でお確かめ下さいませってね。

 この際だから一つ白状しますよ。ぶすっとしていて面白くない、なんて言われることが多かったもんでね、実は高校生の時分に、家でこっそり落語の練習をしてみていたんですよ。そうすりゃ少しは明るくなって、みんなに溶け込み易くなるに違いあるまい、なんて。今、考えると、中々に純情で、いじらしい話じゃありませんか。ところが、あなた、これが意外と難しくって。相当頑張ったんだけれど、三月と持たずに断念しましたよ。今さらながら、何だか照れ臭いですな。はは、お恥ずかしい限り。

 それにしても、丸ノ内線で何度かお見掛けした圓生師匠は、ちょいと意地の悪そうな、良い面構えをしておりましたなあ。もう生の圓生を見られないかと思うと、熟、残念だ。ばかうまってね、あの顔が突然浮かんできましたよ。今となっちゃ、笑えるよりも泣けますね。

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